<メッセージノート>

2016/1/10 (I コリント 1:26-2:5, II コリント 12:9-10, 使徒言行録18:9-10)
弱いけれど強い、弱いから強い

池田真理


A. 弱さを誇りとする=主を誇りとする (Iコリ1:26-31)

26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。


B. パウロも弱かったけれど強かった (Iコリ2:1-5)

1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。


1. 神様は弱いパウロを励ました (使徒 18:9-10, IIコリ12:9-10)

(使徒 18:9-10)18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。

(IIコリ12:9-10)
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。



2. パウロの決心と誇り



メッセージのポイント
 イエス・キリストは弱い私たちのために死なれました。それが私たちの誇りであり強さです。私たち自身は弱いままですが、イエス様を信じることによって自分の弱さを恐れる必要はなくなりました。私たちの弱さは主の強さが現れるためであり、私たちの無力さは主の力が働くためにあります。だから、私たちは弱くても強く、弱いからこそ強いと言えます。

話し合いのために
1) コリントの教会の問題は何でしょうか?その原因は?それはユアチャーチにもあるでしょうか?
2) 2:2「あなた方の間で、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とはどういう意味でしょうか?

子供達のために
それぞれ得意なことと苦手なこと、最近嬉しかったことと悲しかったことなどをとっかかりにして、それが神様との関係の中でどう位置付けられるのか話し合ってみてください。特に、人間的にはマイナスと思われることでも、神様を頼るなら必ずしもマイナスではなく、むしろ神様に期待できるという意味でプラスなのだと教えてください。2:1-5と使徒言行録18章を中心に、パウロも弱かったからこそ神様に用いられたということを話してもいいと思います。

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<メッセージ全文>

2016/1/10 (I コリント 1:26-2:5, II コリント 12:9-10, 使徒言行録18:9-10)
弱いけれど強い、弱いから強い

池田真理


 新しい年が始まりました。新年の抱負は何か考えましたか?私は例年考えません。意志が弱いので、大体達成できないだろうと自分で分かっているからです。それか、年の途中でその抱負自体にあまり意味がないように感じてしまったりするからです。そんな後ろ向きな私とは違う皆さんは、目標達成に向けて頑張ってください。
 さて、年初めに何をお話しようかと考えていて、今日はルカのシリーズを離れることにしました。今日のお話が、これからの一年を皆さんが力強く歩む助けになれば嬉しいと思って今日の箇所を選びました。コリントの人たちに向けたパウロの手紙からです。パウロはその中である一つの決意を表明しています。その決意は、新年の抱負を持っている皆さんも、私のように考えていない皆さんも、人生の抱負として掲げていただきたい大切なことです。最初にIコリント1:26-31を読んでいきましょう。


A. 弱さを誇りとする=主を誇りとする (Iコリ1:26-31)

26 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 このパウロの言葉は、コリントの人たちの当時の状況にあてて書かれています。コリントの教会にはたくさんの問題がありました。それはこの第一コリントと第二コリントを読むと分かります。でもパウロがまず問題としてとりあげたのは、いろいろな問題が起こる中で、教会が分裂していたことです。教会の中でいくつかのグループができて、それぞれ自分たちの意見が一番正しいと信じて、反発しあっていました。そこでパウロは、「召されたときのことを思い起こしてみなさい」と問いかけています。それはコリントの人たちがパウロから初めてイエス様のことを聞いて信じた最初の頃のことです。その頃、信じた人たちの中には身分の低い者も高い者もいましたが、ただ一緒に喜んでいました。当時の階級社会の中で、身分の違いを超えて親しくするということはとても珍しいことです。それがどんなに他の人々に異常に思えたかは、現代に生きる私たちには想像するのが難しいかもしれません。でも、イエス様を信じる信仰というのは、信じる人たちの多様性に現れるということは現代でも言えます。もし教会に集まっているのが、たとえばインテリばっかりだったり、大企業の社長ばっかりだったりするとしたら、その教会は何か間違っているサインです。そこまで極端に偏った教会はあまりないかもしれません。でも、集まっている人たちには多様性があっても、教会のリーダーに社会的にも地位の高い人が選ばれる教会は少なくないと思います。それがいつも悪いとは限りませんが、教会は最初の頃のコリント教会のようであるのが健康なしるしです。つまり、教会に集まる人たちは、社会一般的に見ると異常に思えるほど、社会的地位にとらわれないで愛し合えるということです。この意味で、ユアチャーチは健康だと思います。年齢も国籍も職業もバラバラですが、こうして一緒に礼拝できることは本当に神様の恵みです。これからも、どんな人でもイエス様を一緒に喜べる教会でありたいと願います。
 では、なぜコリントの教会は最初の頃の状態を保てなかったのでしょうか?その答えを知ることは、これからのユアチャーチにとっても重要です。それは、私たちは小さくて弱いから選ばれたということを忘れたからです。たまにこんなことを聞きます。教会に通うような人は自分に自信がなくて弱い人たちだとか、神様にすがるしかないようなかわいそうな人たちだ、というようなことです。これは半分正しくて、半分間違っています。正しいのは、神様は確かに強い人のためではなく弱い人のためにおられるということです。パウロが27-28節で力説している通りです。神様は、弱い者、無力な者、世の中で見下されている者を選んで愛する方です。自分は強いし神様は必要ないと思っている限り、神様の愛を受け取れません。でも、半分間違っているというは、神様に選ばれた弱い者たちにとっては、自分の弱さはもう問題ではなく、むしろ誇りとなっているからです。自分が弱いと分かっていますが、みじめでもかわいそうでもありません。神様の愛に満足していて、他人に誇れるような強さなんて必要がなくなってしまったからです。誇るとしたら、弱い自分をそのまま愛してくださっている神様だけです。このことを一度は知って喜んでいたのに、時間が経過するにつれて、コリントの人たちは忘れてしまいました。その結果、人間的に能力の高い人や魅力のある人、知恵に富んだ人が教会の中でも注目されるようになりました。そうなれば、一般的に考えれば最初から一緒にいられるのが不思議なくらい身分も職業もバラバラだった集団は、内側から壊れていって当然です。自分が弱いことを忘れれば、私たちは自分が正しいと思い込むしかありません。そしてお互いに自分が正しいと主張しあって争いが起こります。だからパウロは「誇る者は主を誇れ」と呼びかけています。私たちは、弱い私たちを選ばれた主に感謝して喜ぶだけであり、それが私たちの唯一の誇りです。それは言い換えれば、自分の弱さを誇るということです。
 さて、パウロは続けて自分自身も弱いことに触れています。続きの2:1-5です。


