<メッセージノート>

2016/5/1 メッセージノート ルカによる福音書18:9-14, ローマの信徒への手紙14:1-12
「正しさ」の危険性 

池田真理


9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

1. 教会内にある落とし穴 (9-10)

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。


2. 人間が決める「正しさ」は… (11-12)


11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

a. 神様に基づいていない



b. 行いが全て



3. パウロが勧める「正しさ」(ローマ14:1-12)

ローマ14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。


4. 神様の憐れみに委ねる (13-14)

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。


メッセージのポイント
神様が求める正しさは、私たちが他人と比べてどれほど正しい行いをしているかどうかではありません。神様が見ておられるのは、私たちがどれほど神様の前に自分自身の罪を認め、神様の正しさを求めるかです。そして、神様の正しさはいつも憐れみ(愛)と共にあります。だから、私たちも正しさと同時に愛を求めなければいけません。

話し合いのために
1) このファリサイ派の人は何が間違っていますか?それはあなたとどう関係がありますか?
2) パウロが勧める正しさとは何ですか?

子供達のために
一人ひとり、自分は神様にどう思われていると思うか、話してみてください。先生や親に「いい子」と言われなくても神様の目にはいい子かもしれないし、逆に大人に「いい子」だと言われていても、神様の目にはいい子ではないかもしれません。神様は私たちに何ができたかできなかったかよりも、神様のことを大好きでいることの方を喜ばれます。

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<メッセージ全文>

2016/5/1 メッセージノート ルカによる福音書18:9-14, ローマの信徒への手紙14:1-12
「正しさ」の危険性 

池田真理


9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

1. 教会内にある落とし穴 (9-10)

9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。

 このたとえ話で今日最初に注目しておきたいことは、このファリサイ派の人と徴税人は、二人とも神様を信じている点です。二人とも「祈るために神殿に行った」のであり、二人とも「神様」と呼びかけています。それなのに、一方は間違っていて、他方は正しいとされています。でも、このファリサイ派の人自身は自分が間違っているとは全く思っていません。むしろ自分は正しい人間であることが神様に喜ばれていると思っています。そして確かに彼の言葉を読むと、彼の行動は全て正しく間違っていません。彼は泥棒でも詐欺師でもないし、不倫をするわけでもなく、断食して規則正しい生活をし、神様のために収入の一部を捧げていると言っています。それのどこが間違っているでしょうか。彼が自負しているように、一見とても健全な人のようです。でも残念ながら、神様から見れば彼は正しいとは言えませんでした。これが、ルカの時代も今も、教会の中にある落とし穴です。問題は、神様を信じていない人の中よりも、神様を信じている人たちの中にあるということです。教会の外よりも中に問題があるとも言えます。イエス様はこのたとえ話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」語ったとありました。それが神様を信じている人たちの問題、教会の問題、私たちの問題です。自分は神様を信じていて、正しい人間だと思っているかもしれませんが、そういう人たちの中にこそ問題があるということです。人間が考える正しさの基準と神様の基準は、表面的に重なる部分もありますが、根本的には違っています。どう違っているのか、少しずつ確かめていきましょう。


2. 人間が決める「正しさ」は… (11-12)

11 この福音のために、わたしは宣教者、使徒、教師に任命されました。
12 そのために、わたしはこのように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。というのは、わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

a. 神様に基づいていない

 11節の最初の一文を見てください。日本語と英語でニュアンスが違います。
ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。
The Pharisee stood by himself and prayed:
日本語で「心の中で(祈った)」と言われていますが、英語ではその言葉はなく、かわりに「(彼は)自分で(立って)」と言われています。この部分は、日本語でも英語でも、他の翻訳を見るとそれぞれまた違った言い方がされています。これは元のギリシャ語をどう解釈するか意見が分かれているからです。元々のギリシャ語では「自分に向かって to himself」という意味の言葉が使われています。それを文全体でどういう意味にとらえるのか、ここで結論を出す必要はありませんが、自分自身というのが強調されていることは共通しています。ここにこのファリサイ人の根本的な間違いが表れています。彼は祈っているつもりでも、自分自身の中で完結してしまっているということです。彼は神様に向かって話しているつもりですが、実は本当に神様の前に出て神様を見ているのではありません。彼は自分についての自分の意見を述べているだけです。それは祈りではなく独り言です。神様を信じていながら神様に正しいとされない人、自分は正しいと勘違いしてしまっている人の根本的な原因がここにあります。本当の意味で神様の前に出ていないという問題です。だから、正しさの基準を神様に求めずに、自分自身で勝手に決めてしまいます。そしてそのことに気が付きもしません。その結果、正しさの判断基準は単なる行いの良し悪しになってしまいます。


b. 行いが全て

 このファリサイ人の言っていることにもう一度注目してください。「私は他の人たちのようでないこと、この徴税人のようでないことを感謝します」です。この人は、人間的な行いの良さを他人と比べて自分を誇っています。目に見える行いが良いか悪いか、どれくらいしているかしていないかが、神様の正しさの基準だと勘違いしているからです。行いを正しさの基準とするなら、自分と他人を比べるしかありません。そして、他人のこともその人の行いに基づいて正しいか間違っているか裁いて見下してしまいます。それは自分を神様の位置に置いて、神様に代わって誰が正しいか間違っているかの裁きを自分で勝手にしているのと同じです。
 パウロもこの問題に心を痛めていました。パウロの言葉を聞いてみましょう。


3. パウロが勧める「正しさ」(ローマ14:1-12)

