<メッセージノート>

2016/4/3 メッセージノート ルカによる福音書 17:20-37
今おられ、かつておられ、やがて来られる方 

池田真理


A. 今おられ、かつておられ、やがて来られる方


1. 今おられる方 (20-21)

20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」


2. やがて来られる方(22-24)

22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。



3. かつておられた方 (25)

25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。


B. 私たちはこの方を待っている

1. 神様の裁きを待っている (26-35/36)

26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。32 ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」†36 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。



2. ただ主を信頼して (37)

37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」


ヨハネの黙示録1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


メッセージのポイント
イエス様は再びこの世界に戻ってくると約束されました。その時今の世界は終わり、神様が世界を直接支配するようになります。現実はなかなか良くならないように思えますが、神様はイエス様としてこの世界に来られ、今も求める人と共にいてくださる方です。私たちは十字架で死なれたイエス様の愛を信頼して、始まりつつある神様の国を求めて今を生きています。

話し合いのために
1) 神様の裁きを待つとはどういうことですか?
2) 私たちの間で神様の国を求めるとはとういうことですか?

子供達のために
イエス様が再び来られること、世界の終わりが来ること、について教えて下さい。その上で、だから怖がるのではなく、今を神様の愛に生きることが大切だと教えて下さい。

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<メッセージ全文>

2016/4/3 メッセージノート ルカによる福音書 17:20-37
今おられ、かつておられ、やがて来られる方 

池田真理

 先週と先々週はイースターと受難週でシリーズを離れていましたが、今日はまたルカによる福音書の続きに戻ります。意図していたわけではありませんが、今日のメインテーマは十字架と復活に並んで大切なテーマの一つです。再臨と終末についてです。イエス様がこの世界に再び来られ、最後の審判によって神様の裁きが下り、この世界に終末が来るという教えです。私がまだイエス様を信じていなかった頃、これはとても危ない教えに思えました。イエス様が十字架で殺されたということは歴史の教科書にも載っていますが、世界の終末とかイエス様がまたこの世界にやってくるとか、そういうことはとても宗教臭くて怪しい感じがしました。でも今はもちろんそう感じていません。私の人生が終わるのと世界が終わるのと、どちらが早いのかは私には断言できませんが、どちらにせよイエス様と会えるのは楽しみです。「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言い方は、ヨハネの黙示録に出てくる言い方です。矛盾するようでしないのが神様の神秘です。今日は三つ目の「やがて来られる」ことに注目しますが、三つのうち一つでも欠けてもいけないし、一つだけを強調してもおかしなことになってしまいます。少しずつ読んでいきましょう。最初に20-21節です。

A. 今おられ、かつておられ、やがて来られる方

1. 今おられる方 (20-21)

20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」

 この二節は前回も読みました。その時もお話しし、いつも話すことですが、神様の国というのは、どこか遠くにあるのではありません。私たちが神様の愛に生きる時に私たちの周りに実現しています。それは、神様が今私たちと共におられる方だからです。神様は私たちに聖霊を注いで、私たちが自分の力ではなく神様の力に頼って生きることができるようにしてくださっています。そしてそれによって、本当にわずかずつでも、私たちを通して、神様の愛がこの世界に広まっていくようにしてくださっています。また、互いの人生の中で働いている神様の力を見て、私たちは励まし合うことができます。だから、私たちの信じている神様は、今も生きて働いておられる方なのだと言えます。続きを読んでいきましょう。


2. やがて来られる方(22-24)

22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。23 『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない。24 稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。