B. パウロも弱かったけれど強かった (Iコリ2:1-5)

1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。


1. 神様は弱いパウロを励ました (使徒 18:9-10, IIコリ12:9-10)


 パウロは、自分がコリントに初めて行った時、「衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安だった」と言っています。このパウロの言葉が彼の誇張や謙遜ではないことを確かめるために、少しだけ当時の彼の状況を振り返っておきたいと思います。それは使徒言行録16章のあたりから書かれていることです。パウロはイエス様のことを伝える旅の途中でしたが、コリントに入る前は散々な目に遭っています。フィリピでは言いがかりをつけられて逮捕、むち打ち、投獄されました。次に行ったテサロニケでもまた言いがかりをつけられて暴動に巻き込まれ、隣の町まで追いかけられてなんとか脱出。次のアテネで多くの人にバカにされて、あきらめて向かった先がコリントでした。その時のパウロが「衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安だった」というのも分かります。でも、そんな状態で入ったコリントで、神様は思いがけず多くの協力者をパウロに与えて、多くの人がイエス様を信じるようになりました。そして更には、神様ご自身が幻で現れてパウロを励ましました。

(使徒 18:9-10)18:9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。

パウロはこんな経験を生涯のうちで何度も経験したのだと思います。心も体も弱っているにもかかわらず、神様が自分を通して働かれるという経験です。数年の時を経て書かれた、コリントの人たちにあてた第二の手紙ではこんなふうに言っています。


(IIコリ12:9-10)
12:9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。


 パウロはここで、自分は逆境の方がやる気が出ると言っているのではないということは、皆さんお分かりだと思います。そうではなくて、私たちは自分が弱くてできないことに注目する必要はなく、自分が弱いからこそ神様がしてくださることを喜べるのだということです。


2. パウロの決心と誇り


 さて、最後にもう一度注目していただきたいのは、Iコリントの2:2です。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。」 これは不思議な言葉です。パウロはコリントの人たちにイエス・キリストのことを伝えに行っていたはずです。それなのに、イエス・キリストのみを教えようと決心していたとは言わずに、自分自身が知ろうと決心していたと言っています。それも、十字架につけられたキリストのみを、と強調しています。ここに、今日最初にお話しした、私たちすべてが人生の抱負とするに価するものがあります。イエス様のことを伝えるということは、自分自身がイエス様を知ること、イエス様を生きることだということです。イエス様が、弱い私たちのために十字架で無力となり弱くなり、苦しんで死なれたから、私たちも無力となり、弱くなり、苦しむのです。でも、イエス様の苦しみによって私たちは生かされたので、私たちも自分の弱さを生かすことができます。パウロが、十字架につけられたキリスト以外に、何も知るまいと決心していた、と語るのはそういう意味です。私たちのためにあえて無力になり弱くなられた神様のことを伝えるのに、伝える私たちが自分の強さを振りかざしていてどうするでしょうか。私たちはただ、自分の弱さに主の強さが現れ、自分の無力さの中に主の偉大な力が働くことを期待して待っていればいいのです。だから私たちは、弱くても強く、弱いからこそ強いのです。これからの新しい一年を、自分が弱くてできないことに注目せず、弱さを誇りとして、神様のして下ることをもっと楽しみにしていきましょう。


メッセージのポイント
 イエス・キリストは弱い私たちのために死なれました。それが私たちの誇りであり強さです。私たち自身は弱いままですが、イエス様を信じることによって自分の弱さを恐れる必要はなくなりました。私たちの弱さは主の強さが現れるためであり、私たちの無力さは主の力が働くためにあります。だから、私たちは弱くても強く、弱いからこそ強いと言えます。

話し合いのために
1) コリントの教会の問題は何でしょうか?その原因は?それはユアチャーチにもあるでしょうか?
2) 2:2「あなた方の間で、十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」とはどういう意味でしょうか?

子供達のために
それぞれ得意なことと苦手なこと、最近嬉しかったことと悲しかったことなどをとっかかりにして、それが神様との関係の中でどう位置付けられるのか話し合ってみてください。特に、人間的にはマイナスと思われることでも、神様を頼るなら必ずしもマイナスではなく、むしろ神様に期待できるという意味でプラスなのだと教えてください。2:1-5と使徒言行録18章を中心に、パウロも弱かったからこそ神様に用いられたということを話してもいいと思います。