<メッセージノート>

2016/2/21
泥にまみれた種
(ルカによる福音書 17:1-10)

池田真理


A. 泥まみれの私たち


1.「つまずきは避けられない」 (1-2)

1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。



2. 他人の罪を赦すとは (3-4)

3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」



B. 種を持っているということ

1. からし種でいい (5-6)

5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。


2. 他人との関係を変える力 (7-10)

7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」


メッセージのポイント
神様の前に罪のない人は誰もいません。私たちは等しく神様の赦しと憐れみが必要です。ただ、イエス様を通して赦されているという事実が、唯一私たちが本当の意味で互いに励まし合い、受け入れあうことのできる理由です。種は泥の中に埋もれてしまっているようでも確かにそこにあり、そこにある限り成長する可能性があります。

話し合いのために
1) 他人の罪を赦すとはどういうことですか?
2) からし種一粒ほどの信仰とはどういう信仰ですか?

子供達のために
3-4節を中心に話してみてください。何度でも赦すというのは、常識的には考えられません。同じことを2度繰り返した時点で、普通は信用を失います。ではイエス様は何を言おうとされているのか、みんなで考えてみてだくさい。(答えは「ポイント」です。)

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<メッセージ全文>

2016/2/21
泥にまみれた種
(ルカによる福音書 17:1-10)

池田真理


 聖書にはたくさんのたとえ話が出てきます。イエス様は人々にとって身近なものを使って、神様を信じるとはどういうことか、神様とはどういう方か、教えようとしました。今日出てくる「種」もその一つです。種が畑にまかれて、やがて芽を出し、成長していくように、私たちと神様の関係も成長します。でも、毎日を生きている中で、私たちの成長を阻むものはたくさんあります。成長させてくださるのは神様なので、あまり心配することはないのですが、成長を阻むものが何かを知っておくことは大切です。そこで、今日は前半でその邪魔者が何かをお話して始めたいと思います。


A. 泥まみれの私たち

1.「つまずきは避けられない」 (1-2)

1 イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。2 そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。

 「つまずき」という言葉が急に出てきました。この言葉はこの教会ではあまり使いませんが、他の教会に行ったことのある方は聞いたことがあるかもしれません。教会用語churchy words の一つと言っていいと思います。教会に来なくなってしまった人に対して使うことが多いと思います。でも、ここでイエス様の言われているつまずくということは、神様を離れてしまうという深刻な問題です。教会の誰かとの関係が悪くなったことが原因で教会に通えなくなってしまうのも十分辛いことですが、心が神様から離れてしまうのとはまた別です。
 でもそんな深刻なことが必ず起こってしまう、とイエス様はここで言われています。それはつまり、残念ながら、一度は神様を信じても、神様から離れてしまう者たちは必ず出てくるということです。そしてさらに、人をつまずかせる者たちがいると言われています。人を神様から引き離す者たちがいるということです。
 一番単純な例で言えば、自分は神の代弁者だと勘違いしている偽牧師です。自分は正しいと思い込んで、自分が神であるかのように自分の考えを他人に押し付けます。素直に自分に従う人たちにはいい顔をしていても、反対者たちを徹底的に排除します。何かがおかしいと思った人たちが抵抗しても、その人たちの方が神様の敵だと言うかもしれません。そう言われてしまうと、正しい感覚を持った人たちでも混乱して、神様が何なのか分からなくなってしまうことがあります。そして最悪の場合、神様から離れてしまいます。
 これは単純な例ですが、大抵はもっと目立たないやり方で入り込んできています。自分を神様としてしまうのは、表立ってそう言っている偽牧師だけではありません。私たちは誰でもその傾向を持っています。神様から離れて、自分を神様とする傾向です。これが罪と呼ばれるものです。表では神様を信じていると言っていたとしても、心の中心に神様がいなければ結局は自分が中心になってしまいます。そうなると、自己実現のために神様を使うようになります。自分を正当化するために、神様の名前を使います。そしてそれが人を傷つけ、神様からを人を引き離してしまうこともあります。神様から離れて自分が中心になっている人は、自分だけでなく、他人も神様から引き離してしまうということです。だから私たちは、時に自分自身の罪によって、また時には他人の罪によって、神様を見失います。イエス様が「つまずきは避けられない」とはっきり言われたのは、それほど私たちが簡単に罪に陥るからです。


2. 他人の罪を赦すとは (3-4)

3 あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。4 一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」


 兄弟の罪を何回でも赦しなさいと言われています。それは、1-2節で読んだように、私たちはみな他人をつまずかせる傾向、罪を犯させる傾向を持っていることに関係しています。私たちは誰も、自分の力で罪から自由になることはできません。神様から離れて自分勝手に生きようとする性質は、神様を信じていても一生持ち続ける性質です。それが具体的に人を傷つけたり、自分の人生を壊すような行動に表れます。私たちは互いに赦し合うことを学ばなければ、互いに傷つけ合うだけです。それは、罪を見て見ぬふりをするのとは違い、罪は罪として見分けた上で、それでも神様はその人のことを愛していると信じることです。どんなに自分を傷つけたと思われる人でも、神様はその人のことも愛しています。それは受け入れがたいことかもしれませんが、そう受け止めることが赦すということです。自分もその人も、ただ神様の憐れみを必要としている罪人です。自分の罪も他人の罪も、神様によらなければ見分けることもできません。私たちにできることは、神様に憐れんでくださいと願うだけです。すでにお互いの罪によって傷つけあって、何が悪いのかもわからなくなっているような状態になることもあります。それでもお互いに神様に愛されていると受け止めることが、罪の連鎖を止める唯一の方法です。
 
 前半は、私たちがいかに罪深いか、罪にまみれているかということをお話ししました。気が重くなってしまいますが、後半ではそれでも私たちには希望があるということをお話しします。