ローマ14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。2 何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。3 食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません。神はこのような人をも受け入れられたからです。4 他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。5 ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます。それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。6 特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。7 わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。8 わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。9 キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。10 それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。11 こう書いてあります。「主は言われる。『わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』と。」12 それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。

 パウロはここで、当時の教会の特殊な問題について書いています。当時の教会には、元々ユダヤ人でイエス様を信じた人と、異邦人でイエス様を信じた人両方がいました。そして、ユダヤ人は特定の食べ物を食べてはいけないという決まりをずっと守っていましたが、それはイエス様を信じたならもう関係ないはずだと主張する異邦人もいました。またユダヤ教の祭日を守るかどうかでも意見が分かれていました。パウロ自身は、イエス様を信じることが唯一の救いであり、ユダヤ教の決まりを守ることはもう必要なくなったのだと分かっていました。でも、多くのユダヤ人クリスチャンは、それまで生涯にわたって守ってきたユダヤ教の教えを突然今日から全部やめるということはできませんでした。そして中には、そういうユダヤ教の教えを守ることもイエス様に従う者の義務だと考えて、異邦人クリスチャンに自分たちの決まりを守らせようとする人もいました。反対に、異邦人クリスチャンの中には、ユダヤ人クリスチャンがユダヤ教の決まりを守り続けることをやめさせようとする人たちもいました。パウロは、ユダヤ教の決まりに囚われているユダヤ人クリスチャンのことを「信仰の弱い人」と言っています。反対に言えば、ユダヤ教の決まりにとらわれていない人は強い人ということになります。その言い方でいうと、パウロは強い人の意見に賛成していることになります。でもパウロはここで、弱い人が強い人にならなければいけないとは言っていません。ただ互いに受け入れなさいと教えています。パウロにとって一番大切なことは、みんなが強い人になることではなく、強い人が弱い人を傷つけてはいけないということでした。彼は、強い人が正しいと思うことと、弱い人が正しいと思うことが違っていてもいいと言っています。「それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきこと」だからだと言います。たとえ強い人の意見が結局神様の目にも正しいとしても、実際の行動をどうするかは各自が決めれば良いことで、誰も他の誰かに強制してはいけないということです。
 今日最初に、この問題は教会の中で起こるとお話ししました。それは、「何が正しいか」と「誰が正しいか」の議論が、私たちの中で混ざってしまうことが多いからです。「何が正しいか」は、パウロが言うように各自が神様との関係の中で決めることです。そして、「誰が正しいか」は神様だけが決めることです。「誰が正しいか」、私たちはよく知っていると思います。神様の前には誰も正しくないのです。私たちはそれぞれ、たった一人で神様の前に立たなければいけません。パウロもいうように、そこで「わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。」だから、神様の前に正しいとされるのは、ファリサイ人ではなく徴税人でした。神様に正しいとされるのは、自分が正しくないと知っていて、「罪人の私を憐れんでください」と言う人だけです。「何が正しいか」、どんなに正しく理解していたとしても、それによって「誰が正しいか」を決めようとするなら、その人はそれだけで神様の目には正しいとはされないということです。


4. 神様の憐れみに委ねる (13-14)

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 この徴税人のように、自分は正しくない、罪人であると認めることだけが、神様に正しいとされる条件です。神様は憐れみ深く、私たちの罪を赦してくださいました。だからパウロの言うように、何をするにしてもしないにしても、全ては神様への感謝でしかありません。「特定の日を重んじる人は主のために重んじる。食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです。」何が正しいのか、それはもうあまり重要ではありません。一番重要なのは、そこに神様への感謝があるかです。私たちは一人ひとり、できる限りの知恵と経験と想像力を使って、何が正しいのか、神様に喜ばれるのかを判断します。その結果出てくる答えは、人それぞれです。神様はその全てを、正しく裁かれます。私たちは、自分のことも他人のことも、ただ神様の憐れみに委ねるしかありません。
 
 今日は正しさの危険性についてお話ししてきました。何が危険なのかというと、「何が正しいか」と「誰が正しいか」を一緒にしてしまうことです。神様の正しさというのは、愛と切り離して考えることはできません。イエス様の十字架で、神様の正しい裁きと愛は同時に完成しました。神様の正しさの基準は人間が考えるどんな基準よりも高いですが、神様の愛が補ってくれました。神様の正しさには同時に愛があります。だから、愛がない正しさは、神様から見れば正しくないのです。山をも動かす信仰があっても、全財産を貧しい人のために使っても、愛がなければ無意味だとパウロが言っているのと同じです。(Iコリント13)神様は、私たちの正しさによらず、間違っているままで愛してくださいました。私たちはただ感謝して、人々を愛して生きていきましょう。

メッセージのポイント
神様が求める正しさは、私たちが他人と比べてどれほど正しい行いをしているかどうかではありません。神様が見ておられるのは、私たちがどれほど神様の前に自分自身の罪を認め、神様の正しさを求めるかです。そして、神様の正しさはいつも憐れみ(愛)と共にあります。だから、私たちも正しさと同時に愛を求めなければいけません。

話し合いのために
1) このファリサイ派の人は何が間違っていますか?それはあなたとどう関係がありますか?
2) パウロが勧める正しさとは何ですか?

子供達のために
一人ひとり、自分は神様にどう思われていると思うか、話してみてください。先生や親に「いい子」と言われなくても神様の目にはいい子かもしれないし、逆に大人に「いい子」だと言われていても、神様の目にはいい子ではないかもしれません。神様は私たちに何ができたかできなかったかよりも、神様のことを大好きでいることの方を喜ばれます。