*2002年1月13日メッセージノート*

2002を収穫の年にしよう  
ヨハネによる福音書 15:1-17、ガラテヤの信徒への手紙 5:16-26

どんな実をみのらせるのか?(ガラテヤの信徒への手紙5:16-26)

1) 肉のわざが結ぶ実 (16-21)

2) 霊の結ぶ実 (22-26)

どうしたら豊かに収穫できるか?(ヨハネによる福音書15:1-17)

1) 神様に健康的につながっている努力 (1-10)

2) イエスさまの友としての歩み (13-16)

3)愛し合うために選び出された者としての歩み (11-12,17)

メッセージの中心点
新しい一年を実り豊かな年にするために、(1)どんな収穫を得たいのか、神様はあなたにどんな実を結んでもらいたいのか をよく考えてみましょう。そして(2)どうしたら豊かに実を結ぶことができるかを考えてみましょう。 その実りを収穫するためにもっとも大切なことは「しっかり神様に連なっている」ということです。神様にしっかりつながってるということはただ「信じている」ということ以上のことです。そこがイエスさまの友として、愛し合うことによって素晴らしい収穫を得る第一歩です。

ミニチャーチのヒント
1)あなたはどんな収穫を今年期待していますか?
2)それはどうやって得ることが出来ますか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年1月14日(月)ヨハネによる福音書15:1-2 、1コリント3:4-9

うちの小さなベランダにゼラニュームの鉢があります。一年を通して赤い花を咲かせていますが、この寒い時期でも次々につぼみを作り花が絶えず、私たちの目を楽しませてくれています。ゼラニュームの花と葉の寿命は短くて時期が過ぎると茶色く枯れてしまうので、それを水遣りのときに取り除くのが私の日課になっています。そのような花や葉は突然枝から栄養や水分を得ることを拒否してしまったかのようにも見えます。そして、それらはちょっと触るだけで枝から落ちてしまいます。そんなゼラニュームを見て私は許された命の日の限り、充分に魂の栄養をいただいてゆけるよう、しっかり神様につながってゆきたいと思いました。私たちを信仰者として育ててくださるのは神様です。神様の薫陶を受けるために、教えられやすい性質を身に着けたいものです。


2002年1月15日(火) ヨハネによる福音書15:3-6、ヨハネ6:52-59

よい実を実らせるには、イエス様ご自身が言われるように主につながっていなければなりません。「つながっている」とは、ただ信じていればいいという抽象的なことではなく、「キリストの体」である教会につながることであり、そこで活かされていることです。あなたは自分が体の一部として地域の教会につながり、活かされていると感じますか?多くの人は「活かされている」と聞くと、積極的かつ精力的に目に見える奉仕や仕事をすることを思い描きがちですが、本当に活かされている人とは、体の他の部分(つまり他のメンバー)が悲しんでいる時には共に涙を流し、誰かが成功したり喜んでいる時には、自分のことのように共に神様に感謝する人なのではないかと思うのです(1コリント12:26)。ミニチャーチや礼拝後のミニストリ−の時間は、そのようにして互いの必要を満たし合うことのできる良いチャンスです。このキリストの体全体が共に成長し、良い実を実らせることができるように願い求めましょう。


2002年1月16日(水)ヨハネによる福音書15:7-10、詩編97:10-12

ディボーションが欠かせないものになり、そこで与えられる主のことばがいつも心の中にあったらいいなとずっと思っていました。最近ようやく私なりの良い方法を見つけ喜んでいるので、シェアしたいと思います。私は朝がとても苦手なので、朝のディボーションの憧れは捨て、夜落ち着いたときにと決めました。ディボーションノートの聖書箇所を数回読み、日記にその箇所と一番心に止めておきたいみことばを書き写します。神様が私に語られたと思われることもメモします(書き留めることがポイントだと思います)。次の日の朝、目がさめたらすぐに、前の夜にメモしたみことばと神様からのメッセージを思い出します。その日は折に触れてそのみことばを繰り返し思い出すようにするのです。私は特に人と会う前に思い出して、短く祈れるようになってきました。簡単なことなのでもう行っている人も多いかもしれませんね。まだ神様のことばが自分の内にいつもあるとは言えないなぁと思う人は試してみてください。


2002年1月17日(木)ヨハネによる福音書15:11-13、1テサロニケ5:16-24

今年の抱負【夫として父親としてリーダーシップを発揮する】
いろんな場面でのリーダーシップがあると思いますが、神様ははっきり信仰のリーダーシップをとりなさいと言われました。家族が霊的に豊かな毎日を過ごせるかどうか私の信仰が問われています。私自身がしっかりイエス様の方を向いていれば妻や子供も迷わないと思います。そのために私はイエス様が私を愛されたように家族を愛します。教会や職場の人を愛します。今日の聖書箇所でイエス様が語られた戒めを実行します。神様は人の意思を尊重される方で私のこの決意も必ず後押ししてくれると確信しています。


2002年1月18日(金)ヨハネ15:14-15、コヘレトの言葉(伝道の書)4:7-12

私は子供の頃から友達は沢山いたのですが、心を許せる親友はいなかったので、親友がいる人をうらやましく思ったことが何度もありました。結局今まで自信を持って親友と呼べる友人をもった経験がないので、どこまでが普通の友人で、どこからが親友なのか自分でもよくは分かりません。「人によっても感じ方が違うのだろうなあ」とも思います。でもクリスチャンになってから、このことで不満に思うことはなくなりました。イエスさまが誰よりも私に近い存在になって下さったからです。イエスさまなら自信を持って「私の親友です」と紹介することが出来ます。それはイエス様がすごく偉い神様だからではなく、すごく近くにいてくださる方であり、私たちがイエス様のしていることを知っているからです。


2002年1月19日(土)ヨハネによる福音書15:16-17、ローマの手紙1:1-7

神さまと私たちとの主従関係について、私たちは知らずに誤った考えに陥ってしまうことがあります。イエス様を「主」と呼ぶからには、もちろんイエス様が主であり私たちは従うしもべなのですが、主の恵み深さゆえに勘違いしやすいのです。ある人が、「癒されることは主の御心のはずですから、私は自分の近眼が癒されると信じ、コンタクトレンズを捨てました」と言ったそうです。しかし、その人の目は良くなりませんでした。一見信仰深い行動かのように見えますが、その人は自己願望のゆえに神さまを自分の思い通りにしようとする間違いを犯してしまったのでした。癒しは、すぐに与えられることも、そうでないこともありますが、その主権は神さまのものであって、私たちが神さまに命じて、手にいれるものではないのです。これはほんの一例ですが、主従関係が逆転するような過ちに陥ったり、うまくいかないことを神さまのせいにすることのないようにしたいものです。神さまが私を選んでくださったのだということを再確認し、「愛し合いなさい」という主からの命令をもう一度心して受け取りましょう。