*2000年11月19日のメッセージ*

聖書は最高の育児書

A 神様の目に子供たちはどのように映っているか

1) 祝されている存在 マルコ10:13-16(ルカ18:15-17,マタイ19:13-15)

子供たちは神の国のオマケではありません。それどころかその性質のゆえに祝福にふさわしい者たちです。私たち大人は、子供たちが主の前に出て祝福を受けることを無意識の内に邪魔していないか?ときどき反省してみる必要があります。子供は弱い存在で、大人の身勝手で神様にしっかりつながることができないこともあります。
しかしおろそかにしないことと子供に関心を向けすぎることとは違います。むしろ日本のあまりにも子供中心の家庭のあり方がクリスチャンホームにも影響を及ぼしています。子供たちは神の国の主役ですが、家庭での主役ではありません。

2) 神様がその親に委託している存在 マタイ7:7-12 

子供はあなたの所有物ではありません。私たちは子供を育てることを神様に委託されています。体の成長にはバランスの取れた栄養と運動、そして心の成長には経験や学び、遊びが欠かせません。 わたしたちは神様が私たち以上にわたしたちの必要を正確に知っていることを知っていて、それを与えていてくださいます。どんなに子供がほしがっても害になるものは与えません。 そしてわたしたちも同じ事を子供たちにするのです。私たちは神様に従って「子供たちの欲望」に応えるのではなく「子供たちの必要」に応えることを求められています。

3) 親の権威のもとにある存在  コロサイ3:18-21 エフェソ6:1-4

どんなことについても両親に従うべきことについては、両親がそうさせる責任があることを知らねばなりません。それぞれのテキストの直前に夫と妻との関係が記されていることに注目しましょう。親の権威は夫婦の健全な関係の上に初めて成り立つものなのです。親の価値観が違っているなら子供は混乱してしまい、やがて親をうまく使い分けることを覚えます。親子の一致の前に夫婦の一致を確立しましょう。それは世界観とか信仰、価値観の一致から始まって、具体的な生活のルールに至るまで夫婦がよく話し合い祈りあって確認してください。
権威ということについて、人間の権威(支配者、家長、男性)が非常に強かったこの国の歴史は、逆に権威を頭から否定する傾向にあります。親も子供に対して権威的であってはならないと思っています。しかし聖書は正しい権威に服すよう教えています。あなたが神様を畏れ従うなら、子供は喜んであなたに従います。このことは特に思春期以降の子供たちに当てはまります。しかしそれ以前に(もっと小さい時に)親がするべきことを怠っていたなら、思春期ではもう手遅れになってしまいます。


B 親の果たすべき責任

1) 服従すべきことを教える Tテモテ3:1-7 箴言13:24 

では乳幼児や小学生はどうでしょう。親が断固としてその権威を示す必要があります。「私たち夫婦の作ったルールが守れないなら、あなたはこの家にいることはできません」 あなたがそのことを時には鞭も辞さない覚悟で示すなら、(実際に何回かスパンクする必要もでてくるかも知れません)子供はすぐに、「この家で育てられている限り両親の権威のもとにある」ということを理解し、小学校の高学年にもなれば鞭も必要なくなります。少年犯罪は厳しすぎと過干渉、甘やかしすぎと放任の両方の極端に原因がありますが、今のこの国の問題の原因は甘やかしすぎと放任にあります。子供が成人する前に友達親子といった感じで、言い逆らうことや口答えを許したりするならば、それは親としての責任を放棄することになってしまいます。

2) 子供を鍛錬する ヘブライ12:5-11 箴言3:11-12

神様の鍛錬を受け入れられる人が、子供を正しく鍛錬することができます。親が自分に甘く子供にきびしいなら、子供はそれを簡単に見抜き、表面的にはともかく心から従うことを拒みます。
親がどれだけ立派かという事はあまり関係ありません。親が神様に従順に従っているかの方が問題です。もし親が神様に従っているならどんなに欠点だらけの親であっても、子供は神様により頼むことを覚えます。そして信頼できる神様からの試練も、その神様を信頼している親からの鍛錬もしっかり受け止め成長してゆくのです。

3) 神の権威に従って育てる 箴言22:6-9,13:24

親の権威の後ろ盾は神の権威です。神様の権威から離れて親が自分の欲望や感情に従って子に鞭を当てるならそれは虐待です。しかし、虐待と体罰の違いは、親の動機の違いであって何をするのかしないのかではありません。混同して鞭を放棄してはいけません。また教会が神の体であると認めるなら、子育ては決して個人的なことではなく教会全体の課題であることを認めましょう

*メッセージのポイント*

子供は弱い存在です。親が養わなければ生き延びることはできません。すべての人が神様なしに永遠の命を得られないように。私たちは「神様が私たちをどう扱われているか、どのように愛していてくださるか」ということから子育ての原則を学ぶことができます。それは「委託されている権威をどう正しく用いるか」ということに集約されます。そしてそれは神の義と愛の交わる「十字架の出来事」を原点としてなされる、ということです。子供たちが祝福からもれてしまわないように聖書の原則で彼らを育てましょう

*ミニチャーチのためのヒント*

1) クリスチャンの子育てにおいて大切なことは?
2) 鞭(体罰)の原則はどのようなものでしょう?体罰と虐待はどこが違いますか?

