*1999年11月第3週メッセージノート*
完全無欠の人(ユダの手紙 17-25)         

A. 誤解されている聖書の教える「完全」(マタイ5:48)

1、罪の自覚は出発点(ローマ3:23-26)

2、誰も完全にはなれない(行いによる完全、ローマ3:10-18)

3、誰でも主に結ばれて完全と認められる(信頼による完全、コロサイ1:28)

B. 神様の期待(ユダの手紙 17-23) 

1、人を見る目を養う

2、信仰をよりどころとして生きる

3、聖霊の導きの本に祈る

4、主イエスの憐れみを待ち望む

5、神様の憐れみと義を宣べ伝える 

C. 神様が保証していてくださること(ユダの手紙 24-25) 

1、罪に陥らないよう導いていてくださる

2、喜びにあふれさせてくださる

3、非の打ち所がない者として立たせてくださる

 

*メッセージのポイント* 

 完全な人は一人もいません。それでも神様は私たち一人一人のうちにかけがえのない価値を見いだし、非の打ち所のないものと認めてくださいます。私たちが心がけるべきことは、自分で完全になろうという不可能な努力ではなく、愛においても、正しさにおいても、赦しにおいても唯一の完全な方としっかり手をつなぎ歩もうとすることです。それは具体的には2、で紹介した5つのことを生活の中で現してゆくことです。

*ミニチャーチのためのヒント*

1、クリスチャンにとって完全であるとはどういうことでしょう?

2、神様が私たちに約束してくださったことは?

3、どうしたら完全でいられますか?

ディボーションノート
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月20日(土)ユダの手紙1〜4/黙示録17:12〜14

 スポーツの種類によって戦術は違いますが、よく攻撃は最大の防御といわれます。サッカーだったら守りに守ってカウンター狙いという作戦も考えられますが、それも同点のときか、リードしているときでしょう。悪の力が働いているこの世界でのクリスチャンの生き方もまた「攻撃が最大の防御」が当てはまるのではないでしょうか?私はサタンに負けたくないし、引き分けでいいとも思いません。私たちは神様に守られていると同時に召されています。召されるとは神様の働きのために呼び出されているとういことです。そしてその働きは戦いと表現されるほど真剣に危機感を持って取り組まなければならないものなのです。悲惨や暴虐、一見キリスト教風の教えが氾濫する世の中にあって主に堅く立って離れないだけではなく、それぞれに与えられている役割を果たすことが求められているのではないでしょうか?

11月21日(日)ユダの手紙5〜8/出エジプト記31:1〜14

 最近仕事を始めた私は、神様と私のために遣わされている天使はきっとかなり忙しくなっただろうな、と思っています。というのも、毎日3−4時間車の運転をするので時々ヒヤッとすることが起こります。ほとんど毎日、あるいは2日に一回ぐらいは。自分では注意しているつもりなのですが、それでも「アッ!」と思った次の瞬間、「ああー守られた、Thank you Lord!!」と声に出さずにはいられません。 信仰の歩みはどうでしょうか。信じているよ、大丈夫、何とかやっているから、と思っているうちに、全てのことが当たり前になり、恵みが新鮮でなくなり、感謝が遠くなって行く。王様の席にまた自分が座って、物事が思い通りにいかないと疑ったり神様のせいにしたり・・・。 イスラエルの人々をエジプトでの苦しみから解放された神様の愛は今でも変わりません。その愛は今日、あなたのためにあります。あなたに対する神様の願いと計画をもっと求めて行く時に、私たちの信仰(信頼)はまた成長するのです。いつのまにか離れて事故を起こさないために、今日助手席にも心の王座にもイエス様に居ていただきましょう。

