*2000年6月18日メッセージノート* 
御国の道具

1) 霊の賜物とは何か?

a、報酬ではなく贈り物 ギリシャ語 カリスマタ

b、新約聖書の時代には普通の体験(使徒9:34、40; 10:44-46; 6:8; 8:6、7)

c、教会史を通しての体験

d、霊の賜物の部類

2)キリストの体における霊の働き

a、一致の中にある多様性  (1 コリント 12:12-27)
1. 全ての賜物は重要 (1 コリント 12:21-26)

b、霊の賜物の異なる内容
1. 状況に応じて注がれる賜物 (1 コリント12: 7-11)
2. 人生を通して使えるための賜物 (1 コリント 12: 27-31,ローマ12:4-8)

*メッセージのポイント*
 賜物は神様がわたしたちに与えてくださった道具です。それによって神の国を広めるという私たちの任務をうまく果たすことができるのです。賜物なしでは私たちの役目を行なうことは出来ませんし、教会としては不健康で成長することは出来ません。

*ミニチャーチのためのヒント*
ミニチャーチのメンバーがどんな賜物を持っているかを知り、他の賜物とどのように協力し合うことができるのか考えましょう。もし自分の賜物について確信がない人がいたら一緒に祈りましょう

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

6月19日(月) コリント 12:4-11

私はここに書かれているような教会をまだ見たことはありません。ユアチャーチはこのような教会を目指していると思いますがまだ発展途上です。本当に組み合わされて用いられるならば、ユアチャーチはもっともっと神様に用いられて、もっと大きな働きをまかされるのではないでしょうか?
 ある時期日本の教会の一部では異言を語ることに夢中になり、皆に異言を語るように勧めました。異言は賜物としてではなく、聖霊に満たされることの証拠のように見られていました。でもそれは『聖霊の賜物』です。私たちはそれぞれの賜物が異なっていて、組み合わせられて用いられる。このように神様が私たちをデザインしてくださったことにほんとに感謝だと思います。無くてもひがまない、あっても高ぶらない、違っていてることを喜べる。そんな教会にしてゆきたいですね。

6月20日(火) 1 コリント 12:12-13

この世界に教会はいくつあるのか考えたことはありますか?毎日毎日、新しい教会が誕生していますが、それは一人の人間の細胞分裂のように、いくら増えても別の物ができるわけではなく全体の体は一つです。この前クリスチャン新聞に集団のカルト性を測るテストが出ていましたが、一つ一つ見てゆくとユアチャーチはとても健康な組織であることがわかりました。でも油断することは出来ません。細胞の一つ一つ(つまり教会の一つ一つ)が一つのからだの一部であることを軽んじるならば、やがてそれはガン細胞のように体を傷つけるものになってしまいます。本当の主の教会は、その独自性を保ちながらも他の教会から孤立してはならないのです。

6月21日(水) 1 コリント 12:14-20

私はワーシップリードの賜物を与えられているので、礼拝で人の前に立ち、主の働きを行います。当然人の目につくので、時には評価されたり、また励まされたりします。しかし他の人が気がつかない賜物を持ち、教会のために働いている人もいるのです。洗面所のタオルを毎週洗濯したり、ゴミを持って帰って捨てたり、トイレをきれいにしたり・・・・。一見誰でもできる簡単そうに見える内容です。そして人の基準ではどちらが重要か優劣をつけてしまうかもしれません。しかし神様から見ればどちらも尊いのです。神様は働きの質や量に目を向けるのではなく、その人が本当に賜物を自覚し上手く使っているか、与えられた仕事を喜んで行っているか、そして他の人の賜物を羨んだり、見下したりしていないか、ということを大切にしています。私自身もう一度自分の心をチェックすべきだと、気がつかされました。

6月22日(木) 1 コリント 12:21-26

この聖書の箇所を読むと霊的賜物というのはひとつの霊によって一人一人に与えられていて、あくまでも神様の主権なのだと分かります。けれども自分より明らかに優れた賜物(これも単なる私の主観にも関わらず)をもっている人に出会うと、「ワー、すごいなぁ」などとその人物を見上げてしまうものです。どの賜物の方が優れているなんて多分神様の目から見ると、どれも同じはずなのに・・・。私の体験からも強く感じたことがありました。5、6年前に私は色々な人からどんな賜物があるかなどたくさんの預言をされた時期がありました。その中でも一番「何それ?」みたいに感じた賜物は「励ましの賜物」だったのです。しかし、少し意識し始めたら本当に周りの人達が私の祈りだけでなく、ただ会話をしているときも励まされると言ってくれているのに気付かされ、私の方が本当の意味で励まされたのです。賜物は全体の益(12:7)となると書いてあるのを示されて謙虚に喜んで、ますます用いられたいと主に祈ったのを覚えています。

6月23日(金)  1 コリント 12:27-31

この箇所を読んで、私には関係ないと思った方はいないでしょうか?私は、自分には教えたり預言やいやしなどの賜物はないので、これは牧師や特別な人のためのものだろうと思っていました。でも、よく読むとひとつ私にもできることがありました。それは、「助ける」ということです。ここにある多くが人目につく賜物ですが、助けるという人目にはつかないけれどとても重要な賜物があるのです。助けると一口にいっても限りない役割があり、私にも出来る小さなことがいくつかあるとわかりました。
牧師になったり、力ある業を行うことは誰にでもできることではありませんが、私たちひとりひとりが教会のからだの一部としてできる役割があり、それは全て大切なものです。年齢や、霊的な成長度合いは関係ありません。一人一人賜物を用いることによって霊的に一歩踏み出し、さらに大きな賜物を熱心に求めることが神様の願っていることなのです。

6月24日(土) ローマ 12:4-8

私たちに賜物が与えられていることは特権です。ですから、可能なときに自分の賜物を用いることを惜しまず努力する必要があります。ここに挙げられているほとんどの賜物は私たちが日々の生活の中で用いることのできるものです。そのためには、自分自身のことや自分の行動に焦点をあてるのではなく、むしろ他の人のことにもっと目を向けることを覚えましょう(マタイ20:26−28)。