*2002年4月28日メッセージノート*

「全てを捨てて?」 ルカによる福音書5:1-11

A 弟子は主が選ばれた

1)自己推薦ではなく主の「選び」

2)この「選び」の責任は主にある

B こんな弟子になろう(教えられやすい性質)

1)「お言葉ですからやってみます」

2)失敗してもめげない

3)主の権威を知っている(神様の偉大さと人の弱さ)

4)主であると同時にパートナー


C 弟子となる条件

1)全てを捨てるということの真意は?

2)物質的な意味で、全てを捨てることはできない。またその必要もない

3)今持っているものをどう扱うか


メッセージのポイント

選びの主体が私たちではなく神様だということは、とてもすばらしいことです。私たちは世界中で最も信頼できる方に選ばれ、その方は私たちと常に共にいて、責任をもって導いてくださるというのです。私たちに求められていることは成功することではなく、従うことです。そしてそれはイエス様を全ての優先順位の前に置くということです。そこにイエス様が私たちに「すべてを捨ててついてきなさい」と言われた真意があります。

ミニチャーチのためのヒント

1)「クリスチャンになる」ことと「弟子になる」こととはどう違うのでしょうか?

2)イエス様が「すべてを捨てて私に従ってきなさい」との呼びかけにあなたはどう答えますか?


ディボーションノート 神様との親しく静かな時を持つためのヒント

ディボーションノートは毎日聖書を読み続けるための助けです。聖書箇所はメッセージに沿って選ばれています。文章は書いた人が神様から受け取ったものですから、あくまでもヒントです。必ず(!)、はじめに聖書を読み、その日のみことばからのメッセージをあなた自身が神様から受け取ってください。そして、それをぜひ誰かに(ミニチャーチなどで)シェアしてください。



2002年4月29日(月)ルカによる福音書5:1-3、ヨハネによる福音書15:16-27 

 クリスチャン人口1%以下といわれる日本では、家庭の外で他の人を通してイエス様に出会い、イエス様を信じる決心をした人が多いと思います。その過程をふりかえった時、それは決して偶然ではなく、神さまの不思議な導きであったことを否定する人はいないでしょう。もちろん、クリスチャンホームで小さいころからイエス様と親しい関係を持つことのできた人は尚のこと、「イエス様が私たちを選んだ」という今日の御言葉はよく理解できるはずです。しかし、イエス様はそれだけでよしとしたのではありません。選び、「行って実を結ぶために任命した」と続いています。イエス様はシモンには、彼の船に乗り込み、直接語りかけるというわかりやすい方法をとってくださいました。私たちにとっては、そのような目に見えるかたちでの導きではないので、見逃してしまったり、間違えたりすることはありますが、イエス様は一人一人に特別のご計画を持っておられます。私に何を任命してくださっているのかを祈り求めることは大切です。なぜなら、イエス様の導きに従うとき、クリスチャンとしての本当の喜び、祝福を体験できるからです。



2002年4月30日(火)ルカによる福音書5:4-5、申命記30:11-20
 神様に出会えて本当によかったと思うことはたくさんあるのですが、その中のひとつに「諦めなくてもいい」ということを教えられたことがあります。がっかりするようなことが多い現実、努力しても無駄と思えるような障害、「どうでもいいや」というような無気力ムードなどに囲まれてしまったとしても、神様を信じていると巻き込まれずにすむのです。神様が与えてくださる希望により、諦めずに最善を尽くす道が見えてきます。私の場合、特に人間関係で以前なら修復不可能だと思える状態でも、祈って神様が教えてくださる方法に従った時に関係が回復するということを経験してきました。シモン・ペトロも諦めたくなるような状況の中で、「お言葉ですから網をおろしてみましょう」とイエス様の言葉に従いました。自分の常識、経験、感情、判断などよりも神様の言葉に従う時、本当に大きな祝福があるのです。もっともっと経験を重ねていきたいです。



