*2002年2月17日メッセージノート*

シンプルが最高 ルカ4:16-30

A シンプルな福音(4:16-21)
1)救いは理屈ではない

2)イエス様のメッセージはシンプル

B シンプルであることの困難(22-29、列王記下5:1-14)
1)プライド

2)単純よりも複雑のほうが優れているという考え

C シンプルであることの強さ(30、1コリント2:1-5)
1)周りの影響を受けにくい

2)もっともシンプルな生き方

メッセージの中心ポイント
最初の弟子たちは、神学者でも哲学者でもありませんでした。彼らはイエス様の言葉や行いを綿密に研究して従うことを決めたのではなく、呼びかけに応えてついて行ったのです。キリストの教会の2000年の歴史を振り返ると何度か原点に戻ろうという改革がなされました。それはイエス様のメッセージにいつの間にか教会がいろいろなものをつけてしまい(伝統や、決まりごとなど)イエス様の愛の本質が見えにくくなり、教会の歩みが原点からそれてしまったことに対する修正でした。私たちも、いつもこの愛の原点から離れずに歩みたいものです。

ミニチャーチのためのヒント
1)あなたは救われたときのシンプルさを保っていますか?
2)どうしたらもっとシンプルにイエス様に従ってゆくことができるでしょうか?



ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年2月18日(月)ルカ4:16-19、イザヤ61:1-11

誰でも多かれ少なかれとらわれているものがあります。それはクリスチャンでも例外ではありません。もちろん、救われた時に私たちの罪は赦され、霊の部分では新しい命へと移されているのですが、この世に生まれてからキリストを知るまでの歩みの中で、私たちは皆、様々な人生のステージや環境の中で、良いものと同時に不必要な価値観や考え方も堆積してきてしまっているのです。あなたが未だに捕われていることは何でしょうか?繰り返しやってくるネガティブな思いや抜けだせない悪習慣など、人によって違うと思いますが、主の前に正直に自分をさらけだし、その問題の根本にあるものが何なのかを示していただき、そこから解放してもらうように祈ることが大切です。1人でこれらの問題に向き合うのが難しい場合は、礼拝後のミニストリ−タイムに祈ってもらったり、場合によっては教会でカウンセリングを受けることもできます。ただ忘れてはいけないのは、誰かに話を聞いてもらうことや、カウンセリングそのものに解放する力がある訳ではないということです。私たちが心を主の前に注ぎ出し、イエスの御名とその権威によって祈る時、どんな人間の知恵や力も成し得ない真の解放がやってきます。何故ならイエス様はそのためにこの地上に遣わされたのですから・・・。


2002年2月19日(火)ルカ4:20-22、マタイ11:1-6

幼い頃から知っていた近所の子供が成人になって町に戻ってきて、いきなり預言者のように権威をもって人々に語るのを見た時あなたならどういう反応を示すでしょうか。私だったら、やはりその人が神の御子、人々が待ち焦がれているメシヤであるとすぐに信じることは難しいのではないかと思います。ですから、イエス様を受け入れなかったナザレの人たちを簡単に非難することはできません。しかし、ここから学べることは、私たちが人間的な思いや自分自身の限られた知恵や知識で神さまのことを計ろうとするなら、間違ったり失敗するということです。神様のいやしや、奇跡的な業が日常の中にも現れることを信じ期待することが大切です。そして、何よりもすばらしいのは、信じる者が祈り求めるなら、主の愛、恵み、喜び、平安、希望を日々体験することができることです。


2002年2月20日(水) ルカ4:23-24、マタイ13:53-58

新しく出会った人との信頼関係について考えてみました。お互いについて何も知らないところから始まって、少しずつ理解を深めていきます。相手から信頼されたいと思うなら、約束を守ったり、なるべく誤解をされないように適切な言葉で話したりと配慮します。相手の期待以上のことをして、喜ばせようともするでしょう。こうして共に過ごす時間や経験を重ねて、信頼関係も築かれていきます。これは神様と私たちとの信頼関係にも共通することだと思います。神様を信頼する心は育てていくものだということです。時には私たち人間の弱さ、限界ゆえに心に「疑い」が生まれるかもしれません。けれど神様と共に生きたいと願う者として、私は「疑い」に心を奪われるのではなく、信頼関係を築くことに力を注ぎたいと思うのです。そして神様との麗しい信頼関係は周囲の人との関係にも反映されると確信しています。



2002年2月21日(木)ルカ4:25-26 列王記上17:1-24

神様の願いは神様が創られた全ての人が救われることです。この大きな計画の実現のために私たち個人レベルには小さな計画が与えられています。置かれた場所で誰にどのように愛を形にしていくか、神様の計画が与えられています。列王記に書かれているエリアの行動は良いお手本になります。飢饉で多くの人が苦しんでいた時期に、神は彼をただ一人のやもめのところへ遣わされました。そしてエリヤはやもめとその子供のためのわずかな粉でまずエリヤのためにパンを作りなさいと言いました。それは神の言葉を固く信じた上での行動であり、結果として食べ物は増えて、飢えることはありませんでした。私たちもエリヤと同様に特定の人を助ける計画が与えられています。まず誰のところへ遣わされているか祈って知る必要があります。そして御言葉に確信をもって行動したいと思います。そのときには神様の大きな計画は着実に前進するのです。


2002年2月22日(金)ルカ4:27、列王記下5:1-14

「救われるために私はどうしたらよいのですか?」と聞かれて「ただイエスを信じ悔い改めて彼に従えばよいのです」と答えると、ある人は「そんなたやすいことで得られる救いなんて安っぽい」と考えてしまうようです。ただ単純に信じて従うということは幼子の時には容易でも、知識やプライドが増し加わるにつれて困難になるようですね。ナアマンの話は旧約の中で特に私の印象に深く残っているシーンのひとつです。彼が癒されるためにエリシャに要求されたのは実に簡単なことだったのでナアマンは怒ってしまいます。でも彼は家来たちの忠告に従って、エリシャの言葉の通りに行い癒しを得ました。ナザレの人たちもイエス様が、偉そうな見知らぬ人だったらもっと素直に従えたかもしれませんね。私たちも恵みや信仰といったことについてあまり難しく考えず、単純に信じて従うということを大切にしたいものです。


2002年2月23日(土)2002年2月23日(土)ルカ4:28-30、使徒言行録6:8-15

私たちは痛いところを指摘されたり、反論できない事実を突きつけられると怒り出す傾向を多少なりとも持っています。だれでも「自分こそが正しい」と思いたい気持ちがあるので、それを否定されると自分を否定されたような気になってしまうのです。自分が正しいと思い続けたいので争ったり、反対する者の口を封じようとしたりするのです。私たちは簡単に神様以外に完全に正しいものはいないという事実を忘れてしまいます。この自分は相手より正しいという思い込みが、人を神様から遠ざけてしまいます。イエス様を亡き者にしようとして崖から突き落とそうとしても、彼らにはそのような力はありません。正しさにおいて、神様と争うことは人と争うことよりさらに愚かなことです。誰かから間違いを指摘されたとき、また神様が何かを教えてくださるときなど、すぐに自己弁護したり、反撃体制に移ったりするのではなく、冷静に聞いて、自分に非があれば率直に認めることができるようになりたいものです。