*2001年11月11日メッセージノート*

「子供は未来の***」 マルコ10:13-16

A イエスさまは子供をどう見たか?

祝福の対象としての子供たち(マルコ10:13-16)

信仰のお手本としての子供(ヨハネ6:8-9, 詩編131:1-3)

B 聖書はどう子育てについて教えているか?

親が神様から委託され責任を持って教育する

教えるべきことの中心は「主を知る」ということ(コヘレトの言葉12:1-14)

聖書は体罰肯定それとも否定?(箴言13:24、22:15)

C どうしたら子供は神様を信頼して生きる人に育つか?

自分の思い通りには育たない(創世記22:1-18)

自分の言う通りには育たない

親が見せるべき「背中」(ルカ10:1-24)

D どうしたらキレずに親と付き合えるか? (ルカ2:41-52)

子供時代のイエスさまの体験

親の限界を知る、そして赦す

親以外の大人と付き合う

メッセージのポイント
イエスさまにとって子供たちはいつも祝福の対象でした。子供は神様にそのままのあり方で愛されています。子供もまた神様を素直に慕う自然な気持ちを持っています。
一方でその幼さはとてつもなく残酷に思えることを平気でしてしまうという一面を持っています。「子供罪の無い」ということはありません。誰もが原罪を持って生まれてきます。罪の問題はクリスチャンホームに生まれようとそうでなかろうと、誰もが自分の決断で神様のもとに返らなければなりません。このことに大人は、親はどんな手助けができるでしょうか?私たちは子供を救うことはできませんが、子供にイエスさまとの付き合い方を見せることはできます。あなたが神様と表面的な付き合いをしているなら、子供はそれを見て同じようにするでしょう。あなたがキリストにある交わりを本当に喜んでいないなら、子供がそうなるわけがありません。

ミニチャーチのためのヒント
1)体罰と虐待の境目はどこにありますか?怒ることと叱ることはどう違いますか?あなたは感情をコントロールして叱ることができますか?

2)「幼子のような信仰を持て」とはどんなことを指しているのでしょう


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11月12日(月)マルコ10:13-16、マタイ18:6-9

 小さい子供は大人のオマケのように見られがちです。でも子供は未完成の大人ではありません。同じように尊重されなければならない人間です。命の重さはニューヨークのタワーで亡くなった働き盛りのビジネスマンも誤爆や地雷で命を落とすアフガニスタンの子供たちも違いはありません。ビルが崩れ落ちてゆく瞬間、その中に閉じ込められている人々に何もしてあげられないことに苛立ちとむなしさを覚えた人は多いと思います。子供を大事にすることは、もちろん甘やかすことではありませんが、飢えてこのままでは体が持たない子供たちにはまだしてあげられることがあるのではないでしょうか?そしてアメリカや、アフガニスタンではなくあなたの近所でもあなたの助けを必要としている子供がいるかもしれません。大人の理論、それがたとえ正当な理由をつけられたにしても。それによって苦しめられる子供たちがいるなら、それは神様の御心ではないと思います。

イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。

「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である。 もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい。」

11月13日(火)ヨハネ6:8-9、詩編131:1-3

 神様の素晴らしいところのひとつは、この社会では無力なもの未熟なものとして軽視されがちな子供たちをも愛され、働きのために用いてくださることです。「子供だから神様のために働くことはできない」というのはとても人間的で小さな考え方ではないでしょうか。子供だって誰かのために犠牲を払うことの喜びを知っています。私の子供たちが小さな頃、礼拝の中で皆の前で「主が重荷を取り去ってくださる」という歌を歌ったことを今でも覚えています。そこに集った様々な重荷を持った大人たちに、神様は彼らの歌を通して強く働かれ、重荷は確かに主の前に降ろされました。神様が子供たちを用いてくださった喜びは10年近くたった今でも忘れることはできません。

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。(ヨハネ6:1-15)

主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを/わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように/母の胸にいる幼子のようにします。イスラエルよ、主を待ち望め。今も、そしてとこしえに。(詩編131:1-3)

11月14日(水)コヘレトの言葉12:1-14、箴言13:24、箴言22:15

 「子供は神様からの預かりもの、責任を持って育てましょう。」と教えてきた私にとって、教育を失敗すれば自分ができなかったことを人に教えることになってしまいます。実のところ結構プレッシャーではありました。幸いというか、神様の恵みのうちに彼らはそれぞれの道を「主とともに」歩み始めています。子供たちをこのようにさせたいと願うのではなく、神様に対して心をニュートラルにして「あなたが子供たちにとってふさわしい道を歩くことができるように、今私たち夫婦がなすべきことを教え、それに必要なすべてを与えてください」と祈りながらやってきました。
 鞭について聞きたいですか?鞭を振るう(実際は手ですが)つもりはありましたが、実際にはほとんど振り下ろしたことはありません。子供たちに聞いてみると彼らが小さかったときには非常に厳しい両親に感じたそうです。子供のほうでは言うことを聞かなければ、「この人たち(両親)とは一緒に行けない、家族として認めてもらえない」と感じていたようです。(特に父親は)私は神様から委託された責任としてこの権威を行使したのですが、子供たちがどう感じているかは彼らに聞いてみてください。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と/言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。その日には/家を守る男も震え、力ある男も身を屈める。粉ひく女の数は減って行き、失われ/窓から眺める女の目はかすむ。通りでは門が閉ざされ、粉ひく音はやむ。鳥の声に起き上がっても、歌の節は低くなる。人は高いところを恐れ、道にはおののきがある。アーモンドの花は咲き、いなごは重荷を負い/アビヨナは実をつける。人は永遠の家へ去り、泣き手は町を巡る。白銀の糸は断たれ、黄金の鉢は砕ける。泉のほとりに壺は割れ、井戸車は砕けて落ちる。塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。なんと空しいことか、とコヘレトは言う。すべては空しい、と。コヘレトは知恵を深めるにつれて、より良く民を教え、知識を与えた。多くの格言を吟味し、研究し、編集した。コヘレトは望ましい語句を探し求め、真理の言葉を忠実に記録しようとした。賢者の言葉はすべて、突き棒や釘。ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。それらよりもなお、わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。(コヘレトの言葉12:1-14)

