*2000年7月16日メッセージノート* 

どこを見てるの?(使徒言行録3:1-10)

A. 男が求めたもの(1-3)

B. 神が与えたもの(4-8)
1) 強い関係

2) いやし

C. キリストと共にいきるとは?(8-10,マタイ6:33)

*メッセージのポイント*

神様の願いは私たち一人一人が生活の中で実際に神様の愛と力を経験して強められて、"自分の足で立って"積極的に生きることです。そのことは私たちの努力によってできるのではなく、イエスの御名を信じる信仰によって可能なのだと言われています。あなたはどこを見ていますか?神様に期待して見つめていますか?神様は何があなたに本当に必要なのかを知っておられます。共にいて下さるという約束は決して変わりません。

*ミニチャーチのためのヒント*

小さなことでも大きなことでも、自分が今までに経験してきた神様の愛と力をシェアしてみてください。

*ディボーションノート*―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―
 ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


7月17日(月) 使徒言行録 3:1-4/ヨハネ5:1-9

4月に障害をもつ子供の施設に異動になり、新しい仕事や環境、同僚に早く慣れようと夢中で働いてきました。特に子供達と信頼関係を築くことや不十分な技術や知識について、自分の能力に限界を感じていたため、主から力を与えられるように、祈ってきました。その時々に主は私の弱い心と力を支えて守ってくれ、全ての状況を良く整えてくれたことに感謝しています。今までは私は自分のことで精一杯で祈ってはいましたが、余裕が無くその祈りは自分のこと中心でした。自分に力が与えられるよう願いましたが、主が子供達を癒され早く成長するよう、また家族を含めて主の憐れみがあるよう祈ってこなかったことを反省しました。神様はその人の必要をその人以上に良く知っていて、時にかなって癒して下さいます。私が子供達の力になること以上に主が直接子供達に行う業を願い期待したいと思います。  

7月18日(火)使徒言行録 3:5-10/ヨハネ14:11-14

この物乞いの男は、ペテロからお金をもらえると思っていたのでしょう。普通の人ならそう考えるものです。しかし、ペテロはお金よりももっと良いものを与えました。その贈り物はペテロから授けられたものではなく、イエス様から授けられたものでした。時として私たちは、自分にとって重要だと思うことを願い求めるのですが、神様が私たちに下さるものに比べればそのことは本当は小さなものなのです。だからこそ神様は聖いお方なのだと言えます。もし、私たちが正しい答えが何かをいつも分かっているのだとしたら、神様は私たちよりそれほど大きな方ではなくなってしまいます。しかし、私たちでも正しい答えに近づくことができます。それは、神をまず第一に求めることによって、また、御心を示して下さいと願い求めることによって、そして、「イエス」の御名によって御心にかなった祈りをすることによってです。

7月19日(水)使徒言行録 3:11-13a/ヨハネ12:37-43

 この箇所を読んで、いやしで有名な外国の伝道者を招いての大聖会での光景を思い出しました。多くの人がステージ上で次々といやされ、それは驚くべきことでした。会衆は一種の興奮状態になり、大勢がステージの方に殺到していきました(使徒の時代の人々と全く同じです)。自分も神様の祝福や恵みにあずかりたいと願い求めることはすばらしいことです。しかし、その時目の前にいる伝道者ではなく、目に見えないイエス様を求めていた人はどのくらいいたでしょうか?奇跡は、人を通して神様が起こすものです。でも、弱い私たちはつい目に見える人を頼ってしまいがちです。私たちが忘れてはならないことは、ここでペテロが言っていることに集約されます。「自分の力と信仰深さで奇跡が起こされるのではない」こと、「イエスに栄光を与える」ということです。

7月20日(木)使徒言行録 3:13b-19/ヨハネ19:1-16

イエス様を殺した人々のことを聖書で読んで、なんて人間は恐ろしく、又愚かなんだろうと思った時もありました。でも、神様を知れば知るほど自分もその中の一人だったと気付かされたのです。私の中にある生まれ持ってきた罪のために、イエス様は十字架につけられたのです。イエス様を信じなかっただけでなく、実際に殺した私達人間を救うための天の父なる神様のご計画であったわけです。その奥義に触れれば触れるほど、神様の偉大さと愛の深さに圧倒されるばかりです。そして、人間の目から見ると、イエス様の十字架での死は敗北のようであったわけですが、実は死に対しての勝利だったのです。イエス様を信じる者は全て永遠の命を与えられていることは恐れ多いことなのだとまた改めて認識し、もっと主を愛したいと思います。

7月21日(金)使徒言行録 3:20-23/ヨハネ15:18-27

旧約聖書を読んでいくと、神様はイエス様に先立たせて多くの預言者を送ってくださっていたことがわかります。残念ながらイスラエルの民は彼らに聞き従うことができませんでした。これはイスラエルの民が他の民族に劣っていたわけではありません。むしろ神を愛するという点では他のどの民族より優れたひとびとでした。ですから仮に神様が他の民族を選んだとしても結果は同じか、もっと悪かったのです。クリスチャンとしては、ユダヤ人を美化しすぎることも、反対に敵視することも間違いです。彼らは良くも悪くも人類の代表選手だったのです。イエス様が復活の後に天に帰られ、終末の時までそこに留まられることもまた旧約のうちに預言されていました。でもイエス様の霊がいてくださり、私たちは導きを求めることができるのです。聖霊の時としての今の時に生きている者は聖霊の導きを求めることなしに御心にかなって生きて行くことは出来ません



7月22日(土) 使徒言行録 3:24-26/ヨハネ17:1-12

普段は時代とか時ということを意識することは少ないのですが、最近の日曜のメッセージで語られたイエス様の十字架を頂点とした「時」についてこの頃よく考えます。ここで言われている時とは「イエス様の時」です。イエス様が今の時代の私たち一人一人の心に訪れてくださっているときです。それは聖書に記されている契約を神様が履行して下さっている。この契約を私たちの方でも承認することによって、わたしたちは悪から離れ、神様の祝福に与れるのです。自分で選んでこの時代に生まれてきたわけではなく、神様の計画によって21世紀を迎えようとしているこの国に生かされていることにどんな神様の計画があるのだろうかと思うと、なんだかワクワクしてきまませんか?