*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11/20(月)マルコ10:13-16; ルカ18:9-13

 子どもは未熟なので、まだ自分で色々なことを決める能力がなく、大人がコントロールする必要があると一般には考えられています。このことは、大人が子どもに教える必要があるという意味では真実です。しかし、逆にこの世の影響をまだ受けていない子どもたちは、良いことや真実なことを見分ける神さまから与えられた感受力を持っていることも事実です。私が子どもだった頃、祖母がよく「子どもはそこに居てもよいけれど、うるさくしてはいけない」と言っていました。これは、子どもが走り回ったり騒がしく遊ぶ時など、大人が子どもにイライラさせられるのでよく使われる言葉です。もちろん、子どもは時には限度を越えることがあり、大人が間に入る必要がありますが、たいていの場合子どもたちはただ楽しんでいるだけなのです。教会とは、そのように童心で楽しむような場所であるべきです。

11/21 (火)マタイ7:7-12

 知り合いの家族の話ですが、子どもたちがアイスクリームを食べ過ぎるので親が注意したところ、彼らは反省するどころかもっと食べたがりました。そこで、三度の食事代わりに毎回アイスクリームだけを食べさせたのです。初めこそ大喜びしていた子どもたちも、さすがに2日目にギブアップしたそうです。体験してみて初めて、親の言うとおり健康を保つためにはバランス良い食事を取らなければいけないことを学んだのです。 大人になった私たちはこの事を聞いて笑いますが、実はアイスクリームではなく別のものについて似たようなことを神さまの前でしていることがあります。自分がどうしてもしたいことや欲しいものがある時、それが私たちにとってベストではないとわかっている神さまはその願いに「No」と答えることがあります。でも、それをなかなか受け入れられずに、どうして神さまは祈りに応えてくれないのだろうと思ったことはありませんか?これはおそらく一生続く訓練なのでしょうが、親となった今は以前よりも理解できるようになりました。神さまが私にいつもベストなものを与えてくれるように、自分の子どもに必要なときにははっきりと「No」と言い、ベストなものを与えていくことが私の課題です。

11/22(水)コロサイ3:18-21 エフェソ6:1-4

 「子供はどんなことについても両親に従いなさい」とあるので親の責任は重大です。どんなことについても正しさが求められてきます。また権威を与えられているということも分かります。それだけ私達は主から信頼され子育てという大切な務めを任されているのです。しかしそれには前提条件があることを忘れてはいけません。直前の18、19節に妻と夫のあるべき姿が記されています。子育ては夫婦が互いに仕え愛する関係を子供達の目の前で毎日くり返し見せることが土台になります。子ども達が夫婦の間に神様の愛を感じる時に、神様が親に与えた権威が有効にはたらくのです。

11/23(木) テモテ3:1-7

私は子供を育てたことがありませんが、私の両親はしつけの厳しい人達です。もちろん今では対等に話せますが、まだ私が家にいた学生だった頃は、母に何か頼むときに友達のような口のききかたをすると、父から叱られたものでした。そして外で食事をするときなども、ウェイトレスの人にも粗野な口のきき方をしようものならピシッと叱られてしまうのです。その時はいちいちうるさい父だなぁと思っていましたが、今ではとても感謝しています。まず、どんな人にも尊敬の念を持って接することを覚え、自分にしてほしい様になるべく他の人にするようになりました。幼い頃に教わることは一生身に付くものですから、愛する自分の子供をしっかりとしつけをしなかったり、正しい考え方を教えないことは、親として責任を放棄しているのではないでしょうか・・。わがままでまわりの人々に受け入れられない子供は大人になっても寂しい人生となりやすいと思います。

11/24(金) ヘブライ12:5-11 箴言3:11-12 

子供は神様の祝福であるはずなのに、多くの家庭が育児、教育のことで悩みのうちにあります。
神様は、問題を見る前にまず自分を見ることを勧めます。これは親子の関係だけではなくすべての人間関係に生じる問題にあてはまります。
神様の鍛錬を受け入れられる人が、人を鍛錬する資格があります。あなたが自分に甘く人にきびしいなら、人はそれを簡単に見抜き、表面的にはともかく、心から従うことを拒みます。
あなたがどれだけ立派かという事はあまり関係ありません。あなたが神様に従順に従っているかの方が問題です。もし親が神様に従っているならどんなに欠点だらけの親であっても、子供は神様により頼むことを覚えます。そして信頼できる神様からの試練も、その神様を信頼している親からの鍛錬もしっかり受け止め成長してゆくのです。

11/25(土) 箴言22:6-9,13:24 


最近、児童虐待がよく問題になります。反対に、決して子供には手を上げるべきではないと考えている人もいます。わたしはこのことを聖書に照して考えるのが一番いいと思います。
聖書に従うなら、親の権威の後ろ盾は神の権威です。神様の権威から離れて親が自分の欲望や感情に従って子に鞭を当てるならそれは虐待です。虐待と体罰の違いは、親の動機の違いであって何をするのかしないのかではありません。混同して鞭を放棄するのは聖書が教えるところではありません。また教会が神の体であると認めるなら、子育ては決して個人的なことではなく教会全体の課題でもあるのです。