*2000年6月25日メッセージノート* 

ポルシェのエンジンに軽のブレーキ(使徒言行録2:1-13)

 どんなに高性能のエンジンを積んでもその特性に合ったギヤセッティングや高性能のブレーキ・タイヤと組み合わせなければその車は性能を充分に発揮することは出来ません。立派な神学や豊富な知識があっても聖霊の働きを邪魔するなら、ポルシェに軽自動車のエンジンを積んでいるようなものです。反対に聖書や教会の教えを軽んじ聖霊による力だけを求めるのはマーチにジェットエンジンを積んでいる危険な車に乗っているようなものです。
 聖霊を受けるということについては多くの異なった見解や、誤解が付きまとっています。諸教会の中でも様々な異なった意見があり、裁き合っているという現実があるのです。私たちは誰がどう言っているかではなく聖書がどう教えているか素直に聞くべきです。聖書を全体として読むとき、聖霊の力なしに教会の歩みクリスチャンの歩みは成り立たないことは明らかです。その一方でコリントの教会のように聖霊の賜物が原因で混乱があったことも伝えています。聖書はわたしたちが偉大な力のある聖霊とともに歩むために注意すべきことを教えてくれます。それは強力なエンジンに相応しい足回りを備えて与えられている行程を力強く走りつづけるために大切なことなのです。

1. そこで何が起こったのか?

1、約束の聖霊が下った(1-2,1:4-5)

 聖霊を受けるということは神様の主権によって神様のタイミングで起こること(ヨハネ20:19-23)、観念的なことではなく客観的にその場にいる人にも分かるような明白なかたちで起こったことでした。


2、霊が人々に他国の言葉を語らせた(3-4,Iコリント12:27-31)

 ここで分かることは聖霊が下った時、人々は異言を語ったということです。異言には2種類有ります。それは実際の外国語である場合、地上のどこにも存在しない言葉の場合です。ここで語られた異言は実際の外国語であったようです。ここだけで判断して聖霊を受けるとは異言を語ることだと決め付けてはなりません。なぜなら他の個所では異言は賜物の一つであることを教えているからです

2. 聖霊とともに働くために知るべきこと(5-13)

1、人がコントロールできるものではない(5-6,Iコリント14:6-12 )

聖霊が下るということはクリスチャンの自己満足のためではなく、まだ信じていない人のためのしるしともなるものです。聖霊の働きを信じる諸教会の中でも、このような現れがクリスチャン以外の人も出席する集まりでも求めるかどうかという点で議論があります。わたしたちは私たちがこの働きをコントロールできるものではないことを知るべきです。作為的に止めることも、演出することもできないのです。


2、教養や知性を超えたもの
(7-11 Iコリント1:26-31)

「ガリラヤの人」という言いかたは、地方の方言しか話せない田舎の人々ということを意味しています。そのように見られている人々から、様々な国から来ていた人が自分の言葉で神様の偉大な業を聞かされたのですからその驚きは大きかったと思います。異言に限らず聖霊の賜物はその人の持つ教養や知性を超えてあらわされるのです。ですから誰も自分に与えられている賜物のゆえに誇ることは出来ません。


3、それは本当に聖霊の働きか?という確かめ
(12,8:9-25)

社会生活を営んでゆくためには常識は欠かせないものです。けれども神様は時として人間の常識では測り切れないことをなさいます。聖霊の働きに関しては、神様を信じない社会の常識においては非常識と見なされることは避けられません。しかし聖霊のもたらす非常識と人間の利己心がもたらす非常識は区別されなければなりません。そして聖霊様の働きを邪魔しないことと、聖霊信仰を隠蓑に自己中心で非常識な人にならないことを両立させなければなりません。


4、それでも理解できない人もいる
(13,ガラテヤ5:16-26)

誰かが聖霊に満たされている状態を見ても受け取り方は様々です。ペンテコステの出来事を目撃した人の中でも、それを聖霊によるものだとは理解できず、酒に酔っていると嘲りました。目の前で起こっていることが聖霊の働きによるものなのか、そうではないのかを判断するのは、霊を見分ける賜物です。しかし長期的に見るならば、この賜物が無くても判断することができます。それが聖霊からのものであれば必ず後に神様の栄光を表すことにつながってゆくからです。

*メッセージのポイント*
 あなたがクリスチャンとして神様に祝福されて歩むために聖霊に満たされることが大切です。しかしこのことはあなたが聖霊の力を発揮する魔術師になることではありません。私たちがキリストの体である教会の一部として他と調和して歩むこと,聖書の言葉や教会でなされる教えに忠実であって初めて聖霊はあなたを通して本来の力を発揮するのです。

*ミニチャーチのためのヒント*
1、私たちは聖霊の働きに対してどのような態度を取るべきでしょうか?
2、聖霊の満たしや様々な聖霊の力の経験をシェアしてみましょう
3、もし一度も聖霊に満たされるようミニストリーを受けたことがない人がいるな 
 ら聖霊に満たされるようミニストリーをしてください

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


6月26日(月)使徒言行録2:1-2 ヨハネ20:19-23

使徒の時代以前、特に旧約の時代において聖霊は特定の人が特別に受けるものとして記されています。聖霊により特別な能力を与えられて、主の力強い御業がなされた出来事が多く見られます。しかし五旬節の日には特定の人にではなく弟子達とその共同体、それに属する全ての人に聖霊が注がれました。彼らは聖霊により力を受け復活の証人としてイエス様のことを全世界に述べ伝え始めました。現代に生きる私達もイエス様の弟子です。ですから特別な人間でなくても彼らと同様に聖霊を受けることができます。そしてヨハネ20:22のイエス様の「聖霊を受けなさい」という言葉からは、それが私達への主の願いだということが分かります。