11月22日(月)ユダの手紙9〜13/民数記16

 いつの時代でも人間の性質は同じです。知らず知らずのうちに自分の意にとらわれ、その結果神様の意志がないがしろにされてしまいます。この箇所に出てくる旧約の数人の人達と現在の私達の性質にも共通点が見つけられます。そしてまた神様の存在も旧約の時代でも現代でも、不変の事実としてあるのです。これも時代や場所を超越した共通点です。しかし旧約の人々にはイエス様による救いは与えられていません。民数記16でコラは神様に反抗した結果滅ぼされてしまいます。私達も神様に反抗したら滅ぼされてしまうのでしょうか。私達にはイエス様が与えられているので、イエス様を通して赦され、正しい道に戻ることができます。コラのように滅ぼされることは決してありません。寛大で優しい神の性質をそこに見ることができます。これに報いるためにも、ただイエス様に赦してもらい、ついていくことの大切さを確認することができました。

11月23日(火)ユダの手紙14〜16/フィリピの信徒への手紙 2:12〜18

 私達夫婦は神様から子供を育てるという仕事を与えられています。将来子供自身が神様に従いたいと決心できるように、親として何ができるだろうと考えていますが、フィリピの信徒への手紙(2:12〜18)にヒントをたくさん見つける事ができました。子供はすぐ側で見ています。私が神様によく聴き、不平や理屈を言わずに神様の願うことを行っているか?まわりの人とどんな関係を持っているか?私がその労苦を後悔せず、誇りに思っているか?心から喜んでいるか? 家庭ではいつも格好をつけているわけにいきません。弱い部分も本音も出てくる中で、私達親が握っているもの、離したくないものを子供はきっと見つけるでしょう。そしてそれが本当に良いものだと思えるなら、自分から求めてくれるに違いないと思います。いつか神様の前に立つ日のためにも、私がしっかり歩めるようにと神様がこの責任重大な仕事を与えてくださったのかもしれません。

11月24日(水)ユダの手紙17〜23/ヤコブの手紙5:19〜20

 今朝、テレビをつけるとライフスペースというニューエイジの事件が報道されていました。オウム事件の時もそうでしたが、常識も教養もあるはずの大人がこんなにも洗脳されてしまうのかと驚かされます。多くの人は今、信仰宗教、カルトという言葉には非常に敏感です。警戒するあまり、キリスト教と聞いても、宗教はちょっとと尻込みする人もいるくらいです。一方で、これは宗教ではありません、自己啓発セミナーです、と言われると人は簡単にその警戒心を失い、ごく軽い気持ちでかかわり、引き込まれていきます。クリスチャンであればそんなものにだまされるはずはないと思われるでしょうか?今日の聖句には「最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい」、「聖霊によって祈りなさい」、「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい」とあります。私たちがいつもかたく真理の上に立っていなければ足もとをすくわれる可能性があるからです。恐れることはありませんが、敵の策略を知り、霊的な戦いの時に備える必要があります。自分のためだけではありません。私たちの回りに暗闇で迷っている人がいるかもしれないのです。私は実際に、以前の職場の同僚に自己啓発セミナーに誘われたことがあります。背後にいるサタンを憎み、惑わされている人にはあわれみをもって祈りましょう。聖霊の導きによって真理を伝えることができるかもしれません。

11月25日(木)ユダの手紙24〜25/マルコによる福音書 2:13〜17

 この箇所にイエス様の素晴らしさと、父なる神様の私達への憐れみを見ることができますね。本当に弱い人間に暖かい手をさしのべ、救い続けるその深い愛。すでに救われている私なのに罪を犯してしまい、先日も「あー、またやってしまった」と落ち込みそうになったのですが、神様に赦していただき立ち直ることができました。この、落ち込みそうになるというのが神様の守りなんだと最近分かりました。つまりセンサーのような物なのです。なぜなら、私の言っているここでの罪とは、私が救われる前までは全く罪と認識していなかった類の事柄だからです。愛しいからこそ、小さい事からも守りたいと思っていてくださっていると分かって、ますます天のお父さんの目に適う者になりたいと思うのです。神様の栄光の前に無に等しい私を、イエス様の十字架の業によって立たせてもらえることは、言葉では言い表せない喜びです!