*2001年11月18日メッセージノート*

神は人になれるか? ルカによる福音書1:26-38

A 歴史上、最初で最後の出来事

1)よい知らせの内容

2)神様が人の子供として(31)

3)ダビデの王座に着くために(32-33)

B マリアに学ぶクリスチャンの態度(26-34)

1)わからなくてもいい

2)恐れてもいい

3)たずねてもいい

結論

1)神様にできないことは何もない(37、詩編34:16-23)

2)お言葉どおりこの身になりますように(38、マルコ14:32-36)

メッセージの要点
クリスチャンでなくても誰もが楽しいひと時を過ごしたいと思うクリスマス。私たちは何を、なぜ、どのように祝うべきなのでしょう。それは神様ご自身が歴史の中に介入されたこと、罪に捕らわれていた私たちを解放するための最終計画を思い起こし、感謝しながらまだ続いている解放のための戦いの中で、任された役割を果たしてゆくことを決意するとき。神様がともにいてくださることを同じ思いを持った人々とともに希望と喜びを分かち合うときです。神様は、本当のクリスマスの喜びに招き入れたいと思っている人々に、あなたを通して多くの人に伝えたいと願っておられます。

ミニチャーチのヒント
1)自分のクリスマスの思い出(楽しかったことでも、寂しかったことでも)を分かち合いましょう
2)クリスマスってクリスチャンにとってどういう意味があるの?と聞かれたらあなたはどう答えますか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

11/19(月)ルカ1:1-4/テモテU3:10-17
クリスチャンになって聖書を読み始めた頃、「なんで福音書は4つもあるのだろう。重複もあるし、同じことについて少し違っているところもあるし」と不思議に思いました。特に最初の3つ(中でも特に似ているので共観福音書といいます)の違いは全く分からず紙の無駄じゃないかと思ったほどです。けれども今になって4つの福音書を読むと、微妙な描写の違いが、混乱や無駄をもたらすのではなくむしろイエスさまの姿や、教えをより深く知るために4つの福音書は欠かせないということが強く感じられます。いろいろな方向からのライティングで建物や彫刻がより立体的に見えるように、それぞれの福音書を丁寧に、注意深く読むことでイエスさまのことをもっとよく知ることができると思います。

わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。 (ルカ1:1-4)

しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、 アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えました。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。 キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。 悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。 だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、 また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。 聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。 こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。(テモテU3:10-17)

11/20(火)ルカ1:5-12/創世記18:1-15
 聖書には、子供のいない年老いた夫婦に子供を授けられる話が、旧約、新約にそれぞれ出てきます。また神様が子供になかなか恵まれない母の祈りを聞き入れてくださる話(ハンナ、ラケル)も出てきます。子供が誕生するということは夫婦にとって大きな喜びです。特に長年、子供に恵まれなかった夫婦の間に子供が生まれることは格別の喜びです。でも私たちはそれが当たり前だと思ってしまって、子供が与えられないことを悪いことのように受け取ってしまう傾向があることも注意しなければいけないと思います。神様の計画によって子供が与えられない夫婦もあるのです。不妊治療をするべきなのか、生涯を二人で神様に使えるべきなのか、養子を育てるべきなのか、夫婦は御心を求めて祈ります。周りが「子供がいることが当たり前」という気持ちでいると、教会は子供のいない夫婦に対する愛と配慮を欠いてしまうかもしれません。

ユダヤの王ヘロデの時代、アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。 二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき、 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って香をたくことになった。 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた。 すると、主の天使が現れ、香壇の右に立った。 ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。(ルカ1:5-12)

主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、 言った。「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。 水を少々持って来させますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。 何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」その人たちは言った。「では、お言葉どおりにしましょう。」 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」(創世記18:1-15)

11/21(水)ルカ1:13-17/箴言4:1-9
二人の子供にはイエス様とともに路を歩んで欲しい、神様を頼る人になって欲しいという願いをこめて名前をつけました。この願いを叶えるためには親である私たちが責任をもってそれを実行する必要があります。親が毎日の生活の中で神さまに頼って生活していれば、子供たちは自然に神さまの存在を感じ取り、自分たちにも必要性を覚えるでしょう。最近のメッセージでくり返し語られているように、行動により神さまを畏れることや、本当の愛を現すのです。何十人の人にイエス様を伝えることができても、子供に信仰が伝わらないという例があります。なぜなら一番身近にいる子供たちは家の中での親をよく観察しているのでごまかしがきかないからです。子供の誕生は大きな慰めと、喜びですが同時に親には大きな責任が負わされます。子供たちと信仰を分かち合う日を夢見て、この責任を果たしたいと思います。

天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。 その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。 彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、 イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。 彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(ルカ1:13-17)

