*2001年12月2日メッセージノート*
イエスさま誕生にかかわる二人の人物の謎
(ルカによる福音書 1:39-80)

マリアとバプテスマのヨハネファミリーから学ぶクリスチャンライフ

A マリアが教えてくれる歩み方

1) 主の言葉は必ず成るという信念
私たちにとって、聖書の言葉が現実のものになるという信頼こそが明日を生きる力です。それはともにいてくださるイエスさまに対する期待でもあります。主と主の言葉を信じる喜びは日々主につながって、つまり教会の生きた枝として歩む生活の中で得ることが出来るものです(1:39-45, 使徒言行録13:44-52)

2) かけがえのない神様の小作品としての私
私たち一人一人は神様の作品です。神様がマリアにしてくださった偉大なわざは、私たち一人一人が神様のもとに立ち帰り、永遠の命をいただいて新しい人生を与えられるという偉大なわざの出発点です。私たちが神の御子イエスキリストを身ごもるわけではありませんが、人々はあなたを「幸いな人」とみるのです(1:46-49a, 箴言31:10-31)

3) 神様の価値観を知り、その価値観に従って生きる
神様がどんなに素晴らしいお方であるかが歌われているマリアの賛歌の後半です。ここでは神様がどのような人の味方であるかが明らかです。神様が弱いもの、貧しいものの友として助けてくださったことは、神様が持っておられる価値観の現れです。そして私たちもそのような価値観を持って生きてゆくことを望まれているのです(1:49b-56,サムエル上2:4-8a)

B エリザベト・ザカリア・ヨハネが教えてくれる信仰の態度

1) エリザベト−慣例にとらわれずに神様の命令に従うことの強さ・柔軟さ
当時の慣習に従って命名されるだろうと思っていた周りの人々は、彼女が前例のないことをしようとしたので反対しました。頼みにすべき祭司である夫のザカリアが口をきけない状態だったので、彼女は自分で、普通であればおとなしく従うべき人々にはっきりと主の意志を主張しました。このことから私たちは、性別や年齢にかかわらず自分で主に聞く態度(しかも正確に)を持つことと、それをはっきりと主張するべきときを知りまわりの雰囲気に妥協しない強さ、柔軟さを教えられます(1:57-66, 使徒言行録10:9-16)

2) ザカリア−聖書の約束を心に留め、子を育てる態度
ザカリアはユダヤ教の祭司として神様に仕えてその生涯をすごしてきましたが、子供に恵まれずに晩年を迎えることに、妻エリザベトとともに一抹の寂しさを覚えていたのです。しかしどのような方法であるにせよ神様が良いもので人生を満たしてくださる方であることを疑うことがなかったので、ヨハネを神様の働きのために用いられる人として育て上げることが出来ました(1:67-75, 詩編23編)

3) ヨハネ−まだ主を知らない人に対する「道備え」という生き方
イエスさまの宣教が始まる前に、人々の心を整える働きをヨハネがしたように、イエスさまが再びこられる前の働き人として主は私たちを用いられます。伝えるべきこと(福音の本質)をはっきりと伝え、伝える必要のないことは伝えない姿勢を身につけましょう(1:76-80, 2テモテ4:1-5)

メッセージの要点
イエスさまの誕生を喜ぶだけなら、イエスさまを信じない人でもしていることです。クリスマスの出来事を信じるということは、神様が私たちに託した「特別な出来事の意味」を知るとともに、この出来事に当時の人々がどうかかわったかを学び、自分の歩みに役立てることです。マリアとザカリアから学んだ6つのことを心に留め、今年のクリスマスが一人一人にとって特別な意義深いものとなりますように

ミニチャーチのためのヒント
1)マリアの生き方から教えられたことで一番印象深かったのはどのようなことですか?
2)私たちはまだ主を知らない人々にどんな道備えをしたらいいでしょうか?


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

12/3(月)ルカによる福音書1:39-45 使徒言行録13:44-52
 私はクリスチャンになる前、全くと言っていいほど聖書のことやイエス様のことを知りませんでした。でも、初めて聖書を読んだとき、なぜかとても心を打たれ、これは本物だという確信のようなものがすぐに与えられました。元来単純な性格であったことが幸いして、あまり理論的なことや知識に捕らわれず、素直に信じることができました。一方、私の友人で『石橋を叩いて渡る』タイプの慎重な人がいます。聖書や神さまの知識も豊富なのに何とか自分の頭で理解したり納得しようとするあまり、一歩進んで信じ、受け入れることがなかなかできませんでした。彼女は何年もかかってクリスチャンとなりましたが(PTL!)、今、その信仰は堅くゆるぐことがありません。このように、主は子供のようにすぐに受け入れ慕う者はもちろん、理論を重んじ時間がかかる者も、必ず心に触れてくださいます。ポイントは、あなたがどんな性格であれマリアのように「疑わずに信じきっていますか」ということです。聖書の言葉が真実であると信じきることは、私たちの生きる力です。そして、そのことによって喜びと平安と自由が与えられるのです。

