<メッセージノート>

2015/11/15 (ルカによる福音書 4:6-16)
大きすぎる愛 池田真理


1. 罪人と共にいるイエス様を理解できない人々 (1-2)


9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
10 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。


2. 失くしたものを探し回る持ち主 (3-10)

- 探し回る理由


6 これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。


- 私たちは神様に探されている

9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
10 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。



3. 帰ってきた放蕩息子を喜ぶ父

- 放蕩息子が気が付いたこと (11-19)


6 これらのことを兄弟たちに教えるならば、あなたは、信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて、キリスト・イエスの立派な奉仕者になります。
7 俗悪で愚にもつかない作り話は退けなさい。信心のために自分を鍛えなさい。
8 体の鍛練も多少は役に立ちますが、信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。


- 父は息子を責めることなくただ歓迎する (20-24)

9 この言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
10 わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。



4. 父の寛大さを理解しない兄 (25-32)


11 これらのことを命じ、教えなさい。
12 あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。
13 わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。
14 あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません。その賜物は、長老たちがあなたに手を置いたとき、預言によって与えられたものです


メッセージのポイント
神様は広い心を持って、私たちを赦し、愛しておられる方です。その寛大さは私たちの理解も想像も超えていて、私たちには時に不合理に思えるほどです。でもだから、私たちは何も心配しないで神様についていくことができます。私たちが探す前に私たちを探してくださっている神様に信頼しましょう。

話し合いのために
1) 悔い改めるとはどういうことだと言われていますか?
2) 父親はなぜ放蕩息子の帰りを喜んだのでしょうか?それは私たちとどう関係していますか?

子供達のために
三つのたとえ話(羊・銀貨・息子)を全部取り上げるのは大変だと思うので、どれか一つだけ読んでみるのもいいと思います。どの話も、決して私たちは努力して神様の愛を勝ち取るのではないということが言われています。私たちは自分の力ではなにもできませんが、神様はただ私たちが神様と共にいることを喜んでくださる方です。私たちが神様を見失っている時でも、神様の方が私たちのことを探して見つけ出してくださり、喜んで迎えてくださいます。

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<メッセージ全文>

2015/11/15 (ルカによる福音書 4:6-16)
大きすぎる愛
池田真理


1. 罪人と共にいるイエス様を理解できない人々 (1-2)


1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。


 今日はクリスマス前で私が担当する最後のメッセージです。いつもそうですが、今年一年を通しても、神様の愛は私の想像をはるかに超えて大きいということを繰り返し思わされました。自分を責めても、他人を責めても、神様は誰も責めていないという事実は、時に受け入れるのが難しいと感じます。そういう時、神様は私たちの頭に収まる方ではないのだと思い出します。それはちょうど、今読んだファリサイ派の人々や律法学者たちがイエス様に不満を感じたのと同じです。彼らは今までも何回も登場してきました。彼らがイエス様に不満を感じた理由はただ一つです。イエス様が彼らの価値観に収まらない方だったからです。イエス様は、罪人の間違いを指摘して指導するのでもなく、ただ喜んで迎えて食事を共にしました。それは律法学者やファリサイ派の人たちにとっては「まともな人」のすべきことではありませんでした。イエス様が罪人たちに示した愛は、彼らの理解を超えていたのです。同じように、イエス様が十字架で示してくださった愛は、私たちの小さな頭に収まりきるものではありません。今日はこれから三つのたとえ話が出てきます。イエス様はたとえ話を通して、神様の愛は大きすぎて私たちには理解できないほどだということを教えて下さっています。まず最初の二つのたとえ話を読んでいきたいと思います。この二つのたとえ話では、神様は私たちを探し回る方なんだということが言われています。3-10節です。


2. 失くしたものを探し回る持ち主 (3-10)

