メッセージノート3/3/2002

ユアチャーチカヴェナント(パート2)
ヴィジョンを実現するための契約

私はユアチャーチのヴィジョンと目的に心から同意し主にある兄弟たち姉妹たちのなかに加わることを聖霊の導きであると確信して、このカヴェナントについて神様と教会のメンバーに対して誠実であること誓います。

4.わたしは

1) 神様に祝される生活態度と主の弟子としての生き方をすること(マタイ6:32-33、箴言15)

2) 収入の十分の一を定期的にささげること(マラキ3:10、2コリント9:6-15)

3) 主が与えてくださることを信じ、神の国に投資(宝を積む)すること(1コリント16:2、マタイ6:19-21)

によってメンバーとして教会の経済的必要を満たし、また宣教活動に大胆にささげます。

5.わたしは

1) 自分に与えられている聖霊の賜物を見出し用いること(1ペテロ4:10, ローマ12:3-8)

2) 他の人に仕えるための時間を増やすこと(フィリピ2:3-7, 2ペテロ3:8-13)

3) 聖霊の導きに「はい」と応えられるようになること(Acts1:8, john16:4b-15)

によって神に仕えることを表明します。


ディボーションノート

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。


2002年3月4日(月)マタイ6:32-33、箴言15

明日のことを思い煩わず、全てを主に委ねるということは、口で言うほど簡単なことではありません。でも、神さまを第一にするとき、全てのものは添えて与えられるということは、真実であり、証しすることができます。 私たち夫婦は結婚した当時から、神さまに仕えることを第一とすることをライフスタイルとしたいと願って実行してきたつもりでした。しかし、大きな困難がやってきました。私が子供を妊娠したとわかった時、仕事を即座に辞める決断をしなければならなかったのです。流産という身体的な不安と仕事を失うことによる経済的な不安とに押しつぶされそうになり、残された道は祈ることだけでした。もちろん、教会や各国にいるクリスチャンの友人たち皆の祈りに支えられました。実際、そのままでは家賃を払うことさえできない状態でしたが、教会の皆の愛によって経済的必要が与えられました。そして、9ヵ月後、奇跡的に元気な子供を産むこともできました。その後は、夫の仕事が祝福され経済的な危機からも救われました。この時ほど、神さまを頼り、また周囲の祈りとサポートに支えられたことはありません。今でも心配性な私は、つい先々のことを思い煩ってしまい、不安や恐れがくることもありますが、そんな時は当時のことを思い出し、主が必ず助けてくださると確信することができるのです。


2002年3月5日(火)マラキ3:10、2コリント9:6-15

ユアチャーチが他の多くの教会と違うことの一つに、献金の方法があると思います。礼拝中に献金袋を回すこともありませんし、月定献金(名前を書いた封筒が1人1人に渡されて、それに十一献金を入れるもの)もありません。インフォメーションテーブルの片隅にティッシュボックスが置いてあって、そこに各自が入れるようになっています。もちろん誰が幾ら入れたかも分かりません。このような方法は一見自由で良さそうですが、実際は人が決めたルールがあったほうが、私たちはただそのルールに従えばいいので楽なのかもしれません。むしろこのような自由な雰囲気の中では、神様との関係、つまり神様と教会へのコミットメントが1人1人に対して問われているのです。十一献金についても、神様を礼拝する行為の一部として、1人1人が喜んで行うことが望まれています。もとはといえば、私たちの持っているものは全て神様から託されているものです。その豊かに与えて下さる主に心からの感謝をこめて、委ねられているものの一部を自発的に捧げられるように求めてきたいものです。


2002年3月6日(水) 1コリント16:2、マタイ6:19-21

クリスチャンになってよかったなあと思うことは数え切れませんが(ならなければよかったと思わされることはひとつもありません)、とてもうれしいことのひとつに、努力や苦労が報いられなくてもくさらずにいられるようになったことがあります。たとえ利益を生まないようなことでも、人に感謝をされなくても神様が認めていてくださるので十分と思えるようになったのです。目先の結果にとらわれていては、御心を行い続けることはできません。これがあなたのなすべきこと、行くべき道という確信を得たなら、人の反応や目に見える成果にとらわれずに、うまずたゆまず歩みたいものです。


2002年3月7日(木) 1ペテロ4:10、ローマ12:3-8

私たちは、与えられた恵みに従って異なった賜物を持っています。(ローマ12:6) みなさん、どうぞそれを見つけてください。私の場合、いくつか人に勧められてチャレンジしました。そして自分にその賜物が与えられているかどうか確認ができました。賜物であれば、それを行う度に神さまの助けを感じ喜びが伴います。神さまが自分を用いてくれていることがはっきりと分かるでしょう。私は複数挑戦しましたが、明確に自覚しているのは一つだけです。つまり、ハズレもあったのです。みなさんもハズレを恐れずにこれと思ったもの、他の人に勧められたものに挑戦して賜物を見出してください。大切なのは賜物はお互いに仕え合うために与えられるということです。(1ペテロ4:10)賜物を見つけうまく使い、更に仕える者になりましょう。


2002年3月8日(金) フィリピ2:3-7、2ペトロ3:8-13

私たち家族は少し前から高齢者の施設で話し相手のボランティアをしています。一月に一回程度短い時間ですが、何かできることからと考えて始めました。子供も一緒なのでたいしたことはできませんが、誰かに仕えるという実践の場を与えられて喜んでいます。こんな小さな経験でも、得ることはけっこうあります。仕えているつもりが、私の方が相手のかたの笑顔でとても嬉しく、ゆったりとした気持ちになれるのです。私たちひとり一人にイエス様の愛を携えて、人に仕えることができるチャンスが与えられていると思います。忙しいとつい後回しにしてしまいがちですが、イエス様ご自身が私たちにしてくださったことを思い起こして、ものごとの優先順位を振り返ってみましょう。そして、愛の実践のためには、神さまの愛で満たされること、励ましや祈りあう交わりがあることが不可欠です。本当にへりくだることができたイエス様を目標に歩むもの同士、励ましあい助け合って前進していきましょう。


2002年3月9日(土) 使徒言行録1:8、ヨハネ16:4b-15

自分のクリスチャンになってからの歩みをふと振り返ってみました。私よりもっとよい働きをしている人はもちろんいくらでもいますが、私もそれなりに「神様の仕事をずいぶんしてきたなあ」とひそかに思ったわけです。でもそれと同時に、自分の能力が飛躍したわけでもないし、忍耐力もさほど変わってはおらず、愛することにおいても相変わらず乏しいということも自覚しています。それでも神様が仕事をさせてくださり、多少のお手伝いもできたと思えるのは、聖霊様の力としか私には思えないのです。神様が仕事を任せてくれる、そんな人になる秘訣は「能力」ではなく、「はい」と素直に従ってゆく「意志」と「心」なのではないでしょうか?