*2003年3月30日メッセージノート*

形式的な信仰・偽善的な信仰にならないために 
(マタ 6: 16-18、イザ 58: 3-6)

皆さんは断食をしたことがありますか?断食って何か知っていますか?「断食」をウエッブサーチで検索してみると、ものすごい量の断食についてのウエブがありました。中でも多いのは断食ダイエット、断食健康法といったものです。また他の宗教やカルトの断食法なども多いですが。クリスチャンの立場に立ったものはほとんどありませんでした。旧約聖書の中には断食についての記事がたくさん出てきますが,新約では数えるほどです。旧約では一般的であったことが新約にあまり登場していないということは、それがユダヤ教では重要視されていたけれどイエス様にとっては、それが教えの中心ではなかったということを意味しています。イエス様は断食を否定されたわけではありません。事実ご自身もその宣教の始めに40日もの間、断食をされたのです。

A 断食とは

1) 旧約時代の断食 

旧約聖書を見ていくと人がどのようなときに断食をしたかということが分かります。後悔(Tサム7: 6,ヨナ3: 5) 追悼(Tサム31: 13, Uサム1: 12) 嘆願(Uサム12: 16, 歴20: 3, エズ8: 21, エズ8: 23, 詩 35: 13, ダニ9: 3)深い悲しみの表現( エステル4:3)加護を願う( エステル4: 16)などがその動機です。

2) イエス様のなさった断食(マタイ4: 2)

イエス様の断食はこれらのどれかに当てはまってしまうものではないようです。 それは深い神様との交わりを求めてなされました。ただ祈るだけではなく、時間をかけて、しかも食事をすることさえ断って深く親密な神様との時を持ったのです。

そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。(マタ4: 2)

3)教会の断食(使13:2-3, 14: 23)

初代教会の弟子たちも同じような目的から断食をしたようです。 

彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。(使13:2-3)

また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。(使14: 23)

4)断食の効用

B 形式主義・偽善に陥らない祈り・断食・ささげもの

1)する、しないが問題なのではなく、目的や心や態度が大切(イザ 58: 3-6)

何故あなたはわたしたちの断食を顧みず/苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし/お前たちのために労する人々を追い使う。見よ/お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし/神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては/お前たちの声が天で聞かれることはない。そのようなものがわたしの選ぶ断食/苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと/それを、お前は断食と呼び/主に喜ばれる日と呼ぶのか。わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。(イザ 58: 3-6)

2)信仰深い自分を演じるためにではなく、神様への自然な信仰の現れとして(マタ 6: 16-18)

マタイ6章の偽善的な断食とは、当時の宗教指導者たちが神様との間のこととしてではなく、自分の権威や評判を高く保つために、人に見せるためになされていた断食です。イエス様はこのような断食を非難して、正しい断食とは何かを教えてくださいます。断食をして祈り深く心を主に寄せるときに、わたしたちがただ生物学的に生きているだけではなく、神の言葉によって生かされていることを深く覚えることができます。また断食のもたらす飢えは、実際生活の中での肉体的飢え乾き、精神的な上渇きを持つ人々との連帯と彼らを解放する行動として表されることを主は望んでおられるのです(イザ 58: 3-6)。教会が断食をするとき、それは主が「これこそ私の選ぶ断食」といえるような新しい歩み、を踏み出すにあたっての、神様の愛と力、知恵を求めてのものなのです。

「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタ 6: 16-18)

メッセージのポイント

今日の二つの聖書の箇所の内容は「How to 断食」ではなく、私たちにとってもっと根本的な信仰のあり方についての警告です。それは単に形式にとらわれなければよいというものではありません。イエス様の警告は、形式それ自体がいけないというより、あなたの心はどこに向けられているのか?というものです。私たちが日々祈るとき、信仰を愛の行動として現そうとするとき、断食までして切に祈るとき、あなたの心がまっすぐに主に向けられているなら、あなたは形式主義的な信仰にも、偽善的信仰にも陥ることはありません。

話し合いのためのヒント

1)あなたが断食をして祈った経験があれば皆にシェアしてください

2)イエス様はなぜ断食をしていることを人に分からないようにと勧められたのでしょうか?