<メッセージノート>

2016/1/17
愛の誓い(ユアチャーチカヴェナント)

永原アンディ


1. 神様を愛し神様に仕えます (マルコ 12:28-30)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)

a. 礼拝を生活の中で最優先することによって

b. 十分の一の献げものによって



2. 互いに愛しあい仕えあいます (I ヨハネ 3:16-18)

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)


3. 世界を愛し世界に仕えます (マタイ 5:13-16)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)


メッセージのポイント
愛は好きという感情でもなければ、独占したいという欲望でもありません。むしろそれらの感情や欲望が愛することを難しくしています。私たちは愛しあう者として神様に創造されました。神様ご自身が愛する者であり、私たちをご自身に似せて作られたのです。それなのに愛しあうことが困難なのは、私たちが神様に従うことをせず自分の欲望に従っているからです。そこで神様はもう一度、本当に愛するということをイエス・キリストとしてこの世界に来られ十字架の上で身をもって現されたのです。イエスは、私に従いなさいと言われます。彼に従って歩み始めれば私たちは少しづつ愛することが出来るようになります。神を愛さない人は本当に人を愛することはできません。人を愛さないなら、どんなに神様に熱心でも神様を愛していることにはなりません。また、私達が互いに愛し合わないなら、誰がそんな人達の信じる神様の愛を求めるでしょうか?カヴェナントは人生で最も重要な事柄についての自分の決意です。

話し合いのために
1) なぜ私たちは教会のメンバーになるべきなのですか?
2) ユアチャーチカヴェナントって何?と聞かれたら、あなたはどう答えますか?

子供達のために
教会がどのような場所なのか、考えてもらい、神様を礼拝する、互いの交わり、社会への貢献の三つのことを大切にしていることを実例を挙げて話してあげてください。(例えば、神様に向かって真剣に歌おう、祈ろう。互いを大切に思い愛し合おう。世界に向かってどんな貢献をしているのか、これから何ができるのか)また、子ども達のお父さん、お母さん達はこういう約束をして教会の一員となって、神様に対して誠実な生き方をしているということを伝えてください。

<MP3 音声>

<ビデオ> 画面をクリックすると再生が始まります

<メッセージ全文>

2016/1/17
愛の誓い(ユアチャーチカヴェナント)

永原アンディ


1. 神様を愛し神様に仕えます (マルコ 12:28-30)

彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」 イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マルコ12:28-30)


 毎年、1月か2月の初めに「ユアチャーチのメンバーシップ」についてのお話をしています。まだ、イエスや、教会に興味を持ち始めたばかりで、イエスに従うということ自体に確信を得ていない皆さんにとっては、教会のメンバーになる、ならないということは自分には関係のない話と思われるかもしれません。しかし、聖書の教えによれば、イエスを神と信じ従って生きるということの中に、信じて従っている人々の集まりである教会の一部となるということが含まれています。ですから、今日お話しすることはイエスを神と信じ従って歩むとはどういうことか?ということでもあります。できるだけわかりやすくお話しますが、わからないことがあったら是非後で牧師たちに聞いてみてください。
 以前には他の教会のメンバーだった方で、去年からこの教会に集い始めた方には、この教会のメンバーになるかならないかの判断材料として聞いていただきたいと思います。目に見える一つ一つの教会には、それぞれ個性があります。引っ越してきて初めてその地域の教会を探すのはちょっと骨の折れる事柄です。教派が違えばかなり様子が違うし、同じグループであっても微妙に異なるところがあります。また、どうもそこに居続けるべきではないと感じて新しい教会を探す場合は、もっと慎重になるでしょう。そのようなプロセスの中で、イエスを信じてはいるけれど、もう特定の教会のメンバーにはなりたくないと思う人も大勢います。しかし私たちは、イエスを信じ、彼に従っていくということは、目に見える教会の一部となって生きることだと思っています。ユアチャーチである必要はありません。しかしどこかの教会のメンバーとして歩んで頂きたいのです。ユアチャーチでは、メンバーとヴィジターに差別はありません。自分が属する教会を決められない間は、そのままで出席していてくださっていいのです。むしろ、これからお話ししていきますが、ユアチャーチのメンバーには果たすべき義務があります。特権はありません。メンバーになるということは、「自分はユアチャーチというキリストの体の一部として機能することによって、神様に対する責任を負う」ということなのです。ですから私たちが今年もしようとしている、ユアチャーチカヴェナントと呼んでいる誓約に賛成できないなら、自分が喜んで責任を果たそうと思える教会を探すことをお勧めします。
 今までもメンバーだった方も、新しい思いで今年もメンバーとして歩んで頂きたいので、ぜひしっかりと聞き直してください。

