*2001年3月25日メッセージとディボーションノート*

私たちの価値観シリーズ(2)
私たちのクリスチャンの歩みに関わる価値観

A. 神のみことば(2テモテ 3:16-17; マタイ 24:35; マタイ 7:24; ヨハネ16:13 )

B. 神の国(マルコ 1:14-15; 使徒 5:12-16; マタイ 10:8)

C. 信仰によって生きること(へブル 11:4-16;創世記 12:1; ガラテヤ 3:6-9)

D. 神のあわれみ(2コリント 5:18-20; ローマ 3:10; ヤコブ 2:13)

*メッセージのポイント*
 これらの価値観は個人のためのものですが教会が価値をおいているものの基盤で
もあります。教会の価値観は個人の価値観によって影響されます。私たち一人一人が
日々の生活の中において、これらのことに重要な価値を置く必要があります。

*ミニチャーチのためのヒント*
個人個人の神さまとの関係は、群れ(グループ)のなかでどのように影響を与えます
か?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

3/26(月) 2テモテ3:16,17; マタイ24:35

クリスチャンにとって聖書は有って当たり前のようになってしまっていて、「神様が聖書を通していつでも語りかけていてくださる」ということのすばらしさに対する感謝を忘れがちです。誰もが自分の言葉で聴くことのできる神様の言葉をすべてのクリスチャンが共有している、どこへ行ってもいつの時代にも聖書の指針は変わらない。私たちは本当に安心して頼れるガイドブックを持っているのです。世界の主要な言語で訳されている聖書ですが、まだ訳されていない言葉も多くあり、ウイクリフという団体がそのような国、地域に翻訳宣教師を送り次々に新しい訳が生み出されています。私たちに日本語、英語の聖書が与えられているのも、過去に同じような働きがなされ、時間や財や労力がささげられたおかげです。神様は私たちに、このようにして与えられた聖書にもっともっと親しんでもらいたいと願っておられるのではないでしょうか。

3/27(火) マタイ7:24; ヨハネ 16:13

教界ではおかしなことに時々「聖書に従うのか、聖霊に従うのか」といった議論が巻き起こります。「聖書があるのだから預言というものはありえない」と言って、聖霊の働きと聖書の存在を調和させて考えられない人々がいるのです。聖霊の導きよりも人間の理性に頼ることの多い現代の教会ですが、聖書は聖霊の働きなしには正しく理解することはできません。実際聖書は日本でもベストセラーで、クリスチャンではない家にも聖書があることが多いですし、学校や会社のミーティングなどでは信仰とは関係なしに聖書の御言葉が引用されて用いられます。そしてそれは必ずしも正しいコンテキストで用いられているわけでは有りません。イエス様が十字架にかかられ私たちの罪を許すために死に,三日目に甦られたということも、聖書にそう書いてあることは誰にでもわかります。けれどもそれが本当に私のためになされたと「信じる」ことは聖霊の働きなしには不可能なのです。

3/28(水) マルコ1:14,15;使徒言行録5:12-16

イエスさまもそして弟子達も周囲の人々の必要にこたえて、癒し、なぐさめ、はげまし、諭し、食べ物を与えました。そうして福音は広がったのです。私たちも今置かれている場所で周囲の人々の必要に気付き、その必要に対して出来る限り満たすことが求められていると思います。どうぞあなたの周りの人たちのことを思い浮かべてみて下さい。家族―特にまだ神さまに出会っていない家族がいるなら、より注意深く本当の必要を見極める努力をしなくてはなりません。小さな子供がいるとしたら、遊びや生活そのものが愛にあふれることや、成長を助ける適切な知恵がいります。離れている家族には愛を表現するようにしなければならないでしょう。友人―ストレスに潰されそうになっている人の話を聞いたり、悲しみにしずんでいる人の側にいてあげたり、進むべき方向を探している人の相談にのったり・・他にもいろいろなコミュニティの人間関係がありますよね。あまりに日常的で、誰でもできそうなことなので、これがミニストリー?と思うかも知れませんが、イエスさまが私を愛し、してくださったことを思い浮かべて何かをするなら、それはミニストリーだと思うのです。

3/29(木) へブル 11:4-16

アブラハムをはじめ、ここに登場する人々は、自分たちの生き方より神の約束の方がよりよいものであると知っていました。また、神を信じることの方が、人間の論理を信じるよりもっと重要であることを知っていました。何か他のものを頼りたくなる思いが私たちにきたときにも、神と神のことばに信仰を持つことは神に喜ばれることです。自分の考え方に捕らわれず神に信頼をおくとき、神は応えてくださり、私たちをとおして働いてくださるのです。

3/30(金) 創世記12:1; ガラテヤ3:6-9

信仰とは何でしょうか?ヘブル11:1にも答えのひとつが書かれています。信仰の人と呼ばれるアブラハムは、将来何が起こるのかはわからなかったけれど、神様のおっしゃるとおり、信じ、従い、祝福されました。そして、私たちも、信仰のゆえにアブラハムの子孫とされ、神様からの祝福を受けるとあります。 頭ではわかったような気がしますが、実生活のなかでは、「これは本当に神様からの導きなのだろうか?」とわからない時が多くあります。私の失敗しながら学んだ経験からいいますと、神様からきたものであれば、必ず心に平安があるということです。また、決してせかされるような思いがきたり、あせって決断させられたりすることがありません。そして、信仰による一歩を踏み出した後、必ず行くべき道への扉が開かれます。開かれないときは、神様からではないのです。人間は不完全な者ですから、失敗や間違いはありますが、神様はそんな私たちを又受け入れてくださいます。だからこそ再び新たな信仰の一歩を踏み出すことができるのです。

3/31(土) 2コリント5:18-20; ローマ3:10; ヤコブ2:13

神さまに出会う前のパウロはクリスチャン迫害に参加していました。使徒8:3には「教会を荒らし家々に入って男も女も引きずり出し次々に牢屋に入れた。」と書いてあります。その後イエスさまは彼を回心させたので、彼は今までの自分の過ちに気付くことになります。そしてその過ちが事実として迫害された人々の心から消えることがないということも知ったと思います。しかし神さまに出会った後のパウロは罪悪感に押し潰されることなく、いきいきと宣教の務めを果たすことになります。パウロの過去がどんなであってもそれを赦し罪悪感からも解放する力をイエスさまは持っているからです。私たちにとってもイエスさまの存在は同様です。今までどんな醜くても、失敗をいくつ犯しても、人間的に魅力がないと思っても、また現在の自分がどんな状態でも、私たちは愛され赦される資格があるのです。今までの自分に悩む必要はまったくないのです。どんな人でもイエスさまから愛されることを受けとめ、パウロのようにいきいきとイエスさまとの新しい人生を歩む権利を持っているのです。