 神の国はあなたたちの間にある、と言われた直後に、しかしあなたたちはそれを見ることはできないだろう、と言われています。私たちはこの矛盾に苦しみます。イエス様の十字架を通して、私たちは神様が私たちをどれだけ愛してくださっているかを知りました。そして同時に、私たちの罪とこの世界の現状が、どれだけ神様の愛からかけ離れ、神様を悲しませているかにも気が付きました。だから、神様が早くこの苦しみと悲しみを終わらせて、この世界を全部神様の望むようなよいものに変えてほしいと願っています。この新約聖書が書かれた時代の人々も同じでした。特に彼らは、イエス様が再び来てくだされば彼らに対する迫害も終わり、苦しみから解放されると期待していました。でも、その期待を裏切るように、イエス様はなかなか戻ってきませんでした。そしてそのまま今日までもう2千年が経ってしまいました。この間に、たくさんの偽イエスが現れて人々を惑わしました。世界の終わりが近い、私はそれを証明できる、と言う人々です。この世界に失望している人にとっては、この世界が終わるというメッセージは魅力的です。でもイエス様は、こういう人たちは必ず現れるが、彼らに耳を傾けてはならないと注意しています。イエス様が予告した世界の終わりと神様の国の実現というのは、それが起こった時に私たち人間に信じる信じないの選択の余地はないものです。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる」と言われているように、その時は全ての人に分かる形でやってくるということです。聖書はその時について、地震が起こったり、戦争が起こったり、人々の苦しみが増すと言っていますが、何かある度にそれが世界の終わりが近いサインだと騒ぐ必要はありません。私たちはただ、この世界を終わらせるためにいつか必ず再びイエス様が来られるのだと信じるだけです。その時が来るまで、私たちに与えられている神様からのしるしは十字架です。次の25節です。


3. かつておられた方 (25)

25 しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。

 私たちが、今生きて働いておられる神様を求める時も、やがて来られる神様を待っている時も、その方はかつてここにおられた方だということがとても重要です。歴史上に実在した人として、イエスという人がどんな方だったのか、それを知ることが神様を知ることになります。神様は、イエス様という一人の人間として2千年前にこの世界に来てくださいました。そして、十字架で私たちのために苦しんで死なれた方です。それが神様がこの世界を変えるために、そして私たちの人生を変えるためにされたことです。今の自分の生活の中で、神様はどこにおられるのか迷う時、それでも共にいてくださると信じることができるのは、十字架があるからです。そして、なぜこの世界に苦しみがふれていて、神様はずっと放って置かれているのかと思う時、神様は放って置かれているのではなく、共に苦しんで待っておられるのだと信じることができるのも、十字架があるからです。イエス様は私を信じなさいと言いましたが、強制しませんでした。当時の宗教家や政治家たちを批判しながら、革命を起こそうとしたわけでもありませんでした。ただ、私たちの罪を全て引き受けて、神様の愛を教えてくださいました。それが神様のやり方でした。やがてイエス様が再びこの世界に戻ってこられるまで、私たちはこの十字架の愛に生きなければいけないし、それが私たちの希望です。
 ただ、イエス様が再びこの世界に来られる時、全ての人が神様に裁かれるということもイエス様ははっきり言われています。後半はこのことをお話ししていきたいと思います。


B. 私たちはこの方を待っている

1. 神様の裁きを待っている (26-35/36)

26 ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。27 ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。28 ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、29 ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。32 ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」†36 (底本に節が欠けている個所の異本による訳文)畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。