3 そこで、イエスは次のたとえを話された。4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

- 探し回る理由

 見失った羊を探す人と無くした銀貨を探す人が出てきました。両方とも、見つけるまで念入りに探し回り、見つけたら他の人も呼んできて一緒に喜ぶと言われています。まず確認したいのは、なぜ探すのかという理由です。答えは簡単です。羊も銀貨も、元々その人の大切な持ち物だったからです。ペン1本でも、大切な人からもらったものだったり、思い出があるものだったら、なくなったらすぐに分かります。そして見つけるまで探し回ります。子供が迷子になってしまった時も同じです。迷子になった子供を、いつかどこかで会えるだろうと放っておく親はいません。自分でも探し回り、呼び出しをかけてもらって、見つかるまでは心配でしょうがないでしょう。なくしたものが大切であればあるほど、私たちは必死になって探します。そして大切なものが見つかった時の安心と嬉しさは、私たちみんな経験したことがあると思います。戻ってきてくれてありがとうと、何かに感謝せずにはいられないんじゃないでしょうか。イエス様は、だから同じように、私も罪人と友達になるのだと言われています。人間の目にどんな悪人に見えたとしても、みんな元々神様の大切な子供たちです。そして神様は、一人でも多くの人が自分の元に戻ってくることを願っています。そのためにイエス様という姿で私たちを探しに来てくださいました。私たちは神様に心配され、探されているということ、次にこのことをもう少し詳しくお話しします。



- 私たちは神様に探されている


 神様は私たちを探してくださっていると言われても、あまり実感が持てない方もいるかもしれません。私も時々分からなくなります。神様を信じるということは、私たちの意識的な選択であり決断でもあるというのは本当です。でも、それは私たちと神様の関係の片側でしかありません。あまりそちらにばかり重きを置いていると、神様を信じることは苦しいことになってしまいます。もう一方の側を忘れてはいけません。それが、私たちは神様に探されているということです。言い換えるなら、私たちが神様を探す前に、神様が私たちを探しているということです。今読んでいるたとえ話の中で、羊と銀貨は持ち主の元に戻るために何かしているでしょうか?何もしていません。それは羊も銀貨も人間ではないからだ、とは言えません。
7節と10節に注目してください。「7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」「10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」急に「悔い改める」という言葉が出てきます。イエス様はこのたとえ話を通して、確かに私たち人間について話しているということです。だから、私たちが悔い改めるということは、私たちが私たちを探しに来た方と出会うことだと言えます。自分は誰のものなのか、それをはっきりさせるということです。神様は、私たち一人ひとりをご自分の大切な子供としてくださっています。そして私たちが見つかるように、戻ってくるように、心配しながら探し回っています。
 
 では、次のたとえ話を読んでいきたいと思います。おそらく、イエス様のたとえ話の中で3本の指に入るくらい知られているお話です。放蕩息子 prodigal son という言葉を使うだけで、聖書を思い浮かべる人もいるかもしれません。本当は、放蕩息子の話というよりも、放蕩息子を迎える父の話といった方がいい内容です。最初に19節まで読みます。


3. 帰ってきた放蕩息子を喜ぶ父

- 放蕩息子が気が付いたこと (11-19)


11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』


  さっきは羊と銀貨というモノでしたが、今度は人間です。でも全てに共通点があります。それが、この放蕩息子が気が付いたことでもあります。放蕩息子は、父親からもらった財産を使い果たして気が付きました。自分は父親からもらったものがなくなったら何もできない、何もない、ということです。そして反対に、父親のところには何でも余るほどにあるということです。だから、自分は父の元に戻ればいいのだ、父のものになればいいのだと気が付きました。さっきの羊と銀貨のお話でも、悔い改めるとは自分は誰のものかをはっきりさせることだとお話しました。放蕩息子が気が付いたのも同じことです。父の元にいるのが一番安心で幸せなのだということです。それは同時に、自分は父がいなければ全く無能で無力だと認めることでもあります。神様がいなければ私には何もできませんとギブアップすることです。不思議ですが、色々頑張って痛い思いをして、最後に与えられる答えは、結局私は一人では何もできないのだということです。それはあきらめではなく、解放です。自分にできると思っていた自分が間違っていたと気が付くことです。だからもう一度、神様に頼ろう、自分の力に頼るのをやめようと思えます。私は無能で無力でも、神様にできないことは何もないのだから安心です。続きを読んでいきましょう。



