*2000年3月10日メッセージノート*
いやす教会 
心の傷を癒し霊的健康を取り戻す働きを行う

A, 魂の病院としての教会の機能

1、前提 
教会全体は世界のすべてを治めるためにあらゆる機能を持 つ。これは教会による政治的、権力的、軍事的支配ではなく、イエスキリストによって示された愛により創造者の御心を行うことを通してなされる。

2、癒しはどんな教会にあっても欠かすことのできない機能です(ルカ9:1-6)

3、癒しは教会の他の機能と矛盾しない

4、人は霊的健康を取り戻すためには何から解放される必要があるのか

B, いやしとは?

1.4つの偏見
1)特別の人だけに与えられる(マルコ16:17, ルカ10:9)
2)医療にたいする認識(過信、不信)
3)キリストによらないいやし
4)病気も御心

2.聖書の見解(マルコ16:15-18, ヨハネ14:12)

3.キリストのいやし

C, いやしのミニストリー

1、いやしのミニストリーといやしの祈り、霊の追い出しは異なる

2、仕える人の条件(ルカ10:17-24, マタイ8:5-13)

3、いやしのミニストリーのプロセス

4、まとめ 古いタイプのいやしのミニストリーと比較して
1.特別な人のするものではなく信徒の業
2.個人の働きではなくティームワーク
3.主にすがる者としてただ手を置いて祈ることではなく、権威あるものとしていやすこと
4.インスタントにいやしを宣言するなどパターン化した方法ではなく、その時の聖霊の促しに従い注意深く時間をかけて行うこと
5.ただ悪霊を追い出すことではなく、それをも含めたいやし

*メッセージのポイント*
 イエス様は多くの人の病を癒しました。癒された人たちのほとんどはイエス様がメシアであるとは信じられず離れてゆきました。それにも関わらず福音書にいやしの記事がたくさん記されているのは、癒しが典型的な神の国の現れだからです。私たちは神の国の前進を担う者として癒すことを命じられています。ミニストリータイムやミニチャーチあるいは日常生活の中でも積極的に癒す者となりましょう 

*ミニチャーチのためのヒント*

1)今まで自分を通して神様がなさった癒しについてシェアして下さい

2)なぜ癒すということは教会の大切な機能の一つなのでしょう?

ディボーションノート―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

3月11日(土)ルカによる福音書 9:1〜6/使徒言行録 3:1〜16
 癒しは私達クリスチャンにとって神様を信じているということの印なのです。その印は神様の愛と憐れみの他ならないものです。私は大きなクリスチャンのコンファレンスなどでワーシップの間、誰も手をおいて祈っていないのに主の臨在によって癒されたり、悪霊から解放された人々を見たことがあります。当人達はもちろん、周りにいる人達も大喜びで期待する気持ちと信仰が強められているのです。これもまた神様のはからいで、その後のミニストリーの時には私達人間を通して癒されたり、満たして下さったり、はたらいて下さいます。マルコ16:17〜18にあるように「信じて洗礼を受ける者は救われる・・・信じる者には次のしるし・・病人に手を置けば治る。」なぜ癒しはそんなに強調されているかというと、もう一つのしるしとして「町の病人をいやし、“神の国はあなたに近づいた”と言いなさい」(ルカ10:9)と書いてあるように、神の国の到来を意味するものだからです。神の国の本質は心と体の修復であるからですね。

3月12日(日)マルコによる福音書 16:15〜18/ヨハネによる福音書 14:12
 私たちが最初にイエス様を信じてクリスチャンになる時には、病いのために祈る賜物や技を受けるかどうかを選択しなければいけないということはありません。むしろ、病いの人のために祈ることは自然に起こってくるはずです。私たちは初めに信じた時から神と神の国の大使です。それは時間をかけて獲得したり、作り上げたりするポジシンではありません。全てのクリスチャンは事前に訓練を受けなくても病いを癒すことが出来るのです。時には、一生懸命やればやるほど、失敗するということもあるようです。その理由は、病いがいやされるかどうかは私たちにかかっているのではなく、神様のなされる業だからです。私たちがしなければならないことはただ従うことです。