6月27 日(火)使徒言行録2:3-4 Iコリント12:27-31

異言には2種類あることがわかると理解しやすいと思います。私はクリスチャンになって水の洗礼を受けた後すぐに異言を与えられました。でも、それはこの使徒の箇所に出てくるような外国語ではありません。いわゆるPrayer Languageという、自分が神様とコミュニケーションをする時に使う地上には実在しない祈りの言葉です。私は言葉にしてどのように祈ったらよいかわからない時でも、異言によって祈ります。
 もう一つの異言は、聖書にあるように自分の全然知らない外国語を異言として与えられるものです。証として聞いた話ですが、ある若者が大学の寮の部屋で聖霊に満たされ異言で祈りはじめたところ、ルームメイトのアフリカからの留学生が神様を信じ救われました。なぜなら、その異言は若者の全く学んだことのないルームメイトの母国語だったのです。神様が下さる賜物は本当にすばらしいです。

6月28日(水)使徒言行録2:5-6 Iコリント14:6-12

ある人が全会衆に向かって明らかに誰も知らない言葉で語るということを多くの教会で見てきました。語られたことの意味が分かる人は一人もいないのですが、とりあえず誰かが最後には"praise the Lord(主を賛美します)"と言うのです。しかし、聖霊の導きによってロシア語や韓国語など普段は自分が話すことの出来ない言葉を語る賜物を持つ人がいて、なおかつ、その語られた言葉がその場にいるノンクリスチャンの母国語であったということはごくまれにしか知りません。ここでパウロが明らかにしているのは、異言で語られることは実を結ぶべきであり、他の人の益となる必要があるということです。他の人に向かって語られた多くの意味のなさない音が実を結ぶことはほとんどありません。(注:これはあなたが神様のために用いる祈りの言葉としての異言とは違います)私たちが霊の賜物を用いる時のゴールは他の人が救われ、解放され、癒され、回復され、励まされることなのです。

6月29日(木)使徒言行録2:7-11 Iコリント1:26-31

天の父なる神様はこの世の基準とは異なるお方です。「この世」は私達人間の作った基準や常識なのです。そんな訳で、イエス様はガリラヤ地方という場所でお生まれになったのだと思います。日本で言うド田舎みたいな所で、とても救世主の生まれてくるような地方ではなかったそうです。第一コリントで「それは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためです」とあるように家柄、出身地又は地位などは神様の前では何の意味も無いということなのです。イエス様でさえ「父のなさることを見なければ自分から何事もできない」とヨハネ5:19に書いてあります。ですから、私達人間はもっともっとへりくだった気持ちで聖霊の賜物を受け取るべきなのです。主の素晴らしさ、聖さ、力の大きさを知れば知るほど、へりくだろうとしなくても自然と謙虚にならざるを得ないのです。

6月30日(金)使徒言行録2:12 使徒言行録8:9-25

しるし、奇跡,不思議というとついあのオウムの空中浮揚とか水中で息をしないでいられる修行などを思い浮かべてしまうのは、私だけでしょうか?そしてあまり人に誤解を与えたくないから,聖書に記されているいやしや奇跡にもあまり触れずに、社会の常識に収まる信仰生活を望んで聖霊様の働きにブレーキをかけてはいないでしょうか?私にはそういう傾向があるので、時々「聖霊様の邪魔をしてはいけない」と自分を戒めなければならないことがあります。
 社会生活を営んでゆくためには常識は欠かせないものです。けれども神様は時として人間の常識では測り切れないことをなさいます。聖霊の働きに関しては、神様を信じない社会の常識においては非常識と見なされることは避けられません。しかし聖霊のもたらす非常識と人間の利己心がもたらす非常識は区別されなければなりません。そして聖霊様の働きを邪魔しないことと、信仰を隠蓑に自己中心で非常識な人にならないことを両立させなければなりません。

7月1日(土)使徒言行録2:13 ガラテヤ5:16-26

ある集会に参加していた時のことです。その場でみんなが異言の祈りを始めた時、私も異言で祈り始めました。集会が終わったあと斜め後ろに座っていた南米出身の女性が声をかけてきたのです。そして「あなたはどこでスペイン語を習いましたか」と尋ねるのです。私は一度もスペイン語を習ったこともありませんでしたし、聞いたこともなかったので、この人は何を言っているんだろうと思いながら「いいえスペイン語を習ったことはありません」と答えたのです。彼女は興奮した声で「それなら私は初めて他国の人が自分の国の言葉を異言として祈るのを聞きました」といいました。私は彼女の理解できる言葉で(私自身は理解していなかったのですが)神様に感謝をささげていたそうです。私は他国語の異言というものには少なからず疑問を持っていたので聖霊様に疑っていたことを謝り,そして感謝しました。誰かが聖霊に満たされている状態を見ても受け取り方は様々です。ペンテコステの出来事を目撃した人の中でも、それを聖霊によるものだとは理解できず、酒に酔っていると嘲りました。目の前で起こっていることが聖霊の働きによるものなのか、そうではないのかを判断するのは、霊を見分ける賜物です。しかし長期的に見るならば、この賜物が無くても判断することができます。それが聖霊からのものであれば必ず後に神様の栄光を表すことにつながってゆくからです。