子らよ、父の諭しを聞け/分別をわきまえるために、耳を傾けよ。 わたしは幸いを説いているのだ。わたしの教えを捨ててはならない。
わたしも父にとっては息子であり/母のもとでは、いとけない独り子であった。 父はわたしに教えて言った。「わたしの言葉をお前の心に保ち/わたしの戒めを守って、命を得よ。 わたしの口が言いきかせることを/忘れるな、離れ去るな。知恵を獲得せよ、分別を獲得せよ。 知恵を捨てるな/彼女はあなたを見守ってくれる。分別を愛せよ/彼女はあなたを守ってくれる。 知恵の初めとして/知恵を獲得せよ。これまでに得たものすべてに代えても/分別を獲得せよ。 知恵をふところに抱け/彼女はあなたを高めてくれる。分別を抱きしめよ/彼女はあなたに名誉を与えてくれる。(箴言4:1-9)

11/22(木)ルカ1:18-25/ヨナ書 3,4章
神さまが私たちに何かを語るとき、実に色々な方法をもっておられるなあと感心させられます。聖書を読んでいると、今日の箇所のように、本当に不思議なことや奇跡的なことがたくさん出てきます。でも、これは遠い昔の出来事ではなく、神さまは今もそのような方法をとられるのです。 私がまだ、はっきりとイエス様を信じる前のことでしたが、クリスチャンの家庭集会で祈ってもらい、癒しを体験しました。(このことは神さまを信じるきっかけとなりました。)また、ある夜夢を見て、間違った道を進んでいたことに気づかされました。他のクリスチャンを通して、預言を与えられたこともあります。 私たちが本当に心を開いて神さまに求めるなら、主は必ず応えてくださいます。神さまを小さな箱に収めようとしないで、大いに期待しましょう!

そこで、ザカリアは天使に言った。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」 天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。 あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」 民衆はザカリアを待っていた。そして、彼が聖所で手間取るのを、不思議に思っていた。 ザカリアはやっと出て来たけれども、話すことができなかった。そこで、人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った。ザカリアは身振りで示すだけで、口が利けないままだった。 やがて、務めの期間が終わって自分の家に帰った。 その後、妻エリサベトは身ごもって、五か月の間身を隠していた。そして、こう言った。 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました。」(ルカ1:18-25)

主の言葉が再びヨナに臨んだ。 「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」 ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。 ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。 このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、 王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。 人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。 そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」 神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。
ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(ヨナ書 3,4章)

11/23(金)ルカ1:26-33/詩編34:15-22
 私たちの誰もが、生きていく上での心配事や不安を持っています。例えば、仕事の安定性、将来の計画、健康、家族の安全、他国への旅、世界で起こっている憎しみ合いや戦争・・・等々。聖霊の働きの一つは、私たちへの励ましです。私たちが不安に悩まされるとき、聖霊は来て下さり、私たちに対する父の愛を再び確信させてくれるのです。それはちょうど聖霊がマリアにしてくださったのと同じです。イエス様の業
によって、父の目に、私たちは義であり神の子供なのです。どんなに絶望的に感じたとしても、私たちは常に神のご計画のうちにあり、常に神の支配のうちに置かれています。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。 すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。 あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。 その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。 彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」(ルカ1:26-33)

悪を避け、善を行い/平和を尋ね求め、追い求めよ。 主は、従う人に目を注ぎ/助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。 主は悪を行う者に御顔を向け/その名の記念を地上から絶たれる。 主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。 主に従う人には災いが重なるが/主はそのすべてから救い出し 骨の一本も損なわれることのないように/彼を守ってくださる。 主に逆らう者は災いに遭えば命を失い/主に従う人を憎む者は罪に定められる。
( 詩編34:15-22)

11/24(土)ルカ1:34-38/マルコ14:32-36
「御心がなりますように」と私たちは祈りますが、御心が自分の思いと違っていたり、受け入れがたいことであるときに、「ちょっと待った」と思うことはないでしょうか?イエス様でさえ、十字架に架けられることを素直に受け入れた訳ではありませんでした。でもイエス様にもそしてマリアにも「自分が願うこと」ではなく、「御心にかなうこと」を求める従順さがありました。従順であるということは、神様を心から信頼することでもあります。私たちが御心に従いたいと願う時に、神様は各々の成長の度合いやキャパにあわせてチャレンジを与え、徐々に主への信頼を深めさせてくれます。私はメッセージの通訳を月に一度していますが、時々「逃げたい!」と思ってしまいます。自分にはメッセージの通訳をする資格も能力もないからです。でも神様は私の「主にもっと仕えたい」という願いを知っていて、このような(私にとっては)チャレンジを与え、主を心から信頼し仕えることを教えてくれています。困難に見えたり意表をついていることでも、それが神様から来るものであれば、従う価値はあるのです。

マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」 天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。 あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。 神にできないことは何一つない。」 マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。(ルカ1:34-38)

一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。 そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、 彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」 少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、 こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:32-36)