*2000年6月4日メッセージノート* 

あなたの使命の原点 
使徒言行録1:1-11

(1:1-2/ヨハネ20:30-31)
 今月から使徒言行録を通して、私たちのよいお手本である初代教会とその中の人々について学んでゆきます。
 1節に書かれている先の一巻とはルカによる福音書のことです。福音書と使徒言行録は連続した初代教会の歴史です。使徒言行録にはもちろん目に見える姿ではイエスさまは出てきませんが確かに福音の一部です。逆に福音書は単にイエス様の言行録ではなく聖霊を通して人々に与えられる指図=指示書でもあるのです。
 

1) 私の使命 私は人々に何を伝えようとしているのか
(1:3/ルカ12:29-34)

1、イエス様が弟子たちに一番聞いて欲しかったこと
 復活されたイエス様が40日の間になさったことは神の国について話すことでした。それはイエス様が地上の歩みの中でも常になさっていたことです。ここで再びこのことを語られたのはそれがそれまでなされたイエス様の働きにおいても、これからなされようとしている弟子たちの働きにおいても、世に伝えるべき最も大切なことだからです。

2、全ての人に対する唯一の答
 神の国の福音こそが、私たちの人生の全ての問題に答えです。神の国を求める者は与えられ、これを与えられた者は、その人の歩みに必要な全てのものを加えて与えられるのです。

2)出かける前にする準備 (1:4-5/ルカ3:21-22)

1、約束された聖霊を待つ
 「聖霊に満たされる」という明確な体験が私たちの歩みには不可欠です。最初の弟子たちはそれを受けるまで、ただ祈りつつ待ち望みました。あなたもあわてて飛び出さないで、聖霊に満たされることを期待して待ち望んで下さい。

2、イエス様もなさったこと
 イエス様も宣教を始められるに当たって聖霊が注がれる体験をされました。

3)よりどころとなる神様の約束 (1:6-7/マタイ24:36-44)

1、 その日が明日でも後悔しない?
 弟子たちの関心はイエス様がいつ再臨(イエス様が再び来られること)されるかというでした。私たちの住んでいるこの世界の悲惨な問題に直面する時、私たちも「イエス様早く来てください!」と叫びたくなります。

2、 その日が100年先でも大丈夫? 
 しかしイエス様は「それは知らなくてもよい、むしろ聖霊に満たされること、証人となって出て行くことに関心を持ち続けなさい」といわれました。日本にイエス様の福音を伝えた最初の宣教師たちがもしイエス様は明日、再臨されると思っていたら日本への航海には乗り出さなかったでしょう。私たちの再臨に対する態度は、明日その日が来ても後悔しない一日を過ごすこと、自分の世代よりもそれがずっとあとになってもよいように宣教の長期計画を持っていること、自分の中でその両方のバランスがとれていることです

4)証人となる力 (1:8/ルカ12:8-12)

 聖霊に満たされて歩めと勧められている理由は、「力」です。宣教は聖霊の力なしには進みません。日本の宣教が進まない理由はいろいろ議論されていますが,最も欠けていることは,わたしたちが宣教の主人公である聖霊様のリーダーシップを充分に認めていないことです。期待すること、聞くこと、従うこと
 

5)視線がポイント (1:9-11/Iコリント5:9-13)

1、 イエス様を見上げる
2、 周りをよく見る

 イエス様を見上げ御顔を求めることは大切なことです。しかしイエス様と共にこの世界に目を向けることをしなければ,教会がこの世界によい影響を与えることは出来ません。問題はバランスです。個人的な主との交わりを求めることだけを突き詰めれば,私たちは世に有りながら世とは関係ないものとなってしまいます。世に目を向けることだけを求めれば表面的な社会改革運動になってしまうのです

*メッセージのポイント*
 私たちが与えられた勤めを果たすことができるのは、聖霊の力が働くからです。聖霊が自分に注がれる経験を持っているといないとでは、その働きには大きな差が出てくるでしょう。あなたの歩みの中で聖霊の力は充分に解き放たれているでしょうか?

*ミニチャーチのためのヒント*
1、聖霊に満たされることについて話し合ってください
2、イエス様が再び来られるのはいつですか?

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

6月5日(月) 使徒言録1:1-2/ヨハネ20:30-31
 使徒言行録はルカによる福音書の第2部とも言われています(1節の「先の一巻」とはルカによる福音書のこと)。つまり、福音書と使徒言行録は連続した初代教会の歴史です。福音書はイエス様のこと、使徒言行録は聖霊と使徒の働きのことと切り離して考えることはできません。イエス様が水のバプテスマを受けられた時、天から御霊が下られてイエス様の上にとどまりました(マタイ3:16、ヨハネ1:33)。このことからも、イエス様の働きは聖霊の働きであり、聖霊の働きはイエス様の働きであることがわかります。そして、神様は助け主である聖霊を使徒達だけでなく私たちにも送ってくださっているのです。これを機会に福音書や使徒言行録をとおして聖霊が私たちに教えようとしていること、また、私たちに直接語ろうとしておられることに、あらためて耳を傾けましょう。

