*2002年1月6日メッセージノート*

恵みによって強くなろう 2テモテへの手紙2:1-13

期待されている強さ

1) 恵みを再生産してゆくキリストの体としての強さ

2) 苦しみを耐え忍ぶ強さ

強くなる秘訣

1) ルールに従う

2) 労苦する

3) 考える

4) キリストを思い起こす

メッセージのポイント
神様は今年もすばらしい恵みを一人一人に備えていてくださいます。そのひとつに私たちがクリスチャンとして強くなる、成長するということがあります。この一年、一人一人が試練を乗り越え大きく成長していけることを神様は期待し、また力を与えてくださいます。神様がユアチャーチに、そして一人一人に望んでおられる強さを身に着けるために、いつも主を心に憶え、主の思いを探り、神様の方法に従い、苦労を経験して強くなりましょう。

ミニチャーチのためのヒント
1)神様が私たちに期待しておられる強さとはどんな強さなのでしょうか?
2)私たちはどのようにしたら強くなることができるのでしょうか?

ディボーションノート 
神様との親しく静かな時を持つためのヒント

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。

2002年1月7日(月)2テモテへの手紙2:1、エフェソ6:10-18  
「鋼のような」「雑草のような」「忍耐強い」「打たれ強い」「気が強い」などと表現されるように「強さ」と言っても種類によって、またその性質によっていろいろ考えられます。神様が私たちに求めておられる強さとはどんな強さなのでしょうか?またどんなところに発揮すべき強さなのでしょうか?もちろん神様が求めておられるのは、軍事的な強さでも、経済的な強さでも腕力でもありません。私がここで感じたことは「心の強さ」、「魂の強さ」ということです。それは能力がなくても、お金がなくても、地上での命を失ってさえ!主とともに歩み続けられる「強さ」です。そしてそれはどんな性質を持った強さかと言えば、やはり「攻撃的な強さ」と言うよりも、ピンチにあってもあきらめない「忍耐強さ」「打たれ強さ」ではないかと思います。練習熱心なボクサーでもあごは鍛えられないそうですが、私たちは礼拝と、聖書、祈り、そして交わりによって魂を鍛えることができます。

2002年1月8日(火) 2テモテへの手紙2:2、ルカ22:24-30  
なかなか人に任せられない、ゆだねられない、というタイプの人がいます。こういう人が牧師やリーダーだと教会はコンサートや芝居のように演じる者とお客さんのように、聞く人はいつも、いつまでも聞く人であり続けることになります。私はそういうタイプなので、意識して任せよう、ゆだねようと考えているのですが、その評価は皆さんに聞いてみなければなりませんね。私たちはまず聞き、それから教えたり、伝えたりすることを期待されていますが、神様の期待はそこまでではありません。ここでは教えた人々が今度は誰かに教えるということをまでを視野に入れなさいと勧められています。あなたは教会の中でどんな役割を担っていますか?思い当たらなければそれはリーダーの責任です。リーダーと相談して「これが私の役割だ」というものを見つけましょう。あなたが自分の役割を知っているなら、今年はそれを誰かにゆだねることを目標においてください。その人がいつか誰かにその役割をゆだねることを期待しながら。イエス様は父の権威を私たちにゆだねてくださった方です。

2002年1月9日(水)2テモテへの手紙2:3-4、ルカ22:31-34
クリスチャンなる前と比べるとその質、中身は少し変わりましたが、今でも苦しみ、困難、悩みはあります。過去にはその苦しみのせいで、信仰が揺らいでしまうこともありました。いったい何を信じているんだろう?と疑問を感じたり、神様を信じていても弱い自分を見ると情けなく、自暴自棄になることもありました。でもその度に神様は私の手を離さずに、それらを乗り越える力を与えてくださったのです。私が9割くらい「もうどうにでもなれ」と思ってしまっても、必ず神様が残りの1割の部分に希望を残してくださるのです。それは自分では思いもつかない「神様の希望」でした。私は最後にはその希望にしがみつくようにして乗り越えてきたように思います。こんなふうに弱い私にも神様は「すぐに弱音を吐く役立たず」などとレッテルを貼ったりしません。恐れからイエス様を知らないと言ったペテロも大いに用いられたのです。強さも神様が必ず与えてくださるものと信じて、従いたいと思います。

2002年1月10日(木)2テモテへの手紙2:5-7、ルカ14:25-33
子供が与えられて約5年、クリスチャンの書いた本や先輩クリスチャンから教わったことを参考に夫婦で祈りながら子供たちに接してきました。最近ある本を読んで子育てに付いて大きなことに気がつかされました。それはとても基本的なことなのですが、「聖書に書いてあることを子供に行わす」ことと、「罪を犯したら叱って悔い改めさせる」ことでした。私たちの子育ては具体的なテクニックが先行してしまい、常に聖書に戻るという態度が不十分だったように思います。私たちが聖書という原点に帰るときもっと主が祝福をくださり、親子の関係も子供たちの霊的な成長も深まると思います。クリスチャンは人生というレースを競っているランナーです。そのルールブックである聖書に従うことにより栄冠を得ることができます。

2002年1月11日(金)2テモテへの手紙2:8-10、ヨハネ8:31-36  
「真理はあなたがたを自由にします」という私の大好きなみことばが今日の聖句の中にありました。使徒パウロは、イエス・キリストを宣べ伝えたために、肉体的には鞭打たれ、牢獄にもつながれましたが、霊においては自由であり、喜びにあふれていました。では、大豪邸に住みながら、睡眠薬なしでは眠れなかったり、憎しみや孤独感でいつも打ちひしがれているお金持ちとパウロとではどちらが本当の自由を持っていると言えるでしょうか。あるいは、クリスチャンであるために、迫害を受けたり、嫌な思いをした時に、クリスチャンであることを不自由と感じるでしょうか。私は、たとえ理解してもらえない時があったとしても、クリスチャンになる前の自分に戻りたいとは決して思いません。その時は、何不自由なく何にも縛られていないと思っていましたが、実はいつも恐れや不安やプレッシャーに縛られて生きていたのです。ですから真理の方であるイエス様をいつも思い起こし、恐れず本当に自由に歩みたいです。

2002年1月12日(土)2テモテへの手紙2:11-13 ローマ6:1-14
私のうちでは箱根駅伝をテレビで見るのがお正月の習慣になっていますが、駅伝の選手たちは自分の成績よりもむしろたすきを次につなげることのほうを大事に考えているようです。自分が棄権すればそこでチームは失格になってしまうので、歩いてでもゴールを目指そうとします。私たちは、自分が恵まれることに熱心でも、信仰を伝えることの大切さを軽んじてはいないでしょうか?主とともに死ぬということが、恵みによって古い、罪に支配されていた自分とサヨナラすることなら、キリストとともに生きるということは、イエス様がこの世界で計画している働きをともに担うということです。状況は厳しい時もあります。心が弱るときもあります。でもイエス様がいつも共にいてくださいます。家族に、友人に、子供たちに信仰のたすきをつなげることができるよう走り続けましょう。

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