2002年5月1日(水) ルカによる福音書5:6-7、創世記15:1-6
私は身体障害児のリハビリの仕事をしています。彼らの身体的な発達が進むよう体操させたり、歩く訓練などします。効果が得られる様に子供を歩かせたり、座らせたりするのに多くの知識や経験や技術が要求されます。これまでもほとんど毎日主に祈っていました。「どうか私に力を与えてください。子供たちの役にたてますように。」などと。でも最近妻と話している時に、彼らは神様が造られたのだから、その成長も神様の手にある、ということに思いがいきました。それからの祈りが変わりました。「どうぞあなたが彼らを成長させてください、豊かな生活をおくれるように」このように祈りの対象が自分から、彼らに代わったのです。その日からいつも訓練に意欲がなかった子が意欲的に取り組むようになったり、楽しい雰囲気の中で子供たちが積極的に動くことが多くなりました。本当に神様が子共たちを支配し、動かしているようでした。以前よりも訓練は効果的に進み、私も無理をしなくても良くなったため彼らとの信頼関係も深くなりました。自分の知識や技術に頼らず、ただイエスさまにお任せした時に期待とおりの事がかならず起きるということを経験できました。



2002年5月2日(木) ルカによる福音書5:8-9、ヨブ42:1-6
私たちの自分自身に対する評価ほど不安定なものはありません。ちょっとうまくいけば高慢になり、行きづまれば自己嫌悪にさいなまれます。安心して下さいというか?がっかりして下さいというか?教会のリーダーであってもそれは同じで、一日のうちに何度もローラーコースターのように両方の感情の間を行きつ戻りつすることもあります。こんな時に平常心を取り戻すために、今日の旧新約の二つの聖句はとても役に立ちます。高慢も自己嫌悪も健康な心の状態とはいえません。わたしたちが「できる」のは神様の助けであり、「たりない」のはそこに神様の力が表されることを期待するためなのです。


2002年5月3日(金) ルカによる福音書5:10、 1コリント1:26-31
人をとる漁師、それはクリスチャンの伝道という面を形容する言葉です。ユアチャーチではクリスチャンを育てる事に力を入れていますが(それは羊飼いと表現される働きです)、育てようにも育てるべき人を仲間に迎える努力がなければ育てることはできません。幸い多くの人がウエッブサイトを通して教会を訪れてくれますが、私たちの周りの人にとってどうしたら教会の敷居がもっと低くなるか、あなたも考えてみてください。私はクリスチャンになりたてのころ、いろいろなイベントに人を呼び、そこでメッセージに触れてもらい、決心してもらうといった形の伝道を考えていましたが、今はそれよりも日常的で自然な人間関係を通しての伝道のほうが伝わりやすいと感じています。



2002年5月4日(土) ルカによる福音書ルカ5:11、マタイ19:23-30
今日の箇所にあるように、全てを捨てるとはどういうことなのでしょうか?私はこれらの意味が実感としてよく分かりませんでしたが、ある事を通して神様がこの意味を理解させてくれました。私は以前から海外宣教に思いがあったのですが、それを現実のこととして考えたときに心に引っかかることの一つが両親のことでした。今は家族から離れて自立しているはずなのに、両親や家のことを考えると一体どうなってしまうのか不安でした。というのも、私の両親はクリスチャンではありませんし、私の家庭は古い慣習を守っている家なので、宣教ということは到底理解してもらえず、最悪絶縁されるかもしれないと思っていたからです。しかし神様がいよいよ宣教への道を開いて下さろうとしているとき、「全てを捨てる」ことに向き合わなければならない状況になりましたが、それは大切な人を裏切ったり関係を絶つことでなく、イエス様に従うことを何よりも優先することであるのがわかりました。つまり、自分が大切にしている人間関係や物事一切を神様の手に委ねる必要があるということです。そのときには「何よりもまず神の国とその義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる(マタイ6:33)」と主がおっしゃるように、私たちは心配する必要はないのです。今でも私の両親は賛成してくれている訳ではありませんが、私の心には主が一切のことを最善へと導いて下さるという確信と平安があります