*2001年10月28日メッセージノート*

あなたの人生は航海それとも漂流
フィリピ3:5-4:1

泳いでいるのか?おぼれているのか?/波乗りしているのか、漂っているのか?・・・・・・・
人の一生を航海にたとえることがあります。聖書にもそのような表現が多い。
今朝神様はあなた自身が人生という航海をしているのではなく、実はどこにたどり着くか分からない漂流に身を任せているのではありませんか?と警告されておられます。
神様があなたにして欲しいのは、何の目的も無く漂う人生ではありません。
自分の思っていた目的地についてみたら実は間違っていたという航海でもありません。
神様があなたにして欲しいのは、あなたが心から喜べる最終目的地に到着することなのです。

航海VS漂流
根本的な違い(Acts 27)
航海しているつもりの漂流(ルカ12:16-21)

どこに向かって航海するのか(フィリピ3:5-4:1)

経由港と目的港は違う
クリスチャンの航海はいろいろなところに寄港し荷を積んだりおろしたりする。その過程で間違った港に行き、間違った荷を積むこともある。天国へ一直線の旅ではなくプロセスが大切(救いを天国への入場券と思っている人=空荷で天国に帰るようなもの)。持ってゆく積荷を最初から持っているわけではない。途中で降ろしてしまったほうがよいものもたくさん積んでいる。クリスチャンでもいつのまにか最終目的地を忘れたり、経由地を目的と思ったりする。

目的地が間違っていては漂流と同じ(ヨナ1:1-5)、しかし神様に従おうと思うなら修正可能

子供たちはいつ船長になるのか?(箴言3)君たちはいつ自分の航海を始めるの?

クリスチャンである親の責任 
親は子供を自分の船に乗せて天国につれてはいけない。最初はあなたの船に乗っている、でも折に触れて航海の目的地や、積荷についての知識を伝え、時がきたら航海の知識を教え、彼ら自身の航海に送り出す。最初は鯨の親子のように進んでゆくがやがてそれぞれが神様に与えられた特別なプランに従って航海を始める。でも最終目的地は同じ。子供に「信仰」させることはできない、できるのは自分の信仰を見せること

子供はいつまでも乗組員ではない
今君たちは両親の船に乗っている=経済的にも精神的にも、でも信仰という点ではもう自分の航海に乗り出しているといえる、航路や寄港地を決めるのは神様と君との話し合いだ

親が漂流していたら?
親の限界、親の欠点が見えてくるのは成長のしるし、今度は君が君の信仰を親に見せる時だ


メッセージの要点
 聖書には多くの航海や漂流のシーンが出てきます。あなたの人生は、どこかに向かってはっきりと方向を定めた航海でしょうか?それとも目的が定まらず漂流している状態ですか?もし目的があるなら、それは本当にあなたの目指すべき最後の港なのかよく吟味してみましょう。同じ人生はひとつもありませんが、目的の最終港は同じだと聖書は告げています。それはキリストと似た姿に変えられること。イエスの愛で愛する人となって天国に帰ることです。けれどもこの航海はプロセスが大事です。人生という航海を通して私たちが学ぶべきことは、富を得る技術でも、名誉を得る技術でもありません。私たちは地上でのこの航海を通して「愛すること」を学び続けるのです。

ミニチャーチのヒント
1)あなたはどんな港を目指して航海していますか?それは最終目的地ですか?
2)あなたの航海においてあなたの親または子供はどのような存在ですか?