を控えるものは自分の子を憎む者。子を愛する人は熱心に諭しを与える。(箴言13:24)

若者の心には無知がつきもの。これを遠ざけるのは諭しの。(箴言22:15)

1月15日(木)創世記22:1-18、詩編112

 皆さんはこのアブラハムとイサクの話を読むときどんな感想をもちますか?私は最初に読んだ時には納得いきませんでした。何で神様が親に子供を屠らせようとしたのか理解できなかったのです。結局実際には手を下させなかったわけですが「神様、それは冗談にしてもたちが悪すぎますよ。このエピソードはあんまり人には紹介したくないです」とつぶやきました。神様にはこの先アブラハム、イサク、ヤコブから始まるイスラエル民族を通して準備しようとしておられる全人類の救いの計画がありました。この偉大な計画は人間の年齢を考えるなら、何代も引き継いでいかなければならない長期計画です。この計画を担うことのできる人の条件は「どんなことでも、どんなときにも主に信頼する人」です。神様は私たち自身がそうなることと同時に子供たちをそのように育てることを望んでおられます。

これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:1-18)

ハレルヤ。いかに幸いなことか/主を畏れる人/主の戒めを深く愛する人は。 彼の子孫はこの地で勇士となり/祝福されたまっすぐな人々の世代となる。 彼の家には多くの富があり/彼の善い業は永遠に堪える。 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る/憐れみに富み、情け深く、正しい光が。 憐れみ深く、貸し与える人は良い人。裁きのとき、彼の言葉は支えられる。 主に従う人はとこしえに揺らぐことがない。彼はとこしえに記憶される。 彼は悪評を立てられても恐れない。その心は、固く主に信頼している。 彼の心は堅固で恐れることなく/ついに彼は敵を支配する。 貧しい人々にはふるまい与え/その善い業は永遠に堪える。彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。 神に逆らう者はそれを見て憤り/歯ぎしりし、力を失う。神に逆らう者の野望は滅びる。(詩編112)

11月16日(金)ルカ10:17-24、ヘブライ5:11-14

 新しい料理を作るときにはレシピや料理本を見ながら作ります。新しいコンピュータやソフトを手に入れたときにはマニュアルです。子育てでも同じようにマニュアル本でといった傾向があるようです。うつ伏せ寝が良いとかいてあるとみんな右へならへですが、それが原因で窒息といった事故もありました。子供は最初から別室で寝かせるべきですか?それとも添い寝?新人パパママは育児書の傾向が変わるたびに右往左往します。でも永遠のベストセラー聖書が最高の育児書であることはクリスチャンにさえあまり知られていません。もちろん聖書には子供がいつ離乳食を食べ始めたらよいかなんて書いてありません。それは個人差のあるそしてたいした問題ではないからです。聖書は親である自分自身がどういう態度で子供に接するか、心の離乳食はどう始めるかなど無くてはならない大切なことが記されています。

そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らだけに言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(ルカ10:17-24)

このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。 乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。 固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。(ヘブライ5:11-14)

11月17日(土)ルカ2:41-52、コロサイ3:18-21
 「まったく分かってないんだから」とイエスさまがつぶやいたかどうかは知りませんが、母マリヤの言葉や行動には時々イエスさまも閉口したようです。あなたも「親って何でこうなんだろう」とつぶやいたことがあるはずです。音楽や服の好みなどの物事に対する見方、感じ方が違うのは何も世代間だけのことではありません。「違いのわからない教会」になりたくはありませんね。子供たちがなにやら始めたとき、自分の感覚や常識に頼って、それを押さえつけようとすれば、神様に対して「改革抵抗勢力」になってしまうかもしれません。でもその一方で正しい目を持っていなければ、彼らの心が主からそれていったときに修正することができません。あなたが自分を大人だと思っているなら、子供たちのする事を神様の目で見られるように祈りましょう。あなたがまだ大人でないなら、大人のご機嫌をとるいい子になる必要はありませんが「神様が自分に何を求めておられるか」ということを間違えないようにいつも真剣に祈り求めてください。

祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。(ルカ2:41-52)

妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。 夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。 子供たち、どんなことについても両親に従いなさい。それは主に喜ばれることです。 父親たち、子供をいらだたせてはならない。いじけるといけないからです。(コロサイ3:18-21)