 ユアチャーチカベナントは一言で言えば「愛します」という誓いです。「愛」ほど一般的に使われる意味と聖書が教える意味が異なる言葉はないでしょう。聖書の中で神様を形容した最も短い言葉は「愛」です。(神は愛です ヨハネの第一の手紙4:16) 愛という漢字は、人に物を与えるという意味から始まって、その人を大事にすることという意味に使われ、その人が「好き」という意味で使われるようになりました。英語のLoveの語源も、誰かを喜ばすことを意味する北欧系の古語です。どちらも今では「大好き」という自分の気持を表す言葉として使われるのが普通です。ところが自分の「大好き」という気持だけに従って生きるなら、人を喜ばせるのではなく、悲しませる傷つけることになりがちです。「自分が大好きなものだから、手に入れるために人を悲しませたり、傷つけても構わないということになるのです。そうなると「愛」は元の意味を失う事になってしまいます。「神は愛です」という聖書の言葉は、元の意味の愛です。私たちの信じる神は私達を大切に思われ、私たちのために犠牲を払うことを厭わない方、それが十字架で苦しまれた私たちの主、イエス・キリストです。聖書が愛しなさいという時、それはこのイエスの愛を指しています。ところがこの愛は、私たちの内側に自然にあるものではないのです。そうであれば世界は神様がいなくても誰もが平安で幸せであるはずです。私たちは、愛である神様との関係の中で、愛されていることを知って愛することが出来るようになります。愛が私たちのうちに現実となるためには、神様との関係を何よりも大切に育まなければなりません。そしてそれは神様を礼拝するということが生活の中で最優先順位にあるということを意味しています。そこで約束の第一は「私は神様を愛します」です、このことが、第二の「互いに愛し合う」こと、第三の「世界を愛する」ことを可能にするのです。マルコのよる福音書12:28−30を読みましょう。

a. 礼拝を生活の中で最優先することによって


 礼拝は神様と親密に過ごす時です。礼拝は神様に愛を表す最も重要な表現です。愛という言葉と同様に、礼拝という言葉にも注意が必要です。元の意味に立ち返らないと、礼拝は形式的なものになってしまうからです。礼拝という言葉には,神様の前に出てひざまずくことから、手を叩いて賛美する、立ち上がってほめたたえる、神様に向かって歌う、神様のことばに耳を傾けるなど様々な意味が込められています。単に日曜日の朝、教会で行う集まりではありません。ここでなくても、どこでも、誰とでも、一人でも礼拝は出来るのです。それは日曜日の朝を大切にしなくても良いということではありません。日曜日の朝、多くの人とともにささげる礼拝を大切にすることはいうまでもありません。なぜ日曜日なのか?それはイエスが死からよみがえられた日だからです。私たちと共にいてくださることを実感して、喜びや慰め、力に満たされて新しい週の歩みを始める上で、貴重な時だからです。しかしそれも教会堂でなければできないことではありません。礼拝は、神様と私たちのコミュニケーションの時です。それは一方通行のものではありません。神様の言葉をメッセージを通して聴くだけではなく、歌や祈りによって私達の側から表現されることです。神様からの言葉が語られるだけでなく、慰め、励まし、癒しが聖霊の働きとして一人ひとりに届く時です。大切なのは形ではありません。大切なのは、私たちが心をこめてささげることであり、神様がそれに応えて御自身を表してくださることを受け取ることです。