6月6日(火) 使徒言行録1:3/ルカ12:29-34
 私の心が問題に直面して悩む時に、神様はいつも「あなたの必要は私にはわかっているよ。心配しないで、それよりあなたは神の国を求めなさい」となぐさめ励ましてくださいます。聖書の約束は私たちが必要なものは全てこの神の国に添えて与えられるというのです。このところゴスペルミュージックが、まだ神様を知らない人の間でも人気です。ゴスペルはグッドニューズ=福音という意味の言葉ですが、この「神の国の福音」は私にとって全ての問題に立ち向かえる最大のグッドニューズなのです。復活されたイエス様が40日の間になさったことは神の国について話すことでした。それはイエス様が地上の歩みの中でも常になさっていたことです。ここで再びこのことを語られたのはそれがそれまでなされたイエス様の働きにおいてもこれからなされようとしている弟子たちの働きにおいても、世に伝えるべき最も大切なことだからです。

6月7日(水) 使徒言行録 1:4-5/ルカ 3:21-22 
 私がクリスチャンになった時通っていた教会では聖霊の力による働きを信じていませんでした。その当時私は救われる前と同じ問題にまだ悩まされていることに気づいていました。クリスチャンになるためにただ簡単に祈り、洗礼を受け、教会に参加することが自分の人生を変えるのではないと分かりました。しばらくして、他のクリスチャンが聖霊の力によっていかに自分の人生が変えられたかについて話しているのを耳にしました。そこで教会の人たちに質問し始めましたが、私が話した多くのクリスチャンは、そのような力は存在しないし、それは悪霊であると言いました。しかし、聖書を読むと、聖霊の力は今もあると知ることができ、その人達は間違っていると思いました。そこで私は求め続けました。そして、あるクリスチャンのグループに出会い、そこで助けられ、教えてもらうことができました。聖霊に満たされているということは、天国の次にすばらしいことです。

6月8日(木) 使徒言行録1:6-7/マタイ24:36-44  
 私達はキリスト者としてイエス様の再臨は本当に待ち遠しいものです。それはイエス様をこの目でこの手で触れることができ、何よりも黙示録21にある「新しい天と新しい地」が始まるからです。英語ではRaptureと言う表現があり、何か辛いことがあると「イエス様どうぞ早く来て私達を引き上げていって下さい」なんて言っているクリスチャンの人々も少なくないようです。私はこの表現を聞くと何か逃げているみたいで、あまり好きではないですし、又終末のことばかり気にしたり勉強している人達を見ていると私も「おろかな5人のおとめ」になりたくないと少し焦ったり・・・。そんな時かなり前になりますが、その時の教会のリーダーが「いつイエス様が戻って来られるか明かされていないからこそ、私達のするべきことは同じです。心から神様を愛し、福音をのべ伝え、みことばを神様の息吹として勉強をし続けることです。」と言ってくれたので、私の心はすーっと焦りから解放され、すぐさまこれは聖霊が語っていると分かりました。上の三つの基本こそかしこい5人のおとめになることなのだと教えてもらいました。

6月9日(金) 使徒言行録1:8/ルカ12:8-12
 私はイエス様を信じているのにもかかわらず、時々無意識の内に自分を頼りにしている自分を発見して、驚いたりがっかりしたりすることがあります。人には「神様だけを頼りにしよう」と勧めるのに、何でそんな考えに陥ってしまうのでしょう?そのように自分を偶像視していると、調子のいいと気には自分を誇り、悪い時にはがっくり落ち込んでしまいます。聖書がこれほどはっきり聖霊にみたされなければ歩むことが出来ないことを教えてくれているのに、私のプライドはサタンに後押しされて、聖霊様を押しのけようとするのです。 聖霊に満たされて歩めと勧められている理由は、「力」です。宣教は聖霊の力なしには進みません。日本の宣教が進まない理由はいろいろ議論されていますが,最も欠けていることは、わたしたちが宣教の主人公である聖霊様のリーダーシップを認めていないことにあるのではないでしょうか。どんな知識より理屈より聖霊様を自分の主として素直に受け入れることに心を注ぎたいと思います。 

6月10日(土) 使徒言行録1:9-11/Iコリント5:9-13
 イエス様の見上げ御顔を求めることは大切な事です。日々の祈りの中でも魂と心がいつもイエス様の方に向いていることを願います。しかしこのことは個人的な主との交わりを突き詰めることだけを意味するのではありません。もし個人的な交わりだけを追求するのなら、私達個人や教会は世の中とつながりのない、孤立したものになってしまうでしょう。神様は私達に目と共に心の耳を与えてくれました。イエス様の声に耳を傾け、受け取ろうと思うなら、「私があなたを愛したように、そのようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という主の願いをはっきりと聞き取ることができます。これを行うことにより、教会が世界に良い影響を与え、イエス様の愛が人々に伝わり、多くの人を救いに導くことができます。