*2001年4月15日 イースター・メッセージノート*

 「復活力」 

メッセージの概要
イースターは日本人にとってクリスマスほどにはポピュラーではありませんが、クリスチャンにとってはクリスマスよりさらに重要な意味を持った日です。クリスマスは「イエス様がお生まれになった。楽しいうれしいめでたい」とよろこんでいればいいだけですが、十字架と復活の出来事は「あなたは私に従ってきますか?」という決断を人に迫るものなので、一般的にははやらないのかもしれません。でもイエス様はクリスマスでその人としての誕生を祝ってもらうよりも、あなたが「十字架と復活という事実を」知って、その重さを受け止めて「自分の十字架を背負って、イエスに従って行く」ことを願っておられます。この決断なしに人は本当の安心を得ることはできないからです。

A 復活の預言

1)イザヤのキリスト預言(イザヤ53)

2)ホセアの復活預言(ホセア6:1-3)

3)イエス様ご自身の預言(マタイ20:17-19)

B 復活の出来事

1)死に対する勝利(1コリント15:50-58)

2)弟子たちの変化-主の復活前・復活後

C 十字架と復活

1)一つの出来事の表と裏(1コリント15:12-22)

2)福音の中心(1コリント15:1-11)

D 復活の力(死に対する勝利の力、「安心」の根拠)

1)地上の命の終わりを恐れない(マタイ10:28)

2)インマヌエル-恐れるものは何もない、本当の安心

3)視野が広がる-神様の目で見る

メッセージのポイント
十字架と復活は私たちの信仰(神様に対する信頼)の根拠です。十字架の事実は私たちの無罪を確定し、復活は私たちが現実を生きる力を与えてくれます。十字架と復活は決して切り離して考えてはいけません。死(十字架)がなければ復活はありえないことだし、十字架だけを取り上げるなら、解放されているといいながら力のない惨めなクリスチャン生活を送ることになってしまいます。

ミニチャーチのためのヒント
1)十字架と復活?みんなでもう一度、復習してみましょう
2)なんでイースターはクリスマスほど人気がないのでしょうか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は金曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

4/16(月) イザヤ7:10-15/マタイ1:18-25
神様は2000年前にイエス様を目に見える形で私たちの前に立たせてくれましたが、現在はそのような形では存在しません。しかしイマニュエルと言われるように神様は確かに今も私たちと共におられるのです。私は10年前に教会に通い始めました。その時は神様の存在に対して半信半疑の思いを抱いていました。しかし教会に集まる人々と接しているうちにイエス様は過去の存在ではなく、今も離れずに人と共にいるということが確信できたのです。信じる人を通して、その全ての土台となるイエス様を見ることができたのです。そして自分も同じように神様との新しい人生をおくりたいと思ったのです。今、私にイエス様自身を見せることはできませんが、イエス様が私たちと共にいて生きているという事実は人々に示すことができるのです。

4/17(火) イザヤ53 
 このイザヤ書の箇所はは最もはっきりしたキリストについての預言です。ここに書かれているご性質は実際に福音書に描かれているイエス様の姿そのものです。
 旧約聖書の中にもイエス様についての預言があると教えられてとき、まさかと思いました。でもこのイザヤ書を教えられたとき、「本当にイエス様はこの預言のとおりに生きられたのだなあ」と感動したものです。そして同時にこの預言が神様からのものであり真正なものであるということも深く感じられました。なぜならそのような生き方をする人を想像することは誰にもできないでしょうし。またどんなに立派な人間であっても自分の力や精神力でそのように生きることは不可能に思えたからです。

4/18(水) マタイ12:38-42/ヨナ2:1-11
自分の過ち、不正な行いのために自分ばかりか何の罪もない人々も災いに巻き込んでしまった。という経験はありませんか?自動車の大量生産が始まったばかりのころ週末に製造された車は買わないほうがいいといわれたそうです。行員が休み前でそわそわしてボルトを締め忘れたり、就業ベルがなったとたんにいくつかの工程を終えないまま完成としてしまった、といったようなことがあったからだそうです。命にかかわることですから現代にはそんなことはないと願いたいものです。ヨナは自分の過ちに気づき自らが犠牲となろうとしましたが、神様が救われて新しい使命を与えられました。イエス様は自身には何の罪もないのに、みんなの罪を引き受けて死に、そして甦られました

4/19(木) マタイ20:17-19/ホセア6:1-3 
イエス様は旧約の預言が、自分が十字架にかかるということによって成就することを知っていました。このことを考えるときにイエス様が「真に人であり真に神である」ということが、本当によく納得できます。身代わりという以上、神ではなく人でなくては成り立たないわけですが、しみも汚れもない聖い犠牲になれる人などどこにもいません。ちょっと頭が痛くなるかもしれませんがいっしょによく考えてみましょう。「本当の神様が、本当の人として来てくださった」と教えるのは聖書だけです。有限の人間はどうあがいても神様にはなれませんが、神様は無限の力を持っておられるのであえて人となることができたのです。ですからこの資格をクリヤーできるのはイエス様しかいないのです。

4/20(金) ヨハネ20:1-10/使徒言行録2:22-28 
イエス様の人生全てが、旧約聖書の預言の成就でした。その誕生から二千年以上たった今でも、聖書や参考文献を読んで、そのことを理解することができます。しかし、イエス様の死と復活を目の当たりにした弟子たちは、「これこそ預言の成就だ!」とすぐに冷静に判断できる状況ではありませんでした。 使徒ペテロも、主の死と復活をはじめは理解できませんでしたが、聖霊が下られた後はっきりと知りました。そして、使徒言行録の2章で詩篇16篇を引用してイエス様の十字架と復活の意味を教えたのです。それはペテロが旧約聖書の預言に、あの朝、起こった出来事を人間の考えで結びつけて復活というアイディアを捏造したのではなく、復活という事実が確かにあったことを証明しています。

4/21(土) ヨハネ20:19-23/1コリント12:3
今日のヨハネの箇所を読み進んでいくと、トマスについての記述があります。彼は、他の弟子たちのように復活した主に実際に会わなかったので、すぐに信じることができませんでした。ここで、自分の目で主を見たかどうかによって信仰の強さが左右されたことがわかります。では、私たちを含め、後の時代にイエス様を見たことがないけれどクリスチャンになった者はどのように信じることができたのでしょうか?それは、聖霊の助けによってです。聖霊が私たちのうちに働かなければ、イエス様を救い主として受け入れ告白し、また、死からよみがえられたと信じることはできません。私たちは、トマスのように不信仰に陥りやすい人間です。しかし、いつも聖霊に満たされて、聖霊の助けによって、目に見えないものを信じ、確信する信仰をもち続けることができるのです。