b. 十分の一の献げものによって


 自分の持っているものを神様の働きのために献げる。それは神様への愛を表すもう一つの方法です。多くの教会では日曜日の礼拝のプログラムの中で献金の時があります。私たちも献金が、私たちの捧げる礼拝の一部だと信じていますが、メンバーではない方も多く来てくださっているので、気兼ねしないですむように、献金の時間はありません。用意がある人が自分で献げられるようにBOXを置くだけにしているのです。
 私たちはメンバーが収入の1/10をささげることを聖書が教えている(マラキ3:10)と信じています。ですからメンバーになりたい人にはこのことを求めます。キリスト教会の中にはそう信じていない教会もありますから、そう思わない人はそういう教会のメンバーになることをお勧めします。ただ、聖書はこの基準とともに、誰かに強制されてではなく自発的なものであるべきです(2コリント9:6,7)、とも教えています。ユアチャーチのリーダーたちは誰にいくら収入があり、いくら献げているということを知りませんし、知るべきではないと考えます。これは一人一人と神様との契約なのです。すぐにこの基準をクリアしていなくてもいいのです。この基準に近づく意志持っていることが私たちに求められていると思います。
 キリストの体である教会もこの社会に存在する以上コストがかかります。メンバーが誠実にささげる額が、ユアチャーチが神様の働きのために使える金額であるということです。
 気をつけなければならないのは、お金には私たちをつまずかせる力があるということです。お金の使い方には個性があります。ある人にとっては有意義な使い方と思えても、それがある人にとっては無駄遣いと思えるのです。それぞれの教会にも個性があり献金の仕組みや支出の仕方も違います。そこで皆さんには、献金や会計の原則をよく理解して、献げること、使われることを喜んでしていただきたいのです。そのために、私たちは会計がオープンであることを大切にしています。カヴェナントメンバーには毎月、会計の報告がなされます。リーダーは、皆さんが献げる献金を注意深く取り扱い、神様の働きという目的のために用いることを約束します。


2. 互いに愛しあい仕えあいます (I ヨハネ 3:16-18)

イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。 世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。 子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。(1ヨハネ 3:16-18)

 私たちは、他の人とのつながりを持たずに、ひとりで神様に従ってゆくようにデザインされてはいません。互いに良いところを出しあい、足りないところを補い合って、神様の働きを担ってゆくのです(詳しくは ローマの信徒への手紙の12章、コリントの信徒への手紙 I の12章を読んでみて下さい)。イエスが地上での働きを始めるに当たって、最初にしたことはチーム作りでした。スポーツのチームが良い成績を上げるために大切なのはチームワークです。どんなに才能のあるメンバーがいても、チームとしてもまとまりがなければゲームに勝つことはできません。一人のスーパースターがいても、その人が徹底的にマークされたり、故障すれば活躍することはできません。それより一人一人は秀でていなくても、皆が献身的に働くチームのほうが強いのです。互いに愛し合いますとは、このティームのメンバーとして責任を負うということです。フットボールでは、新しい攻撃、守備のたびにハドルと呼ばれる打ち合わせをします。それをしなければティームはバラバラです。私たちも毎月、最終日曜日にハドルを行います。ぜひ参加してください。

 さてユアチャーチは共に戦うティームであると同時に、大きな家族でもあります。礼拝は神様に自分自身を献げる場です。人に会いに来る時ではなく神様に会いに来る時なのです。しかし私たちには家族の団欒も必要です。お互いを知るためには、共に過ごす機会がなければならないのです。そのひとつがミニチャーチです。ミニチャーチはリラックスした雰囲気の中で、必要な癒し・慰め・励まし・アドヴァイスが得られ、礼拝で受け取ったメッセージを日常生活に活かすこと、互いに愛し合うこと、仕え合う機会です。残念ながら、いまミニチャーチに参加できる人は多くありません。忙しい、場所がないということでしょうか?しかし、それでは互いに愛し合うことが十分にはできません。もっと新しいやり方があるのかもしれません。そうであるなら、私たちが霊的に窒息してしまわないうちに、新しい方法も探してみましょう。金曜日のPAWSは、礼拝した後も少し時間があるので一つのミニチャーチのような役割も果たしています。実際にどこかで会うことは月に一回くらいしかできなくても、FaceBookのグループを作って、祈り会うこともできます。

 チームとしてプレーに加わるということと、家族として互いを思いやり必要を満たし合うことが、第二の誓い「互いに愛し合い仕え合います」の内容です。


3. 世界を愛し世界に仕えます (マタイ 5:13-16)

「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」 (マタイ5:13-16)

