*2003年5月4日メッセージノート*

天国銀行 マタイ6:19-34

 ファイナンシャルプランナー(以下FP)という仕事があります。FPは個人財産をどう運用し増やし老後に備えるか、株や保険、預金を効率よく組み合わせて顧客に提案するのです。彼らはまずプランの前提として、本人と家族の収入や資産状態、年齢などを加味して何歳までにいくら預金しておく必要があるか算出します。例えば子供の入学、結婚、自分の退職のタイミングまでに例えば私立大学入学時に250万円、娘の結婚に200万円、5年ごとに車が200万円、退職時までに老後の備えとして数千万円と計算し、そのためには毎月これだけ貯金をし、有望な株を運用し、万一のために働き手には生命保険をかけてといった具合です。知り合いのプランナーがどうしてもというので私の場合を試算してもらったことがあります。「これがつつましいながらも人間らしい老後を送れる最低線ですね」と教えてくれたのが、二人の子供の入学のころまでに2000万円、結婚時には500万円、リタイヤするときまでに6000万円(但しこれは家が持ち家でローンがなく、社会年金プラス個人年金をかけていて80歳まで生きたとして)必要です。思わず私たち家族には人間的生活も送れないのか?と思ってしまいました。80歳超えたらどうするのかね?こんなペースで蓄財しようとすれば、人生は必要なお金を造るためにあるかのようです。またお金でも土地でも価値が下がる危険、盗難にあう危険、職を失う危険、健康を害する危険に対して、FPの計画は万全でもありません。初めに19節と20節を読みましょう。

「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。


A 神を信頼するのか? 富を信頼するのか?

1)はかない地上の富(19)

財産を持ったり、増やそうと努力するのは、それが自分に満足や安心を与えてくれると考えるからです。これだけあれば急に仕事がなくなってもしばらくは生活できる。多く蓄えておけばいつまでも人より贅沢に暮らしてゆける。でも実はいくらあっても心配はなくならず、満足もできないのが人間の性質です。株は会社がつぶれれば何の価値もありません。大金の札束も激しいインフレや戦争でただの紙切れになってしまいます。地上の富とは通貨や有価証券や不動産だけではありません。地位や資格や名誉もそうです。

2)天に富を蓄えるとは?(20、マタイ19:21)

イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)

当てにならない地上に富を築くこととは全く異なった生き方をイエス様は勧められます。それは自分が「どれだけ得られるか」に夢中になるのではなく「どれだけ与えられるか」に喜びを見出すという生き方です。まだ分からない自分の未来のために蓄財することや、地位を保とうとすることよりも、今あなたを必要としている隣人の助けとなることのほうを大切にするなら、地上の富は積めなくても、天に富を積むことになるのです。あなたが愛するとき、与えるとき、慰めるとき、助けるとき、支えるときに、あなたの心の中には誰にも取り去ることのできない、この世を離れても消え去ることのない宝である「信仰・希望・愛」(1コリ13:13)が増し加えられます。それが天に宝を積むということです。

信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。

3)誰でもどちらかを選んでいる(21-24)

あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

この部分に書かれていることは、あなたが、価値があると思っている事柄とあなたの心との関係についてです。「どれだけ得られるか」(自分の欲望に従う)という考え方と「どれだけ与えられるか」(神様の願いに従う)という考え方は両立しません。ですから誰でも無意識のうちにどちらかの道を選んでいるのです。イエス様を信じますと告白したか、洗礼を受けたかが問題なのではありません。どちらを選んで歩んでいるかが問題なのです。


B 天国銀行があなたのメインバンクなら悩む必要がない

1) あなたの心配の大部分は悩む必要のない事柄(25-32)

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。

あなたの心配の種は何ですか?あなたは心配症といわれることがありますか?あなたの心配について神様はこの聖書の箇所を通して答えを与えてくださっています。「あなたは何も心配することはない」というのが神様の答えです。なぜなら神さまはあなたの本当の必要を知っておられて、それをいろいろな形で与えてくださる方だからです。それでもなお私たちが心配しているとしたら、神様に対する信頼が足りないということになります。  


2) たった一つ、あなたが求めるべきこと(33-34)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

それは「すべてのものは添えて与えられる」の条件である「まず神の国とその義を求めなさい」ということです。この世界に神様の支配と神様の基準にかなった正しさが確立するために自分は何をするのか、ということを祈り求め、日々実践してゆく。そのような歩みをしている者を神様は祝福され、必要なものはいつも与えられるのです。

メッセージのポイント

神様はあなたをこの世の悩みからの解放して下さいます。しかし、この恵みを実質的に生活の中に生かすためにはひとつの条件があります。それは世を信頼することをやめて、神様を信頼するということです。神様が私たちに必要なものは“すべて”備えてくださるという信頼です。生きる目的、共に歩む伴侶・家族、生涯にわたっての物質的必要、心ゆるせる友人、仕事、学ぶ機会も含まれています。これらのものを自分の力で得ようとするならば、私たちはいつまでたってもまだ十分ではないと感じ、満足することはできません。神様に従って与えられている働きに忠実に歩むなら、神様はあなたに必要なすべては完璧なタイミングで与えられます。


話し合いのためのヒント

1)どうしてクリスチャンはこの世の悩みから解放されているのでしょうか?

2)その解放は実際にあなたの心の中に感じられますか?