- 父は息子を責めることなくただ歓迎する (20-24)


20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。


 父親は、放蕩息子が何も言う前に、遠くから彼を見つけて走り寄りました。そして、「何をやっていたんだ!」と怒るどころか、彼を着替えさせて宴会まで始めてしまいます。それはまるで、大失敗した息子なのに、大成功をしたかのようです。神様は私たち一人一人に、こんな風にしてくださる方です。勝手に出て行って、好き勝手なことをして痛い目に遭っても、自業自得だと思われるのが普通です。でも、神様は違います。今までのことをとがめることなく、ただ神様と共にいたいと私たちが願う、それだけで神様は喜んでくださいます。これまで私たちがどう生きてきたのかよりも、今何を願っているのかを神様は見てくださいます。
 
 さて、前の二つのたとえ話だったら、話はここでお終いです。失われていたものが見つかって良かった、それで終わりでした。でも、この放蕩息子の話にはまだ続きがあります。それは、羊のたとえ話でも触れられていなかった問題です。迷い出なかった優秀な99匹の羊の問題です。また、弟が遊び歩いている間、真面目に父の元で働いていた兄の問題です。残りを読んでいきましょう。


4. 父の寛大さを理解しない兄 (25-32)


25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

 兄の怒りは当然です。なぜ真面目な自分は喜んでもらえなくて、どうしようもないダメな弟が喜ばれるのか。羊の話でも、一匹を探すために他の99匹を危険な野原に残しておくのは賢明な判断とは言えないかもしれません。それでも、これらの
たとえ話の中心は、兄ではなく弟であり、99匹の優秀な羊ではなく一匹の迷い羊です。イエス様はたとえ話を通して、正しい人は報われるべきだという常識に疑問を投げかけています。正しい人だけが報われると考えたら、私たちはこの世界を正しい人とそうでない人に分けて考えることになります。それは今日最初に出てきた、イエス様に不満を感じるファリサイ派の人たちや律法学者たちと同じです。一体私たちは正しさの基準をどこに置いているのでしょうか。イエス様は、私たちに神様の基準を教えてくださいました。それはどこまでも赦し、どこまでも愛するというものです。基準をなくしてしまったと言った方がいいかもしれません。神様は、迷っている人を探し回り、遊びまわってきた人を迎える方です。神様の愛は、私たちの常識に到底収まりません。だから、その愛に時には打ち砕かれます。それは私たちの小さな世界がもっと大きくなるためです。今分からないことは神様に委ねて、次の一歩を自分の力ではなく神様の力で踏み出しましょう。


メッセージのポイント
神様は広い心を持って、私たちを赦し、愛しておられる方です。その寛大さは私たちの理解も想像も超えていて、私たちには時に不合理に思えるほどです。でもだから、私たちは何も心配しないで神様についていくことができます。私たちが探す前に私たちを探してくださっている神様に信頼しましょう。

話し合いのために
1) 悔い改めるとはどういうことだと言われていますか?
2) 父親はなぜ放蕩息子の帰りを喜んだのでしょうか?それは私たちとどう関係していますか?

子供達のために
三つのたとえ話(羊・銀貨・息子)を全部取り上げるのは大変だと思うので、どれか一つだけ読んでみるのもいいと思います。どの話も、決して私たちは努力して神様の愛を勝ち取るのではないということが言われています。私たちは自分の力ではなにもできませんが、神様はただ私たちが神様と共にいることを喜んでくださる方です。私たちが神様を見失っている時でも、神様の方が私たちのことを探して見つけ出してくださり、喜んで迎えてくださいます。