<メッセージノート>

2016/1/31
互いを支えあう教会
(テモテへの手紙1 5:1-16)

永原アンディ


A. 大きな家族としての教会 (1, 2)

1 老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、
2 年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。



B. エフェソでのやもめへの保護から私たちが学べること (3-16)

3 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。
4 やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。
5 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、
6 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。
7 やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。
8 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。
9 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、
10 善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
11 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、
12 前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。
13 その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。
14 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。
15 既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。
16 信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。

1. エフェソの状況


2. 私たちの状況


メッセージのポイント
教会はおかれている状況によって、そのあり方は異なります。ユアチャーチが集う人々の対して、おかれている地域に対してできることは、他の教会とは違います。私たちが将来に向かってどのようなあり方を目指すのか、よく考え、祈り、話し合う事が大切です。しかしどのような教会でも失ってはいけない大切なあり方を忘れてはなりません。それは教会が大きな家族であるということです。しかもそれは孤立的、閉鎖的ではない“開かれた大きな家族”なのです。

話し合いのために
1) なぜパウロは寡婦のためにテモテに細かい指示を与えているのでしょうか?
2) 今日のテキストから、ユアチャーチの未来をどのように想像できるでしょうか?

子供達のために
ユアチャーチが大きな家族であることを印象づけて下さい。教会では実のお父さん、お母さんだけではなく、他の大人も自分の父母のように頼りにしていい存在であること。家で喜んで働きをするように、教会にもそのような場があることを励ましましょう。また教会には互いに助けあう面と、地域に向かって働きかける面があることを教えて下さい。

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<メッセージ全文>

2016/1/31
互いを支えあう教会
(テモテへの手紙1 5:1-16)

永原アンディ


 パウロがエフェソの教会を指導している若いテモテに、どのように人々を導いていくのか、実際の状況に即して具体的に教えている手紙です。ですから、私たちがここから学ぶことは、書かれている文字通りを、私たちのこととして受け取ることではありません。私たちはエフェソの教会とは異なる状況にあるからです。これは、この手紙に限らず、聖書の言葉の中には、普遍的に私たちに当てはまることとして受け取るべきことと、読む人たちの状況に合わせて解釈し直した上で受け取るべきことがあるのです。この区別に従えば、1、2節は私たちがそのまま受け取るべき言葉です。そして、それ以降は当時の状況と私たちのそれをよく検討した上で神様の意思を探らなければなりません。それではまず1、2節を読みましょう。


