November 26th. 1999 Vol.1 No.16
Your Church International Service

*1999年11月第4週メッセージノート*

神の御国シリーズ1(パート1)
神の御国における
私たちの召しと任命

      メッセージ:ジョン・ニューマン

A. 神の御国についての新約聖書の教え

1.「神の御国」は、イエスのメッセージの中心的テーマである(「神の御国」という言葉は、福音書の中で126回使われている)

2.御国の定義:御国とは正確には何のことか?

B. イエスの働き

1.イエスが来られた世

2.イエスの使命:和解と救済
(マルコ2:16-17、ルカ4:16-17、ルカ19:10、I ヨハネ3:8、II コリント5:18-19)

C. 私たちの召し:イエスの働きをともにすること

1.12弟子の派遣(マタイ10:1-8、マルコ6:7-13、ルカ9:1-2)

2.72人の派遣(ルカ10:1, 8-9)

3.大宣教命令(マタイ28:18-20)

4.私たちも、また、召されている

*メッセージのポイント*

 私たちは神の御国の一部となりました。それは、私たちとともに他の人々を御国に連れてくるという働きに召されたということです。神との和解に他の人々を導くという働きは、ただ言葉によって神の赦しを伝えるという以上のことです。それに は、癒しや解放などの行い(目に見えるもの)もともないます。

*ミニチャーチのためのヒント*

 私たちのミニチャーチは、セレブレーションとしての集まりの時とは違う目的を 持っています。大勢の人が集まる礼拝の時にはできないことが、このミニチャーチ の独特な役割によってできることがあります。召しと任命ということについて、ミ ニチャーチという場はどのように役立つでしょうか?

ディボーションノート
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月27日(土)マルコによる福音書 2:16〜17/ルカによる福音書 19:10

イエス様は、他の人からは敬遠されるような罪人や取税人とも分け隔てなく食事をともにしました。なぜなら、その人がイエス様を必要としていることをご存知だったからです。イエス様は世間の評判や職業などではなく、謙虚にそして素直に求める心を見ておられる方です。「イエス様、あなたの助けが必要です」、「いやしてください」、「私を変えて下さい」!!!どんな叫びも決して拒まれる方ではありません。 一方、傷ついていたり、赦せない思いに縛られたりしているにもかかわらず、強がったり、大丈夫なふりをしていたらどうでしょうか。自分はいつも正しく、助けなどは必要ありませんという態度の人に助けの手をさしのべるほど難しいことはありません。ああ、そういう人が私の回りにもいるなあと誰かの顔を思い浮かべた方もいるでしょう。でも、どうか今一度自分自身の心が堅くなっていないか吟味してみて下さい。イエス様はドアのむこうで、私たちの方からドアを開くのを待っておられます。

11月28日(日)ルカによる福音書 4:16〜21

私はルカが引用しているイザヤ書61:1、2が特に好きです。イザヤ書にあってルカにはない「打ち砕かれた心を包み」というところに、ものすごく心ひかれるものがありましたし、今でもそうです。私自身が神様に救われたのも、そして神の御国の働きがしたいと思ったのもほぼ同時期でした。というのも、私は心のいやしを聖霊によって受けることで、神様は確かに目では見えない方だけれど、具体的に働きかけてくださる方だと分かったのです。クリスチャンになってすぐは本当の意味で「救い、罪、赦し、父なる神との和解」など分かるはずもなく、色々なことを抽象的に感じていました。神の国が前進するというのは心や体のいやしを必要としている人々に福音を告げるだけでは無く、イエス様のように相手のニーズに応えることですね。そのためにも天の父とイエス様がつながっていたように、私達もイエス様を通してつながっていなくてはならないのです。

11月29日(月)ルカによる福音書 6:40/ヨハネによる福音書 17:18

 今まで自分の怒りや欲望や感情を抑制するために、イエス様を見習おうと思ったことは度々ありました。しかし神様の業を行う、教えるという点においてはイエス様が偉大な存在すぎて見習おうという意識は薄かったように感じます。自分が小さいがために畏れ多くて「イエス様のように」とは思えなかったのです。しかし今日の聖書箇所ではイエス様自身が「十分に訓練受ければ、自分の師ぐらいにはなれる」と言っています。私の場合はまず、聖書のイエス様の全ての行いを自分のものとして捉えることから始めたいと思います。そして業を行う点においてもイエス様に近づくという意識を持ち、ミニチャーチでイエス様の権威を十分に用いたいと思います。

11月30日(火)マタイによる福音書 10:1〜8

 毎週、礼拝の後のミニストリーと交わりの時間をどのように過ごしていますか?マタイの10:1には12人の弟子が「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」に「権能」を与えられたとあります。これはイエス様と同じ業を行う力、知識、判断力です。そしてまず、「イスラエルの家の失われた羊のところへいきなさい。(10:6)」と仲間のうちで行うことを命じています。イエス様の弟子として歩むとき、私達にも同じ権能(権威)が与えられ、それを良く用いることが求められています。私達もまず、仲間のうちで、つまり礼拝後のミニストリータイムやミニチャーチで与えられている素晴らしいものを活用していきましょう。信頼できる仲間の中で安心して、試したり、学んだりしながら成長できるのです・・・神様のくださる恵みのうちのひとつだと改めて感じ、無駄にしてはいけないと思いました。

12月1日(水)マルコによる福音書 6:7〜13/ヨハネによる福音書 14:12〜14

私が初めて教会に行き始めた頃、週報はまだガリ版刷りでした。(誰が書いているか分かってしまいますね)携帯電話もなければインターネットもない。教会のほとんどの人たちにはとってはラーメン博物館のように感じられるレトロな時代でした。でもイエス様の時代はさらに交通手段も通信手段もありませんでした。イエス様や使徒たちは、車がなくても電話を使わなくても、どこにでも歩いて人を訪ね、ゆっくりと話を聞いて生き生きと喜んで福音を伝えていたんだろうなー、とときどき想像するのです。きっと「宣べ伝える」ということの本質はここにあるのだと思います。 自分の近くにいる人ほどイエス様のことをつたえにくいと考えたことはありませんか? 私もそうだったので、大伝道集会やビラ配りや路傍伝道でのべつたえている気になっていました。でも原点は身近な誰かに忍耐と勇気を持って「伝え続ける」ことではないでしょうか?テクノロジーを使ってメディアを使ってお金をかけて派手なことをするのにイエス様の権威と力はいりません。むしろそんなものは通用しない、本当の自分をさらけ出しながらの、そして困難を感じる身近な人々への伝道のためにイエス様は権威と力を与えていてくださるのです。

12月2日(木)マタイによる福音書 28:18〜20/コリントの信徒への手紙二 5:18〜19

 生きていく中で私が神様に愛され、イエス様の十字架によって赦されていることを知った。これは奇跡的な恵みです。そしてどんな時もイエス様は私と一緒に歩んでくださる。今この瞬間にもここに居てくださる。これは地上の歩みが終わるまで変わらないイエス様からの約束です。仕事や家庭生活やいろいろな人間関係の中で、またこの社会の動かしがたい仕組みの中で、時に挫折感や行き詰まりを感じ限界に直面してしまいますが、今日の聖書の言葉はなんて力強い励ましでしょう! 小さくても弱くても、時にはイエス様を忘れそうになっても、「神の国」の国民である私に大きな権威を与えて、「愛する」という素晴らしい働きをするように力をくださっているのです。 毎日毎日地上では絶望や不信、悲しみに心が沈みこむような恐ろしい事件が起こりますが、めげないでイエス様のグッドニュースを発信しつづけましょう。