*2002年2月3日メッセージノート*

誘惑におちいり後悔しないために (ルカ 4:1-15)

A 後悔しないために敵を知る(1-4,6,9)

(1)さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、(2)四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。(3)そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(4)イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

1) 誰が誘惑するのか 悪魔=試みる者(2,マタイ4:3)

2) どんな弱みに付け込まれるのか(2,6,9) 欲望、義理、人情

「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」(2)
「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(6)
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。」(9)

B 後悔しないために自分を知る

(5)更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。(6)そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。(7)だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」(8)イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」

1) 私はどこが弱いのか(5-8)

人の生き方には、神様に仕えるかサタンに仕えるかの2つしかない。欲望の命じるままに権力や繁栄を追い求めることは、知らず知らずのうちにサタンを拝んでいることになってしまう。

2) 誘惑を退ける私の武器は何か 御言葉だけが有力な武器

3) あなたを勝利に導くのは誰か(9-12、箴言30:7-9) あなたの主なる神

(9)そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。(10) というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、/あなたをしっかり守らせる。』(11) また、/『あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える。』」(12) イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。

C 後悔しないために主を知る

1) 主のみ言葉を道しるべに(4,8,12,13)

悪魔に負けない秘訣は「御言に立つ」ことのほかにはありません。ただサタンも聖書の言葉を用いて誘惑するので正しい聖書の読み方を身につけなければなりません。

2) 主の霊に導かれて(14-15、使徒言行録1:3-11)

(13)誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。(14) イエスは"霊"の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。(15) イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

メッセージの中心ポイント
 この世界に生きている限り、さまざまな誘惑が私たちを襲います。誘惑は私たちが誰でも持っている様々な欲に対して働きかけます。「欲」は正しく用いれば生きていく上での健康な動機付けとなりますが、それに振り回されれば罪を犯し、死に至る(神様から完全に離れ滅びに至る)と警告されています。誘惑に対する戦いはあなた自身の戦いです。神様があなたに代わって戦ってくれるわけではありません。でも神様は誘惑に勝つための唯一の武器「神の言葉」を提供してくださいます。しかしこの強力無比な「みことば」も正しく用いなければ勝利することができません。そこで私たちは、導き手、神様とイエス様の霊=聖霊に導かれつつ戦いを進めてゆくのです。

ミニチャーチのためのヒント
1)「こんな誘惑に負けちゃった」言いにくいかもしれないけれどよかったらシェアしてください
2)「私はこうして退けた」その方法をシェアしてください



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年2月4日(月) ルカ4:1-2、1コリ6:12-20


どんなにご利益のあるといわれる神社や教祖の所に行っても、試練から完全に逃れられる人はいません。同じように、イエス様を信じたからといって、困難や災いがなくなるわけではありません。でもキリストを信じる信仰が他の宗教と違うのは、どんな試練をも乗り越える力を与えてくれるということです。私自身もクリスチャンになってから大きな試練に直面しました。神様を知らなかったら、まちがいなく自暴自棄になってしまうと思われるほど、そのときの私にとって堪え難い試練でしたが、むしろそのことを通して、以前よりも神様を信頼し、また神様と親しくなることができました。困難がやってきた直後は、「誰にも会いたくない、何もしたくない」とひきこもりがちでしたが、礼拝だけには行くようにしていました。辛くて足が重いときもありましたが、そこで再び立ち上がるための力を得ることができました。聖霊がワ−シップの中で、何度もキリストの苦しみの中にある慰めを私の心に満たして下さったからです。イエス様は私たちが苦しんでいるのを見過ごされる方ではありません。なぜなら彼自身が様々な試練、十字架の苦しみさえ私たちの為に受けてくれたからです。その深い愛に心を向ける時、聖霊がどんな困難も乗り越える力を与えてくれます。


2002年2月5日(火)ルカ4: 3-4、申命記8:1-10


 親は子供を育てるとき、健康に育つようにとバランスの良い食事を摂らせようとあの手この手でがんばります。食が細いと親は非常に心配になり、何とか食べさせようと努力します。ところが、意外にも霊的な栄養については無頓着で、そんなに一生懸命になっていないのが現実ではないでしょうか。1歳前の幼児には、離乳食をわざわざ作って食べさせるように、子供の年齢にあわせて、消化不良を起こさないよう、御言葉の糧をかみくだいて与えているでしょうか。実際、日本は肥満の心配こそあれ飢餓のない社会ですから、本当は霊的な健康と成長にもっと焦点を当てるべきなのです。 もちろん、大人も同様です。身体の成長が止まったからといって、日々の食べ物なしでは生きて行けません。ですから、もうクリスチャンとして充分に成熟したと思って、御言葉を読まなかったり、メッセージを聞かなかったら、私たちの霊は飢え乾いて干からびてしまうのです。イエス様が『人はパンだけで生きるものではない』とおっしゃられていることを、自分のこととして真剣に受け取り、霊的な糧である御言葉を日々いただきましょう。


