<メッセージノート>

2015/9/27 (1テモテ 2:8-15) 

イエスに従う者としての品性を磨く

永原アンディ


8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました
15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

A. パウロはなぜこのような言い方をしているのか?


1) エフェソの教会の特殊事情 (8-11)



2) 創世記の無理な解釈(13, 14, 創世記 1:27, 2:21, 3:6)

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。(創世記1:27)
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(創世記2:22a)
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 (創世記3:6)


B. パウロが教えてくれること

1) 私たちにはどのような品性が求められているのか? (8-12)



2) 救いとは何か? (15)



メッセージのポイント
ここでのパウロの命令は私たちには無効です。しかしパウロにも同情の余地はあります。パウロ自身も自分の文化や時代を越えることは出来ません。エフェソの教会の当時の問題を解決するにはそう言うしかなかったのです。女であれ、男であれ、教会の平和を利己的な理由から脅かすことは誰にも許されてはいません。前半の警告(8-10)は、私たちも性別には関係なく耳を傾けるべきです。

話し合いのために
1) パウロのこの言葉から学べることは?
2) パウロの誤解は現代の教会にどのような影響を与えていますか?

子供達のために
男性女性にかぎらず、
1)どこにいても問題があったら、人と争うのではなく、神様に祈ること。
2)外見を飾るのではなく内面を神様に清めていただけるように期待して祈ること。
3)神様の言葉を従順に真剣に聞くことの大切さ。
を教えて下さい。高学年の子がいれば、例外なく罪の性質を持っている私たちが、どのように信仰、愛、聖さを身につけ発揮できるのかを考えさせて下さい。

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2015/9/27 (1テモテ 2:8-15) 

イエスに従う者としての品性を磨く

永原アンディ


A. パウロはなぜこのような言い方をしているのか?


最初にテキストの全体を読んでみましょう。


8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。
13 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。
14 しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました
15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

 皆さん、このパウロのエフェソの教会に対する指示をどう感じますか?パウロが言っていることは正しいのでしょうか?それとも間違っているのでしょうか?普通のキリスト教会は、聖書を「誤りのない神の言葉」と信じています。ところがその受け取り方は教会によってずいぶん違います。この箇所の指示を普遍的に守らなければならないものと受け取り女性を指導者として認めないグループは今でも多いのです。しかし私たちは、そのようには考えません。わたしたちは聖書が全体として誤りなく神の意思を伝えるという意味では、「誤りのない神の言葉」と信じています。しかし、そこには適切な解釈がなされなければならないと考えています。聖書は人間の言葉によって表現された神の言葉です。それは、その時代や文化の制約を受けているということです。ある人々は、解釈せずにそのまま受け取るべきだと主張します。一見、謙遜で正しい考えのように思えます。しかし、文字通り受け取ることは、時代や文化が違えば不可能です。文字通りに受け取らなければいけないと主張することが出来るのは、聖書が命じているすべてのことを文字通り正確に受け取れる人だけです。しかしそのような人は一人もいません。自分は聖書を文字通り受け取っているという人は結局、自分が従えないことには沈黙し、自分が人に命じたいことについては「神が命じているから」と押し付けることになります。このような人々を「原理主義者」と呼びます。それはイエスが反対された律法主義と本質的に同じです。キリスト教であれ、イスラム教であれ、他のどんな宗教においても原理主義者はイエスが嫌われた律法主義者の焼き直しです。私たちはイエスに従う者として律法主義に反対します。同様に原理主義もイエスの意思とは異なると考えます。
 それでは、適切な解釈はどのようにして可能になるのでしょう?学者にとってはかなり細かい議論になるでしょう。しかし私たちがおさえておくべきことは3つだけです。それは、①イエスの言葉を基準とすること、②語られた聖書の言葉が(それがイエスの言葉であっても)どの様なコンテキストで発せられたのかを考慮すること、そしてこの二つにも主観が入ることは防げないのだから③自分の解釈だけが正しく完全だとはいえないことを認めること、です。この3つで、私たちは原理主義者にならずに済みます。


1) エフェソの教会の特殊事情 (8-11)