B. 種を持っているということ

1. からし種でいい (5-6)

5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。


 イエス様の話を聞いていた弟子たちも、気が重くなっていたのかもしれません。何回でも兄弟の罪を赦して受け入れるということは決して簡単ではないとわかっていたのだと思います。だからイエス様に「私たちの信仰を増してください」と願いました。でも、それに対するイエス様の答えは意外な答えです。信仰が増えるためにどうすれば良いのかは答えずに、からし種一粒ほどの信仰があればいいのだ、と言われています。それは、何が正しくて何が間違っているのか、誰がどれくらい悪いのか、すべてがぐちゃぐちゃになっている中で分からなくなりそうでも、神様を信頼したいという心がそこにあればそれでいいのだということです。前半でお話ししたように、私たちは一生自分の罪と他人の罪から自由になることはできません。その中で私の信仰はどこにあるのかと嘆くこともよくあります。もっと神様を信頼できればいいのに、なかなか心配や不安が消えず、神様ごめんなさいということもあります。でも、畑の土の中で泥にまみれてどこにあるかわからないようなからし種でも、神様は大きく成長させてくださる方です。神様は確かに私たちに種をまいてくださいました。最後の部分を読みましょう。


2. 他人との関係を変える力 (7-10)

7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」

また急に話題が変わったようですが、おそらくそうではありません。このたとえ話を読んで、皆さん少し違和感を感じないでしょうか?このたとえ話の主人と僕の関係は、少し冷たい感じがします。僕が主人に仕えるのは当然なのだから、僕がやるべきことを全部やったところで主人は何も僕に感謝する理由はないと言われています。イエス様は、神様と私たちの関係がそういうものだと言われているのでしょうか?そうとも言えます。私たちがどんなに頑張って神様のために人々のために働いたとしても、私たちは神様に感謝されるわけではありません。「よくやった」と言ってくださるかもしれませんが、「ありがとう」とは言われません。それは、神様は私たちと対等ではなく、どこまでいっても私たちは僕であり神様は主人だからです。神様が私たちに求めているのは、どれだけ多くのことをするかではなく、どれだけ忠実に神様に従うかです。だから、私たちが一生懸命神様に従って働くことを神様は大いに喜んでくださいますが、感謝してくださるわけではありません。その意味で、このたとえ話の主人と僕の関係は、私たちと神様の関係を表していると言えます。
 でも、これが私たちと神様の関係のすべてではありません。なぜなら、イエス様は主人でありながら私たちのために僕となられた方だからです。イエス様は何千人もの群衆に食事を与え、自ら弟子たちの足を洗いました。そして最終的に、自分の命さえ私たちのために捧げました。ご自分の持てるもの全てを捧げ尽くしてくださったと言えます。そんな方が主人であるなら、この主人と僕のたとえ話はどういう意味を持ってくるのでしょうか?その答えは、このたとえ話がルカ福音書の中でこの位置にあることにヒントがあります。前々回から読んできた16章と今日の17章は全て、私たちが人々を愛することについてでした。お金の使い方も律法に従った生き方も、全て隣人を愛することについての教えでした。そして今日これまで読んできたテキストも、互いに赦し合うことについて書かれていました。この主人と僕のたとえ話も、私たちと他の人々との関係を表すものとして読み直すことができます。そのように読み直すと、私たちは、イエス様が私たちのために僕となってくださったように、他の人の僕となることができるのだと言われていることが分かります。主人は僕に感謝することはないように、私たちが仕える人たちも私たちの働きに感謝することはないかもしれません。むしろ、私たちが出来る限りを尽くしてその人に仕えることが要求されます。畑仕事の次は夕食の準備、給仕、それが終わってやっと自分の食事、というふうにです。そして、それを全部やっても、私たちはただしなければいけないことをしただけです、と言わなければいけません。
 イエス様がこのたとえ話の前に、からし種の話をしてくださっていて本当に良かったと思います。私たちには、自分の力で他人の罪を赦し続けることも、他の人の僕として自分を捧げつくすことも、決してできません。目の前にいつも見えているのは自分自身の罪と他人の罪で、土の中に埋められてしまったように何も見えない時もあります。それでも、イエス様はそんな私を赦して、命を捧げてくださった方です。そして私が生きるために必要なものを何でも与え、いつも共にいる僕になってくださいました。その動かない事実が、どんな時でも消えない唯一の希望です。泥にまみれて見えなくなりそうでも、確かにそこにある種です。その種がある限り、私たちにできないことは何もありません。イエス様が愛してくださったように愛し、捧げてくださったように捧げることができるようになります。イエス様はからし種くらい小さくてもいいと言われています。イエス様を求める心を与えてくださるのは神様です。それを持ち続けることができるのは聖霊様の力です。私たちは、ただそのことを喜んでいれば大丈夫です。この種には確かに、私たちを変えて、他の人たちとの関係を変える力があります。


メッセージのポイント
神様の前に罪のない人は誰もいません。私たちは等しく神様の赦しと憐れみが必要です。ただ、イエス様を通して赦されているという事実が、唯一私たちが本当の意味で互いに励まし合い、受け入れあうことのできる理由です。種は泥の中に埋もれてしまっているようでも確かにそこにあり、そこにある限り成長する可能性があります。 


話し合いのために
1) 他人の罪を赦すとはどういうことですか?
2) からし種一粒ほどの信仰とはどういう信仰ですか?

子供達のために
3-4節を中心に話してみてください。何度でも赦すというのは、常識的には考えられません。同じことを2度繰り返した時点で、普通は信用を失います。ではイエス様は何を言おうとされているのか、みんなで考えてみてだくさい。(答えは「ポイント」です。)