2002年2月6日(水)ルカ4:5-8、ヨハネ8:39-47


 私の中にも権力や繁栄に対する欲望があることは否定できません。職場で実力をつけて人を指導できる立場に立ちたいとか、家族で毎年海外旅行を楽しめるくらい経済的なゆとりが欲しい等。クリスチャンになる以前は人はこのような欲を原動力にして成長していくものだと思っていました。しかし今はまったく違う生き方を与えられているのです。8節には「神を拝み、主にだけ仕えなさい。」とありますが、主に仕えることが私たちの成長の原動力となっているのです。また人間の欲望に心を奪われることが、知らず知らずのうちにサタンを拝むことになるという危険性を知ることができました。今も私の中に権力や繁栄に対する欲が消えた訳ではないので迷うことはあります。しかし聖書の言葉に戻ること、教会で仲間と主を礼拝することで第一にするものがはっきりと示され、間違いをおかすことはないのです。


2002年2月7日(木)ルカ4:9-12、箴言30:7-9

 
 子供がおもちゃ売り場でおもちゃをねだっているのを見たことがありますか?子供はここで床に寝転がって大泣きすれば親が根負けしてやがて買ってくれるのを知っているのです。親が決して妥協しないことを知っている子供はそんな無駄なことはしません。 イエス様を主と信じ歩み始めてから25年が経とうとしています。神様が願いに答えてくださる方だという確信は、私にとっては少しずつ深まってきたものでした。もちろん神様は私の願いを「何でも」かなえてくださるわけではありません。私は神様に対して時々間違った願いを持つことがあります。それを自動的にかなえてくださるのが神様なら、私は必要のない、むしろ有害なものを抱えて心は神様から離れていってしまう恐れがあります。神様は私に「本当に必要なこと」を何でもしてくださると信じますが、私は自分に「本当に必要なこと」を神様ほど知っているわけではないのです。神様を試すとは、神様を自分に便利な機械のように考えなんでも願い、かなわなければ神様に文句を言う態度だと思います。 


2002年2月8日(金)ルカ4:13、使徒8:26-40


 クリスチャンになったからといっても、みことばがすぐに理解でき、身近に感じられるわけではありません。「手引きしてくれる人がいなければどうして分かりましょう」(使徒8:31)とあるように、私たちは正しい聖書の読み方を教えてもらい、身につけていく必要があります。私は一人で読んだだけではピンとこなかった箇所でも、メッセージや聖書の学びの時などを誰かと持つと、理解でき心に留まりやすくなる経験が何度もあります。何回か参加しているニューライフクラスにもとても助けられました。誰でもみことばを難しく遠く感じてしまうと、とても弱くなり信仰さえも分からなくなってしまうのではないでしょうか。そして、サタンは弱っているクリスチャンやみことばを正しく受け取っていないクリスチャンをねらっているでしょう。私は今、ようやくコンスタントに聖書を読み、みことばによって生きるという喜びを味わっています。それは目に見える範囲で急な変化はないかもしれませんが、心の内には「霊の結ぶ実」(ガラテヤ5:22)が確実に増えていることが分かるような状態です。この恵みを多くの人に受け取ってもらいたいと願っています。


2002年2月9日(土)ルカ4:14-15、使徒言行録1:3-11

 
 誘惑に負けてしまい惨めな気持ちになってしまった経験のほうがずっと多いのですが、何とか誘惑を退けて、「イエス様も喜んでくださっているなー」と思えることだってあります。そんな時自分にも、このときのイエス様のように聖い霊の力が満ちていると感じられます。クリスチャンとしての歩みを続けて行くうちに、神様は私を、恵みをいただき世話をしてもらうばかりの赤ちゃんクリスチャンから少しずつ成長させてくださり、今は赤ちゃんや、子供たち、そして青年といったステージにあるクリスチャンのお世話をする働きを与えられています。神様は忍耐を持ってこの不完全な器をご自身の働きのために用いてくださるのですが、私はいつもこの栄光ある働きを自分の弱さのゆえに汚してしまうことを恐れます。私は自分が偉いものだからではなく、御名のために尊敬を受けたいと思っています。そのためにいつも聖霊の力に満たされることを願い、誘惑にさらされたときに「さあ御言葉で打ち勝って、聖霊の力を受けよう」と自分に言い聞かせます。