 パウロは決して原理主義者ではありません。ましてや律法主義に対してイエスに習って徹底的に反対した人です。それでも、このようなことを言ったのには理由があります。それはエフェソの教会の特殊事情によるものです。エフェソの教会には問題がありました。男たちは、集まれば、心を合わせて祈るどころか、怒りをあらわにして言い争っていたことがわかります。一方で女性たちも、別の形で共に集う目的を見失っていました。内容の異なる男性に対する苦言と女性に対するそれを結ぶ「同じように」であるのは、問題の本質は同じだということを表しています。エフェソでは、男性には「怒りと争い」、女性には「虚栄心」という形で現れていたということです。本質は「自己中心」であり「愛に欠けていた」ということです。そのような状況の中で、間違った教えをする女性がいたわけです。これはエフェソの教会の牧師テモテに宛てた手紙です。パウロは普遍的な教えとしてこう言っているのではなく、その時エフェソで起こっていた問題の解決のためにこう言っていることを理解して下さい。パウロの男性中心の考え方は時々鼻につくかもしれませんが、赦してあげて下さい。女性が選挙権を得られたのは20世紀になってからです。21世紀になってもまだ様々な差別はあるのです。パウロは本質的には「キリストに結ばれた人はみな人種、身分、性別にかかわらず、恵みの相続人」(ガラテア3:27-29)だと理解しています。それでもパウロは、あたり前のこととして女性にはまともな人権が認められていなかった社会、男性が中心であることが自明であった社会に生まれ、育ち、生きた人だったのです。エフェソ教会を取り巻く社会もそのようなところでした。教会の中では、性別でも国籍でも身分でも差別はないという理解がありました。だからこそ女性が教えることで問題が起こったのです。その教えが正しかったとしても、女性が男性の上に立つリーダーシップを取ることは当時としてはするべきではないと考えても、彼を責めることはできません。ただし、同じことが今の私たちにも求められているというのは間違いです。


2) 創世記の無理な解釈(13, 14, 創世記 1:27, 2:22a, 3:6)

 このような状況の中で、パウロは創世記を持ちだしてこのように言ってしまうのです

なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。

 パウロがここで念頭に置いているのは、男の肋骨から女が作られたと書かれている創世記 2:22aです。

そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。(創世記2:22a)

パウロは当時の文化的影響を受けて、先に存在しているもののほうが優れていると当たり前のように言っています。しかし、創世記にはそのような考えはありません。それ以外のすべてを作った後で、それ以前のものを神に委託されて管理するものとして人間を作られたのです。しかも厳密に言えば、一番最後に作られたのは女性です。誰が支配者でしょうか?それはもちろん冗談で、言いたいのは、どちらにしても聖書には先に作られたものが優れているとは書かれていないということです。パウロに教えるのは僭越ですが、彼は同じ創世記の1:27も考慮すべきでした。そこには

神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。

とあります。

 女性は14節にもっと問題を感じるのではないでしょうか?

しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました


ここで念頭に置いているのは創世記3:6です。

女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。 (創世記3:6)


ここに書かれているのも時間的な順番でしかありません。アダムがだまされなかったというのは間違いです。アダムは蛇にはだまされませんが女にだまされたというのが事実です。アダムも共犯で罪を犯したのです。


B. パウロが教えてくれること

1) 私たちにはどのような品性が求められているのか? (8-12)


 それではこの手紙のパウロの言葉を通して、私たちは何を学ぶことが出来るのでしょうか?もう一度8-12節を読みましょう。

8 だから、わたしが望むのは、男は怒らず争わず、清い手を上げてどこででも祈ることです。
9 同じように、婦人はつつましい身なりをし、慎みと貞淑をもって身を飾るべきであり、髪を編んだり、金や真珠や高価な着物を身に着けたりしてはなりません。
10 むしろ、善い業で身を飾るのが、神を敬うと公言する婦人にふさわしいことです。
11 婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。
12 婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。