 私たちはティームだとお話ししました。世界を愛するという働きのティームです。例えばここで毎週日曜日に礼拝を行うことも、多くの方にイエスに出会ってもらうための教会の働きです。礼拝に来る人が快適に過ごせるように掃除をしてくれる人がいます。週報などの印刷物を整えたり、音楽や映像を担当したり、ウエッブサイトを管理したり、子供の教会を導いたり、これらの仕事はカヴェナントメンバーが分担しています。メンバーになるとは、ユアチャーチのお客さんではなく、お客さんをお迎えする側になるということです。しかしカヴェナントメンバーの働く場所の中心はここではありません。教会は建物でもイヴェント会場でもなく、組み合わされたメンバー一人一人が教会なのです。私たちがここにいる時間は週に数時間だけです。それ以外のすべての時間、皆さんが時を過ごす家庭や、職場や、学校にユアチャーチはあります。そこであなたが悲しむ人とともに悲しみ、喜ぶ人とともに喜ぶ時、その人の必要を満たす時、慰め、励まし、助け起こす時に、そこでユアチャーチは働いているのです。神様に礼拝を捧げることは最も大切なことですが、礼拝は皆さんが月曜から土曜日までイエスとともに愛の働きをするための備えの時でもあるのです。ここは霊的なガソリンスタンドです。ここで神の愛を補給して、愛するという目的地に向かいます。何度でも確認しておきたいのですが、ここがユアチャーチではありません。カヴェナントメンバーがいるところにユアチャーチはあるのです。
 また私たちは、募金や献品等によって、自分が行ったことのない場所の会ったことのない人々の助けとなるということも出来ます。ユアチャーチではこれまで、津波の被害にあったスリランカの子どもたちや、エイズに感染したインドネシアの子どもたちのために、外で自由に遊ぶことのできない福島の放射線被害を受けた地域の子どもたちを支える働きに協力して来ました。
 みなさんがこのようにして世界を愛するとき、人々のニーズを満たすとき、人々はあなたを通して表される神の愛に触れるのです。そうすると、ある人はなぜあなたがそのような生き方をしているのかを知りたいと思い始めるます。そしてイエスに出会い、あなたと同じように歩み始めます。本当は誰も神様なしに正しく、満足に歩むことはできません。ですからイエスを紹介することは最高の愛です。しかし、あなたが愛しても一向にイエスを求めない人もたくさんいます。イエスに敵意を持つ人もいます。このような人を愛する必要はないのでしょうか?イエスは「愛しなさい」と言われます。愛し続けるのです。イエスを紹介することは愛ですが、愛することが、その人を「クリスチャン」にするための目的であればそれはもう愛ではありません。愛は見返りを求めません。イエスはそのように人々を愛されました。信じるなら食べさせよう、癒そうとは言いませんでした。私たちも同じようにしたいと思います。



メッセージのポイント
愛は好きという感情でもなければ、独占したいという欲望でもありません。むしろそれらの感情や欲望が愛することを難しくしています。私たちは愛しあう者として神様に創造されました。神様ご自身が愛する者であり、私たちをご自身に似せて作られたのです。それなのに愛しあうことが困難なのは、私たちが神様に従うことをせず自分の欲望に従っているからです。そこで神様はもう一度、本当に愛するということをイエス・キリストとしてこの世界に来られ十字架の上で身をもって現されたのです。イエスは、私に従いなさいと言われます。彼に従って歩み始めれば私たちは少しづつ愛することが出来るようになります。神を愛さない人は本当に人を愛することはできません。人を愛さないなら、どんなに神様に熱心でも神様を愛していることにはなりません。また、私達が互いに愛し合わないなら、誰がそんな人達の信じる神様の愛を求めるでしょうか?カヴェナントは人生で最も重要な事柄についての自分の決意です。


話し合いのために
1) なぜ私たちは教会のメンバーになるべきなのですか?
2) ユアチャーチカヴェナントって何?と聞かれたら、あなたはどう答えますか?

子供達のために
教会がどのような場所なのか、考えてもらい、神様を礼拝する、互いの交わり、社会への貢献の三つのことを大切にしていることを実例を挙げて話してあげてください。(例えば、神様に向かって真剣に歌おう、祈ろう。互いを大切に思い愛し合おう。世界に向かってどんな貢献をしているのか、これから何ができるのか)また、子ども達のお父さん、お母さん達はこういう約束をして教会の一員となって、神様に対して誠実な生き方をしているということを伝えてください。