A. 大きな家族としての教会 (1, 2)

老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。

 この短い勧めから教会のあり方の一面がわかります。それは「家族」というあり方です。それは教会の様々なあり方の一つです。他にはどのようなあり方が思い浮かびますか?皆さんにとって教会はどのような存在なのでしょうか?教会は神様の癒しがあるクリニックのような働きを持っています。聖書の言葉を学ぶという点では学校のようでもあるでしょう。この全てを含んだ表現が「キリストの体」です。実はキリストの体は世界に一つしか存在しません。イエスに従った最初の弟子たちがイエスに命じられて、すべての人にイエスキリストの十字架の死と復活を通して与えられる罪からの救いという良い知らせを伝え、イエスに従って歩むというライフスタイルを勧めるために教会は始まりました。今では世界中にそれぞれの方法で、イエスと共に生きるチャンスを人々に提供している教会が多くあります。ローマカトリックという最大のグループ、ギリシャやロシアに多いオーソドックス、そしてユアチャーチもその流れの中にある、500年前にローマカトリックから離れる形でできたプロテスタントと呼ばれるグループの三つが代表的なものですが、それ以外にも多くの教会があります。イエスキリストが人となられた神、救い主で、十字架の上で払われた犠牲によって、私たちの罪が赦され、神様との関係を回復できると、信じるすべての教会はこの体に属しています。人間の体のそれぞれの部分にそれぞれの働きがあるように、教会の働きは様々です。その中には、それ自体は外に向かって働くわけではなく、体を健康に保つために働く様々な器官もあります。体全体に必要な酸素を供給する血管や体全体を調和させる神経のような働きもあるのです。それぞれの部分にフォーカスすれば、その中にも、無数の細胞からなる、異なった働きを担う、さらに小さな部分の組み合わせによって成り立っています。世界にひとつあるキリストの体全体と、ユアチャーチと、私たち一人一人の関係も同じです。コリントの信徒への第一の手紙12章にあるように、私たちには遠く離れた器官の働きについてわからないことがあってもいいのです。ですが、自分たちだけが正しいということは誰にも言えません。プロテスタント教会は激しい対立の末にできたのでカトリック教会との関係を冷静に見られない傾向が今でも残っています。プロテスタントのしかも福音派だけが正しい。そこにしか救いがないという人は、第一コリント12章21節の、目が足に向かって「お前はいらない」と言ってしまう過ちを犯しています。私たちはそうなりたくないものです。
 ユアチャーチは21世紀の日本の首都、東京の郊外に置かれてイエスの愛を伝えるために、どのようなものであったらいいのでしょうか?そのためには私たちは 「
老人を叱ってはなりません。むしろ、自分の父親と思って諭しなさい。若い男は兄弟と思い、年老いた婦人は母親と思い、若い女性には常に清らかな心で姉妹と思って諭しなさい。」つまり 「ただ、スタッフやお客さんや患者さん生徒としてここにいるのではなく、家族としてここにいるということを忘れてはいけません」とテキストは教えていてくれるのです。イエスが私たちに求めている働きは、私たちが家族のような信頼関係に結ばれていなければできないことなのです。会社やスポーツのティームとは違い、その人が望まないかぎりやめさせたりトレードに出したりはしません。それは家族の一員だからです。その人の能力や才能ではなく存在そのものを受け入れているということです。魂の病院、学校、イエスを宣伝するイベント会社としての技術がどんなに高くても、大きな家族のようではない教会は、新しい家族を加えることはできません。
 しかし、家族的な性質が強くなり過ぎればまた別の問題を引き起こすことになります。私たちが仲良くなればなるほど、集められた目的を忘れがちになります。共に時を過ごすことが最大の目的になってしまいます。いつの間にか自分と同じような人ばかりのグループになってしまいます。いったんそうなると外側からはとても入りにくいサークルになってしまいます。それはごく自然な成り行きなのです。時々、「ユアチャーチには若い人がいていいですね、私たちの教会は年寄りばかりで若い人がやってきません。どのように若者を集めるのですか?」と尋ねられます。私は「まず、私たちは人を集めようと思っていません。ただ、誰でもできるだけ気安く、初めて来てもできるだけ居心地の良いものであるように気を付けています。」と答えます。多くの人に来てもらい、家族になってもらいたいのになかなかそうならない要因の一つは、あまりにも家族的すぎて外からは入り込めないような雰囲気ができてしまっているからです。このことは自分たちではなかなか気付きにくいことなのです。私たちの名前がユアチャーチである一つの理由はここにあります。私たちがマイチャーチ、アワチャーチと思い始めた時、ユアチャーチの入口は狭くなり、出口は大きくなるのです。私たちがユアチャーチと自分たちを呼ぶ時、私たちは人々をここに集めるのではなく、私たちが出て行って、そこにいる人々のために働く教会ですと自己紹介しているのです。
 ユアチャーチは最初、若者しかいない教会でした。どちらかというと年配の人が来にくい雰囲気だったと思います。しかし若い人が集まり続け、その若者が順調に老人となったので、昔の若者と同じ世代の人も、本当の若者と同じ世代の人も加わりやすいあらゆる世代が集う教会となりました。若者の少ない教会が多い中にあって、私たちがそうではないことは嬉しいことですが、決してそうならないと油断していたら危険です。ここからが重要です。次の世代の人を迎えるために、今のここにいる私たちの責任は重大でなのです。1990年頃、ジェネレーションXという言葉が生まれました、1960年から1974年に生まれた世代のことです。意味は、それ以前の人にとって新しすぎて理解できない新人類ということです。しかしジェネレーションXはもう新人類ではありません。1975-1989年生まれのジェネレーションYがさらに進みすぎた新人類として登場し、今ではそれ以降の人々をジェネレーションZと呼んだりしています。30歳まではみんな新人類だったということでもあるのですが、重要なのはその幅が15年ほどあるということです。新人類の気持ちはわからなくても自分より10歳くらい年下の人たちのことならよく理解できサポートしてあげられるということです。年の離れた子や孫のことはわからなくても、自分の弟、妹世代ならわかってあげられる、彼らはあなたの子供や孫をわかってあげられるでしょう。それを続けていけばユアチャーチは、知恵を与えてくれるおばあさん、おじいさん、頼りになるおじさん、おばさん、お姉さん、お兄さん、可愛い弟妹、そして見ているだけで楽しい子供たちがいる賑やかで、けれども誰にでも開かれた教会であり続けることができます。