3月13日(月)マタイによる福音書 14:14、20:34/マルコによる福音書 1:41
 神様の癒しを期待するとき、その相手がクリスチャンだからミニストリーを行うとか、まだイエス様を知らない相手ならば、信仰をもつことと引き替えに行う、ということがあるでしょうか。癒しは何かの交換条件として与えられるのでしょうか。今日の3箇所の聖句により、イエス様はただ憐れみにより人々を癒したことが分かります。報酬や代価をいっさい期待しない純粋な行為です。憐れみとは神様の私達に対する無条件の愛でイエス様そのものです。癒しのミニストリーを行うときその人に対する神様の憐れみを感じることが必要だと思います。またイエス様を見習い、自分も無条件の愛を相手に対して持つことが大切です。神様の愛故にその人が癒されようとしていて、その業の成立のために自分が用いられていることを自覚したいと思います。

3月14日(火)ヨハネによる福音書 11:41、42/ヤコブの手紙 5:14〜16
 祈りには力があり、癒し、救いにまで導くことができます。私たちは常に癒しのため祈ることができるようもっと理解を深め、訓練を受けて備えていくことにより神の力を現していくことができます。 クリスチャンになる前のことですが、それまでに体験したことのない頭痛に数日間悩まされ、市販の薬も効きませんでした。その当時海外で暮らしていたので医者にも行きずらく、ただ不安がつのるばかりでした。ちょうどその頃ホームグループに参加し始めていましたが、その時の私には癒しについて理解できるわけもありませんでした。ところが、成りゆきで癒しのために祈りましょうということになり、断るわけにもいかず、訳のわからぬまま祈ってもらったのです。翌日の朝起きると不思議なことにあのひどい頭痛がまったくなくなっていました!それが私の初めての癒しと神の力の体験でした。私には全く信仰がなかったにもかかわらず他の人の信仰による祈りによって神様は私を憐れみ、癒して下さったのです。そして、これをきっかけに私はホームグループで皆が語り合っている神様についてもっと心を開けるようになり、少しずつ信じ、理解し始めるようになりました。その一ヶ月後、私はイエス様を受け入れ洗礼を受けました。

3月15日(水)ルカによる福音書 10:17〜24/マタイによる福音書 8:5〜13
 前回のジョンのメッセージで私たちが神様にただよりすがるだけの者ではなく、権威とその権威を行使する力が与えられていることを学びました。今日の二つの聖句から、主の権威を帯びるということは自分が権威の下にあって従順さを求められると同時に、自分の権威(元々は神様の権威ですが)の下にある者に対する深い愛と同情心を持つことだと教えられます。 この社会では与えられた権威を正しく用いられることが少なく、権威という言葉にマイナスのイメージを与えてしまっています。しかしそれが「主からの正しい権威であり、また正しく用いる」という条件付きなら権威は人を救い癒す力であることがわかります。自分にこんなに素晴らしいものが与えられているのに、自分に自信がなかったり、勇気がなかったりで十分に用いてこられなかったことを反省させられました。これからは必要なときに正しく権威によって力を現していきたいと思います。

3月16日(木)ヨハネによる福音書 5:19〜30、2:1〜11
 イエス様は「わたしは自分では何もできない」こんな表現で、神様に聞いて行うことがどんなに大切なことであるかを教えて下さいました。あのイエス様でさえ神様に「聞くままに裁く」ということから、わたしたちはいつでも継続的に聴きながら従っていってはじめて正しく歩み続けることができるということがわかります。祈りの中で神様が、また教会のリーダーを通して、勧められることに自分では意味を見いだせないようなことでも、あの召使いたちが重い石の水がめにただの水を満たして運んだように、従順に従うときに神様の奇跡を見ることができるのです。 私は週に3回近くの公園で早朝にジョギングをすることにしていますが、ときどきしないつもりの朝なのに早く目覚めてしまい走りに行くようにうながされることがあります。もっと寝ていられるのにと思いながらも走り始めると神様が新しいアイディアや今まで解決できなかった問題の答え、新しい歌を与えて下さるのです。