 最初に26-29節のノアとロトの物語に注目しましょう。創世記に書かれている彼らの物語は、神様が正しい者を救い、罪ある者を滅ぼすという分かりやすいお話しです。でもここでイエス様が言われているのは、神様のその裁きが起こるその瞬間まで、人々は何も気が付いていなかったということです。人々は食べたり飲んだり、毎日の暮らしを普通にしていました。結婚もしたし、商売も仕事もしていたし、そういう生活がずっと続くのだと思っていました。これは、聖書の他の箇所で世界の終わりの兆しとして戦争や自然災害が起こって苦しみが増す、と言われているのとは正反対に思えます。この食い違いは、多分、世界の終わりをどういう立場から見るかによります。イエス様はここで、弟子たちに向かって話しています。また、このイエス様の言葉を記録したルカは、このイエス様の言葉が彼の時代にイエス様を信じている人たちに届くことを願っていたでしょう。彼らはみんな、その時代の社会の中で少数派でした。中には、イエス様を信じることによって命を狙われたり、家族や友人に理解してもらえない人も多くいました。その彼らの周りには、いつも変わらず、食べたり飲んだり、結婚したり、商売している人々の日常がありました。それは時には残酷に感じる現実だったでしょう。それでも、彼らはイエス様を信じ続けました。ノアやロトも同じです。彼らの周りの人々がいつもと変わらない日常を過ごしていたとしても、彼らは問題に気が付いていて心を痛めていました。人々の心が神様を求めていないという問題です。だから彼らは、神様の裁きがなされることを待っていたし、実際に神様に逃げなさいと言われて逃げることができました。でも、その他の人々は、神様が自分たちを裁くとは思っていなかったので、その時はあまりに突然、彼らの思いもかけない時にやってきました。世界の終わりと神様の裁きというのは、それを待っている人にとっては驚きではありません。そんな時は来ないと思っているなら、それは突然やってきます。ただし、誰が救われて誰が滅びるのかは、私たちには分かりません。34-35節は私たちには謎のままです。連れて行かれた方がいいのか、残された方がいいのか。ただ分かるのは、同じことをしていても、一人は救われ、一人は滅びてしまうということです。
 では、その時を「待つ」とはどういうことでしょうか。それは、その時が来ると知っているだけでは「待つ」ことにはなりません。31-33節をもう一度読みます。

31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。32 ロトの妻のことを思い出しなさい。33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。


やがて来られる方は、かつておられた方、十字架で苦しまれたイエス様です。そのイエス様にならって、自分の命をささげるために生きること、それが、私たちが「待つ」ということです。それはいつもお話ししているように、一度信じて終わりではなく、一生かけて続ける試みです。かつておられた方は、今もおられると信じる戦いです。神様には私たちの罪も明らかです。それでも、イエス様がおられるから、私たちは待ち続けることができます。最後に37節です。


2. ただ主を信頼して (37)

37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」

 弟子たちはここまできてもまだ、それはどこで起こるのかと気にしています。それに対するイエス様の答えは、ちょっと意味が分かりません。ただ、おそらく弟子たちの質問に対して答えているのではなく、そんな質問をする弟子たちにあきれているのだと私は思います。世界の終わりがいつどこで起こるのか、それを知ろうとすることは、これまでイエス様が話されてきたことを何も聞いていなかったのかと思われても仕方ありません。イエス様は思わず「だからそうじゃなくて!」と言いたかったんじゃないでしょうか。でも、世界の終末とか、神の再臨とか、そういう話題に興味をそそられてしまうのは私たちも同じです。終末のしるしを探したり、それを言い当てられる人に注目したりする傾向は、今でも世界中の教会にあります。でもそれは、死体のあるところにはげ鷹が集まるようなものです。いつ世界に終わりが来るのか、誰が救われて、誰が滅びるのか、それを考えるのは時間の無駄です。無駄である以上に、神様にしかできない裁きを自分でやっているという意味では、大きな間違いです。私たちはただ、滅びるしかなかった私たちを救ってくださったイエス様を、終わりの日まで信じることに集中しなければいけません。
 今日最初に読んだように、神様の国は私たちの間にあります。今はそれはちらりちらりとしか見えませんが、それが全てを覆い尽くす時がきます。神様の愛は私たちの間で少しずつしか広がっていないようでも、終わりの日には全てを満たして、新しい世界が始まります。それはすぐ近くではありませんが、もう私たちの手の届くところに来ています。

ヨハネの黙示録1:8 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」


メッセージのポイント
イエス様は再びこの世界に戻ってくると約束されました。その時今の世界は終わり、神様が世界を直接支配するようになります。現実はなかなか良くならないように思えますが、神様はイエス様としてこの世界に来られ、今も求める人と共にいてくださる方です。私たちは十字架で死なれたイエス様の愛を信頼して、始まりつつある神様の国を求めて今を生きています。

話し合いのために
1) 神様の裁きを待つとはどういうことですか?
2) 私たちの間で神様の国を求めるとはとういうことですか?

子供達のために
イエス様が再び来られること、世界の終わりが来ること、について教えて下さい。その上で、だから怖がるのではなく、今を神様の愛に生きることが大切だと教えて下さい。