*2000年4月28日メッセージノート*
神の御国シリーズ1 パート 3b:弟子となることの過程

2. 父の御業を行うイエス様
c.イエス様は父の命令に従った(ローマ5:19、ヨハネ8:29)
d.イエス様のはたらきに決まった方法はなかった

3. 弟子たちはイエス様の手本を模倣した
a.ペテロの例(マルコ 8:32-33、ルカ9:33-35、ヨハネ13:37-38、マルコ16:7、
 Iコリント15:5、ヨハネ21:15-19、使徒2:14-36、3:1-8)

b.使徒たちは主に従うことにおいて、すすんで大きなリスクを冒した
  (使徒10:27-29、10:27-29、13:9-12)

4. 祈りの時にイエス様の模範を応用する:祈りの例の5つのステップ
a.その人の言うことに耳を傾け、神の声に耳を傾ける
b.問題が何かを確定する
c.神に向かって祈り、そして、神からの言葉を語る
d.神がなさていることを見る
e.祈りの時間が終わったら、次に何をすべきかその人に助言する

*メッセージのポイント*
 私たちがこれまでに学んできたことによると、イエス様やはじめの弟子達が先例と
して与えてくれた模範が今日の私たちにとって重要なものであることは明らかです。
彼らを通して示されていることは、神の声を聴くというライススタイルを自分のもの
とし、その声に従うことにリスクを冒さなければならないということです。

*ミニチャーチのためのヒント*
 祈りの例の5つのステップを再確認する。機会があれば、実際に祈りあったり、祈
る練習をする。


*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

4月29日(土) ローマ5:19, ヨハネ8:29
 聖書の教える罪ということを聞かされてもピンと来ない人が多いようです。その起源はアダムとイヴの不従順であり、その反対の神様に対して従順であるということが「罪のうちにない」ということですから、神様に従うという考えがなければ罪はわかりません。罪はあなたがした事というより持って生まれた性質なのです。しかし「不従順の喜び?」は小さな子供でも誰からも教わらずに持っているということなら、子供たちを観察していればわかります。「子供は無垢で罪がない」というのは本当ではありません。イエス様が私たちに教えてくれたことは、「天の父に従って歩む」ということです。奇跡や癒しの賜物を願い現れを期待する私たちですが、イエス様のなさった不思議な業のうち、気まぐれや自分の考えだけでしたことは一つもないということを忘れてはなりません。しるし、奇跡は私たちの従順の結果として与えられるものです。

4月30日(日) マルコ8:32-33, ルカ9:33-35
 私たちは自分では理解できない状態におかれると、何とか自分が納得できる説明をつけようとします。それは時には自分の考えや計画よりもずっと深い神様の計画を、無視したり、曲げてとることになってしまいます。使徒ペテロはそのような失敗を聖書にたくさん記録されていて、きっと天国ではその働きをたたえられる一方、そのことでみんなにからかわれているのではないでしょうか?目の前に不本意な事、恐ろしい事、どうして良い皮からないことが起こった時、そんな時こそ私たちが 1)神様に聞けるように 2)神様と考えられるように 3)神様に正しい状況判断をさせていただけるように祈りましょう

5月1日(月) ヨハネ13:37-38
 ペテロはとても熱心ですが、シンプルで短絡的なところがあって失敗をたくさんし
ます。(私は自分に重なるところもあってペテロには親しみを感じています。)今日の箇所でも「あなたのためにいのちも捨てます」と断言したペテロが、その直後イエス様が捕らえられると、「私は弟子ではない」と否定してしまいます。このように人間の弱さをさらけだしているペテロです。できの悪い子ほどかわいい、とも言いますが、イエス様はそんなペテロのうちにある信仰と情熱も知っておられ特別に期待していたのではないでしょうか?この時点では未熟なペテロも後には神に用いられる大きな器となっていきます。聖霊に満たされた後のペテロはまるで別人のように恐れることなく大胆に神からのことばを語り、多くの人が救われます(5/3の聖句、使徒2:14-42)。聖霊に満たされて、主の導きに従う時、未熟で弱い私でも神様は必ず用いてくださるのだと励まされます。

5月2日(火)マルコ16:7, I コリント15:5, ヨハネ21:15-19
 父なる神が私達人間に対してどんなに忍耐して下さっているかというのは、常々みなさんも思っていることでしょう。でなければすでに人類はとっくに神様に見放され、滅びているはずです。このイースターの時期、イエス様の復活なさった時に使徒ペテロをどうやって赦し、ご自分との関係を修復されたかを改めてみてみました。ある意味故意に主を裏切ったペテロをも完全に赦し、それだけでなく「私の羊の世話をしなさい」と言って、ご自身の思いをペテロに託されたのです。三回イエス様を否定したペテロに、三度「私を愛しているか」と聞くことによって回復された主の深い愛にただ圧倒される想いです。私達もペテロの犯した罪同様、もしくはそれ以上に日々罪を犯しているのですが、主が十字架で流された血潮によって赦され、生かされているのが真実です。この現実がなければ、私達クリスチャンは生きていけません。これが神様の愛と恵みであり、私達の過ちを赦し、私達が弱いときまたは認めるときに満ちていくのです。

5月3日(水) 使徒言行録 2:14-36, 3:1-8
 ペテロは学ぶ過程においては困難をとおりましたが、最終的には優れた弟子となり、彼のミニストリーはとても成功しました。イエス様が去った後、自分でミニストリーを始めた時、ペテロは自分自身でも驚いたと思います。しかし、イエス様とともに過ごした訓練の時があったからこそペテロは自信をもつことができたのです。彼は自分一人で行っているのではないこと、つまり、自分をとおして働くために、イエス様が聖霊を送ってくださっているということを知っていました。語るべき言葉を神様が与えてくださり、いやしているのが神様であることを知っていたのです。神様が用いることができるのは、誰でも信仰のリスクを冒すことをいとわない者です。

5月4日(木) 使徒言行録 10:27-29, 13:9-12
 使徒達は主に従うことにより、何度も迫害され投獄さえされました。しかし彼らは自分たちの発言や行動が神の導きにかなっていると確信を持っていたので、迫害に負けることなく使命を貫きました。使徒達のいさぎよい姿は私達に励ましを与えてくれ、良い見本になります。しかし弱さを持った私達は使徒達のように確信を持てず、一つ一つの行動の決定について迷うこともあります。主が最初から明確な確信を与えることもありますが、迷いながら進むことにより、徐々に確信を積み上げていくという過程もあると思います。私自身、あることを続けるか、止めるか決断しかねてしばらく迷っていました。止めることは簡単だったかもしれませんが、主に毎回聞き続けしばらくしてから「続ける」という応えを与えられました。もしあの時点で止めていたら後悔していたと思います。そして今は私はこれを通して主に仕えるのだと確信を持って言えます。色々な形で主は私達に確信を与え、進む方向を導いてくれます。そのためには私達のほうから絶えず問続けることが必要です。