12/4(火)ルカによる福音書1:46-49a 箴言31:10-31
同僚に非難の矛先が向いた時、安心するとともにその人を蔑む罪が自分の中に潜んでいることに気が付きました。その同僚には普段から好感を持って接していたのに、簡単に反対の感情を抱いてしまう自分のもろさが表面化しました。自分の卑しさにはあきれてしまいます。人間である以上誰でも罪をもっています。マリアは自分のことを「卑しいはしため」と告白していますが、彼女も普通の女性で、私と同じように罪深かったのでしょう。しかし主は彼女をイエス様を身ごもる者として大いに用いました。この事実は私に大きな希望を与えてくれます。私のように罪深い者に何ができるのか、イエス様を伝える資格があるのか、と不安になる時がありますが、マリアを用いたように私にもしてくださるということがはっきり分かるからです。クリスマスの時期に私をはじめ教会の皆が用いられるよう祈ります。

12/5(水)ルカによる福音書1:49b-56、サムエル上2:4-8a
クリスチャンになる前は、平凡でなんのとりえも無い自分が好きではありませんでした。なにか私らしいこと ─ 好きなことでも、得意なことでも ─ を見つけたくて、色々試してみましたが見つかりませんでした。個性的な友人たちと比べては、自分の魅力の無さにがっかりしていたのです。けれども神さまに出会って、こんな自分でも神さまに造られ、愛され、必要とされている存在だと知りました。神様の目には充分に個性的なのだと分かったのです。そのことを受け入れることは私にとって本当に「救い」でした。もう平凡な自分を嘆かなくてもいいのです。クリスチャンになってからも時々落ち込みそうになりますが、神様の目を思い出し軌道修正することは出来ます。もっともっと自分自身を愛して、神様のユニークな業の一端を喜んで担いたいです。

12/6(木)ルカによる福音書1:57-66、使徒言行録10:9-16
たいていの場合は非常識よりは常識的であることのほうがいいに決まっていますが、時として常識が大切な判断を誤らせることがあります。ユアチャーチが今のビルを借りるときも常識的には教会の経済状況から考えるなら、無謀な計画だったと思います。またインターネットのホームページを見て人々が教会につながることなど導入したときにはほとんどの人が疑わしく思っていました。でも主の導きと信じて始めたのです。そして私たちは収穫を見ています。今の時期に牧師をケニヤに送り出すのも、広い礼拝会場を借りようとしていることも心配です。でも牧師に主が正しい導きを与えてくださるように、教会が与えられた確信に従って歩めるように祈って踏み出してゆくべきだと思います。

12/7(金)ルカによる福音書1:67-75 詩編23編
 ザカリアはユダヤ教の祭司として神様に仕えてその生涯をすごしてきましたが、子供に恵まれずに晩年を迎えることに、妻エリザベトとともに一抹の寂しさを覚えていたのでしょう。しかしどのような方法であるにせよ神様が良いもので人生を満たしてくださる方であることを疑うことがなかったので、ヨハネを神様の働きのために用いられる人として育て上げることが出来たのだと思います。そして預言の中でもヨハネが「生涯、主の前に清く正しく」という人生観を親子で共有しているように、それはアブアハムに神様がした約束の成就を時が良くても悪くても頑固なまでに信じる者の、人生の勝利を約束しているように思えます。

12/8(土)ルカによる福音書1:76-80、第2テモテ4:1-5
世界貿易センターであの惨事が起きた次の日、ある人が「まるで終末だ」と話していました。たしかに、終わりの日つまり主が再び来られる日は近いのかもしれません(もちろん誰も「いつ」かは分かりませんが)。でもクリスチャンは、ただ自分が救われたことに満足して、イエス様が来るまでぼうっとしていても良いのでしょうか?あの事件の後、私は世界が混乱しているからこそ、余計に「折が良くても悪くても」(テモテ4:2)みことばを宣べ伝えなくてはならないと思うようになりました。以前メッセージで語られたように、私たちは1人ひとりが神の宣教師です。誰に、どうやって伝えるかは皆違いますが、私たちが願えば、神様は年令や経験に関係なく私たちを用いる事ができます。私はずっと前からアジアの人々に福音を伝えたいと願っていたのですが、来年その第一歩としてタイに行くことになりました。私の中では何か特別な事をするというより、「平凡なクリスチャンが、違う国・文化の中で、でも今までと同じように、自分が体験したイエス様の救いと本当の喜びを伝える」という風に捉えています。ヨハネはイエス様の宣教が始まる前に、人々の心を整える働きをしましたが、今度は私たちの出番です。再び主が来られる前に、人々に主の愛を伝える働き人として用いてもらいましょう。