<メッセージノート>

2015/10/11 (ルカによる福音書 14:1-24) 

誰と友人になるのか?

池田真理


A. 私たちは自分の都合で友人を選ぶ



1) 敵か味方か (1-6)


1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」6 彼らは、これに対して答えることができなかった。


2) 見返りを期待できるかどうか (12-14)

12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」


B. その結果、神様との友情も断る (15-24)

15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」


C. 本当の友人は自分よりも他人を尊重する (7-11)

7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」


メッセージのポイント
主に従って生きるということは、毎日の挑戦です。イエス様が神様の計画に従って、私たちを愛するあまり命をささげられたように、私たちも命をかけて愛する挑戦を日々しています。それは広く平坦な道のりではありません。狭い戸口から入る努力が必要なのです。

話し合いのために
1) 救われる者は少ないのでしょうか?(23節)
2) 狭い戸口から入るために私たちがすべきことはなんでしょうか?

子供達のために
イエス様に従うということは、ただ教会に通うとか、寝る前にお祈りをするとか、親や先生の前でいい子にするということではありません。大切なのは心の向きです。教会に通っていてもいなくても、いい子でも悪い子でも、心がイエス様の方を向いているかどうか(イエス様を好きかどうか)が一番大切です。それは他の人にほめられるよりも、ずっと大変なことです。神様はみんなの心を見ています。*ルカのこの箇所が難しければ、マタイ7:21-23を読んでもいいと思います。

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<メッセージ全文>

2015/10/11 (ルカによる福音書 14:1-24) 

誰と友人になるのか?

池田真理

 
今日読むところは少し長いですが、全体を通して同じテーマが話されています。それは食事です。誰と一緒にごはんを食べるかという問題です。皆さんは、誰をごはんに誘いますか?誘われた時にはどういう気持ちで参加しますか?それとも断りますか?食事を一緒にするというのは、お互いのことをよく知りたいからするものです。反対に、一緒にいても楽しくない、その人と別に知り合わなくてもいいと思えば、誘いを断るでしょう。だから、誰と一緒に食事をするかという問題は、誰と仲良くするかという問題です。誰と仲良くするべきか、誰と友達になるべきか、イエス様は何と言っているのでしょうか。少しずつ読んでいきましょう。

A. 私たちは自分の都合で友人を選ぶ

1) 敵か味方か (1-6)


1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。2 そのとき、イエスの前に水腫を患っている人がいた。3 そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。」4 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。5 そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」6 彼らは、これに対して答えることができなかった。

 日曜日の礼拝の後に、みんなで食事を一緒にする教会は結構あると思います。また、ユアチャーチではあまりありませんが、ゲストスピーカーを囲んでの食事もよくあると思います。ユダヤ教でも同じのようです。昔も今も、安息日の礼拝の後に一緒に集まる習慣があるそうです。そして、高名な先生を呼んで話を聞きながら食事をすることもあったようです。イエス様がファリサイ派の議員の家に呼ばれたというのも、その習慣があったからでしょう。でも、この食事の場面は険悪な雰囲気です。「人々はイエスの様子をうかがっていた」とあります。イエス様を招待した人も、そこにいた律法学者たちもみんな、喜んでイエス様を迎えたわけではありませんでした。彼らにとって一番重要なことは、このイエスという人は、自分たちの律法の解釈に従うのか、それとも逆らうのか、ということでした。一言で言えば、この人は敵か味方かということです。彼らは自分たちの解釈が絶対正しいと思い込んで、それに逆らう人は自分たちの存在を脅かすものにしか思えませんでした。だから、イエス様が病人を癒しても感動しません。私たちも、自分は正しいと思い込んでいると、一番大切なことに気がつきません。自分に賛成してくれる人、自分を褒めてくれる人ばかり求めていると、本当に友達になるべき方を見失います。目の前で神様の奇跡が起こっているのに、感動出来なくなってしまいます。イエス様と友達になるということは、いつでもそれまで正しいと思い込んできたことを崩される準備をしていることです。自分のそれまでの価値観や考え方をイエス様によって壊され、作り直されていくということです。そして、今までは自分を脅かす存在に思えていた人にも心を開いて、関係を築いていくということでもあります。今の自分にとって敵か味方かなのではなく、イエス様にとって敵か味方かを基準にするということです。何が正しいかの基準は、自分ではなくイエス様です。そして、イエス様は正しさと同時に愛を求める方です。次に12-14節を読みましょう。 


2) 見返りを期待できるかどうか (12-14)

12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

先に読んだところで、水腫の人が出てきました。他の様々な病人と同じように、この人も罪深い者として差別されていました。4節でイエス様はこの人を癒して、家に帰しています。この人は決して招待されてここにいたのではなかったということです。でもイエス様は、そんな人こそ招待するべきなのだと言われています。なぜなら、「その人たちはお返しができない」からです。そして反対に、家族や友人など「お返しができる人たち」は招くなと言われています。貧しい人や体の不自由な人が他人のためになにもできないと言っているのではありません。これは食事を提供するという一つのたとえの中でのお話です。ここで言われていることは、誰かと仲良くしようとする時に、どれくらい見返りを期待できるかで決めてはいけないということです。でも、私たちが他の人のために時間や労力を捧げる時、どうしてもその成果を確認したくなるんじゃないでしょうか。どれだけ役に立ったか。どれだけ喜ばれたか。どれだけその人に良い影響を与えられたか。または、もっと思い上がって、どれだけその人を変えることができたか。なにかしら目に見える成果があったとしても、期待通りでなければがっかりします。でもイエス様は、そういう見返りを全く期待することなく、他人のために尽くしなさいと言われています。人間なので、誰かが喜んでくれれば嬉しいですし、そのことを素直に喜んで悪いことはありません。でも、イエス様の愛は、見返りを求めません。たとえ目の前の相手から期待通りの反応がなくても、イエス様の愛によってしていることなら喜んでできます。他人の反応に関わらず、喜んでできるかどうか。それが、イエス様の愛によっているのか、自分のエゴでやっているのか、見極める基準です。いつか神様が報いてくださるように、自分の都合ではなく神様の都合で、自分とは異質な人たちとも友人になりましょう。


