*2001年12月16日メッセージノート*

クリスマス − 平和の時(それとも?)ジョン ニューマン

1.クリスマスの伝統(イザヤ書9:6(新共同訳9:5)、詩編122:6)

2.戦争!(マルコ13:7)

3.イエスは平和をもたらす(ヨハネ14:27, 16:33)

4. 真の平和は神のみからくる(1コリント14:33)

*メッセージのポイント*
真の世界平和は神の国の原理に直接関係しています。もちろん、私たちは常に平和の
ために祈るべきですが、現実には、完全な平和はイエス様の再臨まではやってきませ
ん。


*ディボーションノート*
―神様との親しく静かな時を持つためのヒント―

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所は日曜日のメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書箇所を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

12/17(月)イザヤ書9:6(新共同訳9:5)
クリスチャンになる前は世界のどこかで戦争があっても、とても遠いところの話としてしか受け止められませんでした。けれど神さまがひとりごをこの世に遣わしてくださったその愛を知ってからは、私に無関係ではなく、祈ることが出来るのだと知りました。あらゆる国のあらゆる民族を救いたいという神様の願いが成るために、世界中のクリスチャンは祈ることができるのです。ひとり一人の祈りは小さいように思えるかもしれませんが、合わせれば大きな力になるはずです。神さまの願いとは逆の方向へ進んで、人間は争いあい、傷つけあっています。もっともっと真剣に祈る必要があるということだと思います。普段の私の祈りは身近なことばかりに偏りがちだと気づきました。神さまは私の真剣な祈りを求めておられるのだと。

12/18(火)詩編122:6 
今日のイスラエルとパレスチナのテロと報復の繰り返しには絶望感を覚えてしまいます。最初は聖地エルサレムを手に入れるために攻撃が始まり、その後はその憎しみに報いるために人殺しが繰り返されてきています。エルサレムが神の国の中心のシンボルならば、今の現実は正反対に位置していると言えるでしょう。聖書は時代を超越した神からの言葉であり、「エルサレムの平和のために祈れ」という神からのメッセージは現代にも当てはまります。エルサレムをめぐる多くの人々が主の力によって平和をつかむことができるように祈りたいと思います。この争いは何十年も続いている出口の見えない状況です。しかし神様の権威によって解決を与えてください。

12/19(水) マルコ13:7
 9月11日の悲劇とそれから始まった、そして今も続いている出来事に何人かのキリスト教指導者たちは、これは世の終わりが近い徴だと発言しました。でもよく考えてみると人間の歴史は有史以来、争いの歴史であるとも言えます。過去二回の世界大戦の時も多くの人が終末の徴と考えました。でも歴史はまだ続いています。キリスト教界には主の再臨が早くきてほしいと願う運動がありますが、それは正しい態度でしょうか?クリスチャンであっても願いは様々です。そして願いを持つことはよいと思いますが、私たちがそれをコントロールすることは出来ません。それがいつかということについては神様がお決めになることなのです。先日あるクリスチャンが「こんな世の中はもうたくさんだ早く主が再臨されればいいのに」と言ったので、私は正直な気持ちとして「まだ当分先がいいな、少なくとも孫の顔を見てから」と応えました。もちろん私の願いとは別に主はもう終わりですと明日こられるかもしれません。でも逆にあと2000年くらい経っても世は続いているかもしれないのです。私たちとしてはどちらでもいいように日々を、主に従って一歩ずつ誠実に歩いてゆくことを神様に期待されているのだと思います。

12/20(木)ヨハネ14:27 
 聖書は矛盾している?ここではイエスさまは平和をもたらすといっているのに聖書のほかの箇所では「平和ではなく分裂や剣(マタイ10:34、ルカ12:51)を」と言っている。それにイエス様がこられる前もその後もずっと争いは続いているし。でも後半にヒントがありました。イエスさまが与える平和は世が与えるものとは違うのですね。コルトという会社は「ピースメーカー」と名付けられた拳銃で有名です。西部劇でおなじみの「ピースメーカー」はそれ以前の拳銃に比べて性能(つまり殺傷能力)が優れたヒット商品でした。自分や自分の国が相手より優位にたって力で維持する平和、それが世の与える平和です。それに対して、イエスさまの平和は一人一人が神様との関係を正常化することによってもたらされる平和です。「銃や、ミサイルや、爆弾を使わないで平和は得られない」とどの国の政治家も叫びますが、考え直してほしいですね。特にクリスチャンを自認している政治家たちには。そして私たちはイエスさまの与える「平和」の使者として歩みたいものです。

12/21(金)ヨハネ16:33
私を含め、この教会の何人かが以前通っていた教会の牧師の奥さんであるポーラが、1999年にシャイ・ドレイガ−症候群という病の為、天に召されました。病に冒されてからの彼女に、個人的には会うことはなかったのですが、後で聞いた話によると、神経がだんだん麻痺するこの病にかかっていた数年の間も、彼女は教会でワ−シップをリードしたり、寝たきりになってしまっても、彼女を見舞う人々を逆に励ましたりしていたそうです。死に向かっている人がとる行動とは思えない程、彼女は自分の状況に不平不満を言う代わりに、神の主権に身を委ね、最後まで主に仕えた人でした。どんな状況に陥っても、たとえ死の危険が迫っていても、絶望せずにいられるのは、主を信じる者だけが得られる特権です。なぜならイエス様は「すでに世に勝っている(ヨハネ16:33)」ので、私たちの肉体はたとえ滅びたとしても、魂は永遠に生き続けることが約束されているからです。

12/22(土)Iコリント 14:33、詩篇119:165
 PKO (Peace Keeping Operation)という国連の機関があります。皆さんもご存知のとおり、平和維持活動をすることが目的ですが、過去に何度か重大な失敗があったことが報告されています。ボランティアなどでPKOに参加していた日本人が現地で殺害された悲しいケースもいくつかあったことは私の記憶にも残っています。このこと一つを例に挙げても、人間がいくら平和を作ろうとしてもそこには限界があるとわかります。真の平和は神さまにしかもたらすことはできません。それは、たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても恐れない(詩篇23:4)ほどの平安です。もし、心に不安があるならば、今すぐ主がくださる本物の平安を求めましょう。