 この特殊な事情に対して書かれた手紙にも、私たちが普遍的なこととして受け取ることの出来る大切な教えがあります。それはどんな区別もなくイエスに従う者ならだれにでも求められている品性があるということです。エフェソの男性に見られた問題も、女性に見られた問題も、私たちが性別に関係なく陥りやすい問題なのです。さきにもふれたように、自己中心で、愛に欠けるという問題です。私たちの問題はイエスの時から2000年も経ったから起こるのではなく、出来たばかりの教会の時からいつでもあった問題であるということです。エフェソの人々が問われているのは「あなた方は何のために週の初めの日に集まっているのか?」ということです。本当に「神様を礼拝するために」ここに来ているなら、怒りも争いも虚栄心もここには居場所がないからです。「共に神様を礼拝する」ことは大切なことです。しかし「神様を」ではなく「共に」が一番の強調点になった時、神様ではなく、みんなと顔を合わせることが中心となった時、自己中心、愛の欠けが忍び込んできます。それは私たちにも貴重な警告です。やはりここでは、周りの人々、隣に座っている、神様が与えた大切な人のことも忘れて、神様だけにフォーカスすることが相応しいのです。聖書は「交わり」の大切さも教えていますが、それは「礼拝」の次に来るものです。だから皆さんにミニチャーチをしてほしいわけです。そうでないと、いつか礼拝の中心が「挨拶の時」になってしまいます。様々な理由で「挨拶の時」が苦手な人もいることを知っていて下さい。ハグすることはおろか、握手でさえ困る人もいるのです。本来「神様に会う時」が苦手な人はいません。
 男であろうと女であろうと、イエスに従ってゆきたい者は、怒りの感情を神様に処理していただき、自分の正しさを認めさせるような論争はせず、神様と語り合うこと、祈ることを大切にできるように成長させていただきましょう。女であろうと男であろうと、外面を飾ったり、取り繕ったりすることより、愛を表すということにおいてより優れた者に成長できることを願いましょう。


2) 救いとは何か? (15)


 最後に15節を読んで「救われる」ということについて考えてみましょう。

15 しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。

 「救われる」という言葉がこのような意味で使われている場所は他にはありません。私たちが最も普通に考えている「イエス・キリストの十字架を通して、神様との関係を回復する」という意味でないことは明らかです。旧約聖書ではもちろんイエスの十字架を通しての神様との関係の回復という意味で、救われるという言葉は用いられてはいません。神様によって民族が、個人の命が守られるという意味で使われています。新約聖書の場合は、ほとんどが「イエス・キリストの十字架を通して、神様との関係を回復する」という意味で使われていて、中には旧約と同じ使い方をされていたりもしますが、ここでの「救われる」は独特です。何を意味するのかもはっきりしません。それにしても、現代の私たちからすれば、ずいぶん乱暴な言葉に聞こえます。子供を望んでも生まれない婦人は少なくありません。この背景には、結婚と出産はサタンに由来として否定した当時の異端の活動があります。その上、教会の中では前例のない女性指導者が適切ではない教えをしていたことが、このパウロの例外的な発言になったのだと思います。つまりこの言葉もエフェソの教会の特殊事情から来ているものなのです。
 はっきりしていることは、どんな使い方であれ、救うのは神様だということです。わたしたちができることは、イエスを紹介することまでなのです。イエスに従う者にふさわしい品性を磨き、イエスを紹介して歩んでゆきましょう。


メッセージのポイント
ここでのパウロの命令は私たちには無効です。しかしパウロにも同情の余地はあります。パウロ自身も自分の文化や時代を越えることは出来ません。エフェソの教会の当時の問題を解決するにはそう言うしかなかったのです。女であれ、男であれ、教会の平和を利己的な理由から脅かすことは誰にも許されてはいません。前半の警告(8-10)は、私たちも性別には関係なく耳を傾けるべきです。

話し合いのために
1) パウロのこの言葉から学べることは?
2) パウロの誤解は現代の教会にどのような影響を与えていますか?

子供達のために
男性女性にかぎらず、
1)どこにいても問題があったら、人と争うのではなく、神様に祈ること。
2)外見を飾るのではなく内面を神様に清めていただけるように期待して祈ること。
3)神様の言葉を従順に真剣に聞くことの大切さ。
を教えて下さい。高学年の子がいれば、例外なく罪の性質を持っている私たちが、どのように信仰、愛、聖さを身につけ発揮できるのかを考えさせて下さい。