B. その結果、神様との友情も断る (15-24)

15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17 宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。21 僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』22 やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。24 言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

 「神の国で食事をする人はなんと幸いなことでしょう」と言ったこの人が、なにを言おうとしていたのかは分かりません。でもイエス様の返答は皮肉に満ちています。神様に招かれているのに、その招きを断る人が多いという現実を伝えています。そして、その人たちは神様の国に入れないだろうというところまで言っています。なぜ、招かれていた人たちは次々と断ったのでしょうか?彼らの言い分は、みんなとても自己中心的なものです。招かれていると知っているのに、後に入った自分の都合の方を優先しています。それは、イエス様を試そうとして食事に招いた人、イエス様を敵視していた人々の状態です。そして、自己中心的に生きる全ての人の状態でもあります。自分の敵か味方かで他人を裁いているなら、イエス様の友人ではありません。また、見返りを期待できる人とだけ友人でいるなら、イエス様と友達にはなれません。そういう人は、神様も自分の都合のために利用するだけで、都合が悪くなれば神様との関係も切るでしょう。自分を助けてくれる間は神様と仲良くして、いろいろなことがうまくいかなくなると、神様はもういらないと思ってしまいます。この15-24節のたとえ話の中に出てくる、招待を断る人たちも、まさか自分が神様の招きを断っているとは思っていないでしょう。でも、神様よりも自分を優先するなら、こういう結果になってしまうということです。
 では神様との友情を保って、他人に対しても本当の友情を保つためにどうすればいいのか、もうお分かりだと思います。イエス様に親友になっていただくことです。最後に7-11節に戻って読みましょう。


C. 本当の友人は自分よりも他人を尊重する (7-11)

7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 これは、自分のメンツを保つために謙虚な態度でいなさいという教えではありません。イエス様がここで批判しているのは、上席を好む客の態度です。自ら上席を選んで座るというのは、自分が他の人よりも優れているとうぬぼれているからであり、他の人は自分より下だと見下しているからです。つまり自分が一番偉いと思っているということです。イエス様は、そうではなく、末席に行きなさい、つまり自分が一番低い者と思いなさいと言われています。他の人をみんな自分より優れた人たちと思い、尊重しなさいということです。理由は11節です。「高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」このフレーズは、ルカによる福音書の中でそっくりそのまま繰り返されているところがあります。自分は正しいと思ってうぬぼれているファリサイ派の人と、自分の罪深さを知っていて、ただ神様に憐れんでくださいと懇願する徴税人がでてくるところです。イエス様はこの二人のうち神様に受け入れられるのは徴税人の方だと言われます。(18:9-14)他人を見下して自分は正しいとうぬぼれるのは、神様の前にもそういう態度でいるということです。反対に、神様の前に打ち砕かれてどうぞ憐れんでくださいと叫ぶなら、それだけで私たちの他人に対する態度も変わります。自分が一番正しくて偉いなんて、思えなくなるからです。でも、神様の前にへりくだる人はどんな罪人だとしても、みんな神様に喜ばれ、神様の国で神様と共にごはんを食べてパーティーをすることになります。高ぶる者を低め、へりくだる者を高めるのは神様です。それはイエス様もそうでした。イエス様は神様ですが、私たち全ての下になり、私たちに仕える僕になってくださいました。自らすすんで誰よりも末席に行き、誰よりも低い身分になった方です。それは自分の命を守るよりも、私たちとの友情を守るためです。本当の友情とは、イエス様のように、自分よりも他人のことを思い、相手がどんな人であれ、どんな悪い者でも、尊重します。
 神様の宴会には誰にでも招待されています。ただ、神様の招待に応じるには、まず自分の心の最上席をイエス様に譲りましょう。イエス様は誰から招かれても、喜んで来てくださいます。そして、他の人間には決して与えることのできない、本当の友情を与え、親友となってくださいます。私たちがどんな人間かにかかわらず、何をお返しできるかも関係なく、ただそのままの私たちと親しくなってくださる方です。そして、私たちの人間関係がゆがんでいるところを、愛によって修復してくださいます。そして、私たちの周りで本当の友人を必要としている人たちの友人となりましょう。


メッセージのポイント
主に従って生きるということは、毎日の挑戦です。イエス様が神様の計画に従って、私たちを愛するあまり命をささげられたように、私たちも命をかけて愛する挑戦を日々しています。それは広く平坦な道のりではありません。狭い戸口から入る努力が必要なのです。

話し合いのために
1) 救われる者は少ないのでしょうか?(23節)
2) 狭い戸口から入るために私たちがすべきことはなんでしょうか?

子供達のために
イエス様に従うということは、ただ教会に通うとか、寝る前にお祈りをするとか、親や先生の前でいい子にするということではありません。大切なのは心の向きです。教会に通っていてもいなくても、いい子でも悪い子でも、心がイエス様の方を向いているかどうか(イエス様を好きかどうか)が一番大切です。それは他の人にほめられるよりも、ずっと大変なことです。神様はみんなの心を見ています。*ルカのこの箇所が難しければ、マタイ7:21-23を読んでもいいと思います。