B. エフェソでのやもめへの保護から私たちが学べること (3-16)

3 身寄りのないやもめを大事にしてあげなさい。
4 やもめに子や孫がいるならば、これらの者に、まず自分の家族を大切にし、親に恩返しをすることを学ばせるべきです。それは神に喜ばれることだからです。
5 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、
6 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。
7 やもめたちが非難されたりしないように、次のことも命じなさい。
8 自分の親族、特に家族の世話をしない者がいれば、その者は信仰を捨てたことになり、信者でない人にも劣っています。
9 やもめとして登録するのは、六十歳未満の者ではなく、一人の夫の妻であった人、
10 善い行いで評判の良い人でなければなりません。子供を育て上げたとか、旅人を親切にもてなしたとか、聖なる者たちの足を洗ったとか、苦しんでいる人々を助けたとか、あらゆる善い業に励んだ者でなければなりません。
11 年若いやもめは登録してはなりません。というのは、彼女たちは、情欲にかられてキリストから離れると、結婚したがるようになり、
12 前にした約束を破ったという非難を受けることになるからです。
13 その上、彼女たちは家から家へと回り歩くうちに怠け癖がつき、更に、ただ怠けるだけでなく、おしゃべりで詮索好きになり、話してはならないことまで話しだします。
14 だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。
15 既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。
16 信者の婦人で身内にやもめがいれば、その世話をすべきであり、教会に負担をかけてはなりません。そうすれば教会は身寄りのないやもめの世話をすることができます。

1. エフェソの状況


 当時のエフェソの社会では、夫に先立たれた妻の生活は、現代よりはるかに困難でした。女性が自活するチャンスはほとんどありませんでした。現代の社会保障制度も完全ではありませんが、エフェソ社会にはそのような仕組みはありませんでした。そこで教会は、イエスに従って歩む未亡人たちに助けの手を差し出しました。けれども、教会自体がまだ小さなコミュニティーでした。十分に力があったわけではありません。助けることができる家族がいるのにこの恩恵にあずかる人も出てきたので、教会が本当に必要がある人を世話するためにルールが必要だったのです。
 エフェソの教会にこのようなアドヴァイスが必要だったことはわかります。問題はなぜこの特定の時代、地域の教会のリーダーへの勧めが、聖書の中に置かれているのか?ということです。関係ない問題なら神様はこの手紙を聖書の一部として後世に伝えなさいとは命じなかったはずです。
 ここからわかることは、この時代から、どのような形であれ教会は支え合う人々の集まりであったということ。さらに、支えが必要な人に対して助けられる家族がいるなら、まずその小さな家族の中で支えるという原則が示されていたこと。そして世話を受ける者は、その恩恵を受けるだけでなく、自分のできる働きによって忠実にイエスに支えることが求められていたということです。


2. 私たちの状況

 はじめにお話しした通り、このパウロの指示を私たちがそのまま実行しなさいと命じられているわけではありません。私たちの置かれている状況と、当時のエフェソの教会の置かれている状況とは全く異なります。世界に一つのキリストの体の一部として、21世紀の東京の郊外に、さまざまな国籍を持った様々な年代の私たちが大きな家族として、ここに存在することのユニークな意味を考えてみなければなりません。このような私たちが互いに支え合いながら、どのように人々に仕えることができるのでしょうか?カヴェナントのお話をした時にも言いましたが、神様を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして愛し、礼拝する人だけが、互いに愛し合うことができるのです。そして、この家族の中で互いに愛し合うことを知った人だけが、世界を愛することができます。まず心からの礼拝を捧げ続けましょう。そうすれば私たちは愛し合うことができるようになります。本当に助けを必要としている人を見落とすことがないように支え合うことができます。支えあいましょう。そうすれば、あなたは月曜日から土曜日まで時を過ごす、神の働きの最前線で見返りを求めず愛する人として歩めます。


メッセージのポイント
教会はおかれている状況によって、そのあり方は異なります。ユアチャーチが集う人々の対して、おかれている地域に対してできることは、他の教会とは違います。私たちが将来に向かってどのようなあり方を目指すのか、よく考え、祈り、話し合う事が大切です。しかしどのような教会でも失ってはいけない大切なあり方を忘れてはなりません。それは教会が大きな家族であるということです。しかもそれは孤立的、閉鎖的ではない“開かれた大きな家族”なのです。

話し合いのために
1) なぜパウロは寡婦のためにテモテに細かい指示を与えているのでしょうか?
2) 今日のテキストから、ユアチャーチの未来をどのように想像できるでしょうか?

子供達のために
ユアチャーチが大きな家族であることを印象づけて下さい。教会では実のお父さん、お母さんだけではなく、他の大人も自分の父母のように頼りにしていい存在であること。家で喜んで働きをするように、教会にもそのような場があることを励ましましょう。また教会には互いに助けあう面と、地域に向かって働きかける面があることを教えて下さい。