*2000年10月22日のメッセージ*
私のピンチは神様のチャンス
使徒言行録 8:1-25

A 試練に慌てないで

1)神様が危機を機会に変える 8:1-3 フィリピ3:12-16
 
2)愛に迫られて生きる 8:4-8 テモテへの手紙U4:1-8 

B 本物志向の信仰

1)本物でいたいなら 使徒言行録 8:9-11 ヨハネT4:1-6

2)誰にでもある本物を求める心 8:12-13 詩編107:1-9

C 試練を生かし輝いている

1)聖霊に満たされて生きるということ 8:14-20 ヨハネ14:15-31

2)ふるい自分を変えるたった一つの方法 8:21-25 ローマ6:1-14

*メッセージのポイント*
神様が働いておられることは順境のときよりもむしろ逆境の時のほうがはっきり知ることができます。神様はあなたが「もう自分ではどうすることもできない」と絶望した時、必ず事態に介入してくださるのです。実際あなたがどんな状態に遭っても神様が働いていないということはないのですが、ピンチの時の主の介入は鮮やかで速やかです。そのような主の導きをできるだけどんな時にも感じられるようにするには、主の前に素直になること、聖霊の恵みを拒まないことです。

*ミニチャーチのためのヒント*
1)あなたの危機に主が介入してくださった時のことをシェアしましょう
2)聖霊に満たされるという経験について話し合いましょう
3)どうしたら試練を乗り越えていけますか?

*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

10/23(月) 使徒言行録 8:1-3 フィリピの信徒への手紙3:12-16
 
 信仰に迫害、 恋愛に障害とどちらも人の心を燃え上がらせるものがあります。現在でも命を脅かされるほどの迫害がある地域の方が日本よりもクリスチャンの割合が大きいと聞いて思いついたことです。また、家族の間でもなにか惨事などがあると絆が強められることがよくあります。私達はほとんどの場合平穏無事な日々を送っていると、その状態を見つめ直すことをあまりしないのではないでしょうか。だれも望んで迫害を受ける人もいないでしょうし、ましてや惨事など避けたいものです。21世紀(もちろん先はわかりませんが)の日本という国に生かされているのは本当に神様の情け以外のなにものでもないと思います。でもそれを幸とするか不幸とするかは私達次第ではあります。自分の身に何か起こってから信仰の大切さを思うのなら誰にでもできますが、この箇所を私達に示して下さっているのは聖霊様の働きととるかということも私達次第なのではないでしょうか。

10/24(火) 使徒言行録 テモテへの手紙II 4:1-8

私たちが福音を語るとき、忍耐強く、一貫性をもたなければなりません。人々が真理を悟るのに時には時間がかかるからです。信じることを拒否する人がいた場合、私たちは何とかしようと、せかしたり押しつけがましくなりがちです。しかし、人々は語られたことばよりもむしろ、私たちの態度を注意深く見ているのです。押しつけられていると感じた人は、自分をだまそうとしているのではないかと思うかもしれません。それどころか、私たちは洗脳されているのだと勘違いされるかもしれません。(エホバの証人や、モルモン教は概して強引だからです。)私たちがすべきことは、ごく普通に、自然に真理を語ることだけです。そして、私たちの人々に対する純粋な思いやりの心を見てもらうしかありません。もし押しつけられているというプレッシャーなしで、福音を心から信じている私たちを見れば、私たちの持っているものが欲しいと思ってくれるはずです。これは、福音を早く広めることと同時に、神さまが人々の心を動かされることを待つという忍耐のバランスなのです。

10/25(水) 使徒言行録 8:9-11 ヨハネT4:1-6

魔術、奇術で人を驚かせその心をつかもうとするものはいつの世の中にも、どの国にもいるものです。人の心は目の前で見せられる不思議な業に簡単にだまされてしまいます。そしてそのように始まったムーヴメントがひどい結末に至って社会的な問題になるのを見ます。やはりそういったものには近づかないほうがいいのでしょうか?でも聖書は不思議な業がクリスチャンを通してもなされることを教えています。このことを否定したキリスト教信仰には知識だけで力がありません。いろいろ考えてやはり聖書に書いてある通りを単純に信じるのが一番だと思いました。大きなな違いは、その力がどこからくるのか?どのような動機でそれがなされるか?という点にあるのだと思います。どこからの方はともかく動機のほうはクリスチャンであっても時々チェックしていないと、不純な動機(愛に基づかない)に陥っていることがあります。

10/26 (木) 使徒言行録 8:12-13 詩編107:1-9

魔術師シモンは自身を偉大な人物と自称し自分が崇められることを優先し、神から遠ざかった生活をおくっていました。しかしその彼も自分中心の人生から神様中心に180゜変換することができました。言うまでもなくこれは主の働きで、人間の努力や能力によるものではありません。以前の私もシモンほど目だたなっかたにしろ根本的には自分中心という点でシモンと同様でした。しかし今、こうして神様につながっていられるのです。私が救われたということはどんな人でも神様と関係を保つことができるという証です。全ての人間は神様に作られたのですから、普段は意識していなくても主につながりたいという気持ちが潜在しているのです。身近な人が神様との関係を回復し保って生きる、人間本来の姿に戻れるように祈っていきたいと思います。

10/27 (金) 使徒言行録 8:14-20 ヨハネによる福音書14:15-31

 聖霊を受けるということに関して今ではさまざまな考えが認められるようになってきましたが、私がクリスチャンになったばかりのころは、聖霊を受けるということに対しては多くの反対や疑いがありました。使徒言行録によれば、そして私の経験でも主を心に受け入れるならその人は聖霊に満たされることができます。時にはそのことがほぼ同時にやってくることもあります。これは信じて従うものに対する特権であって、お金や労力の対価として受け取るものではなく、ただ主の恵みによって与えられるものなのです。この経験は神様からの慰めや励ましの力が理屈ではなく実際に心を包むものだということを私に教えてくれました。もしあなたが聖霊に満たされるという経験をしたことがないならぜひこの次のミニチャーチか礼拝でミニストリーを受けてください。

10/28(土) 使徒言行録 8:21-25 ローマの信徒への手紙6:1-14 

 私は26年間神さまの愛や御心を知らずに、この世のやり方にどっぷりつかって生きていました。ですから、クリスチャンとして成長するにつれ、「目からうろこ」的な発見を何度もしながら、今までの自分の考え方や行動を神さまに喜ばれるものに変えていくことを体験しました。 今日の聖句に出てくるシモンは、魔術を行っていたとあります。魔術と聞いても他人事のように思われるかもしれませんが、私たちの身近にある占いも魔術の一種と言ってよいでしょう(申命記18:9-14)。大人になってクリスチャンになった人なら、それまでに一度や二度は占いに興味深を持った覚えがあると思います。このことに限らず、今まで当たり前だと思っていたことが実は罪であると悟ったとき、私たちはいつでも悔い改めて、神さまの助けによって罪から解放され、自分を変えていくことができるのです。