*2003年6月29日 メッセージノート*

私に従いなさい(マタイ9:9-13 マルコ2:13-17, ルカ5:27-32)

(9) イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

(M13-14) イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

(L27 -28) その後、イエスは出て行って、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った。

みなさんは「コーリング」(呼びかけ)という言葉の意味を知っていますか?ごく普通に使われる言葉ですが聖書では特別な意味を持つ言葉です。それは「神様の呼びかけに応えて神様の働きを担う」という意味で使われているのです。宗教改革によりプロテスタント教会が始まったころのドイツでは信じるには神様がその人にふさわしい仕事(天職)を与えられるということが強調されていました。ドイツ語では「コーリング」に当たる言葉がそのまま仕事を意味する言葉として残っています。パン屋さんも大工さんも学者もみなその仕事を神様のための仕事として理解することが理想とされていたわけです。みなさんは自分の今の仕事を天職だと思いますか?どんな仕事でも、きついと思ったり、退屈だと思うことがあります。人の仕事をうらやんだり、軽蔑したりすることもあります。しかし神様の目から見れば尊い仕事、卑しい仕事という区別はありません。(もちろん犯罪的な仕事は例外です)どんな仕事であっても今神様がしなさいと命じておられると信じて取り組むことが尊いことなのです。けれども神様はあなたをもう少し違った意味で招いておられます。ただ職業を通してだけではなく、全生活を通して神様の働きを担うということです。すべてに優先することとして神様に仕えるよう私たちはみな招かれているのです。それはみんなが牧師や宣教師となるという意味ではありません。牧師や宣教師を職業のひとつと考える人もいるかもしれませんが、そうではありません。12弟子たちはイエス様に給料をもらってはいませんでしたし。パウロも自分の仕事をしながら宣教の働きをしていました。ほかの仕事をせずに牧師としての働きに専念している人もいますが、それはそのような形で仕えることを求められている結果に過ぎないのです。牧師の働きは、牧師の働き、宣教師の働きは重なるところが多いですが、牧師の働きの中心は教会に集う人々のために、神様の言葉を伝える、教える、話しを聞く、世話をすることを通して、癒されること、成長することを助けることです。宣教師とは教会から出て行って様々なところでイエス様を伝えることです。教会が宣教師を送り出し宣教師が新しい教会の基礎をその地域に作り、その教会が成長してまた宣教師を送るという循環があるのです。この働きをイエス様は牧師を羊飼いに宣教師を漁師にたとえます。

A あなたもイエス様に召されている。

1) 誰もが人生の岐路に立つ

マタイに対するイエス様の招きは、イエス様の弟子として初代の教会を他の弟子たちと共に建てあげてゆくという働きです。この働きにつくためにマタイは税金の取立てという仕事をあきらめなければなりませんでした。

 誰にでも人生のターニングポイントがあります。神様の呼びかけに応えて踏み出すときです。誰でもがというわけではありませんが、神様が与える働きによっては今までしてきたことを捨てなければならないこともあります。けれども耳をふさいでいてはいけません。素晴らしい人生の冒険の入り口を見落としてしまうかもしれないからです。

神様はあなたのことも招いておられます。神様はあなたをどのように用いようとしておられるのでしょうか?あなたが家で家族と共に過ごすとき、学校や職場にいるとき、友達と時を過ごすとき、ユアチャーチの出張所がそこにあるのです。そしてあなたはそこで任されたはたらきをするのです。

例えば私の妻はフルタイムのオフィスアドミニストレーターです。もちろん会社の業務が社会に貢献するという働きのためにそこに遣わされているのですが、それだけではなく商談に失敗して帰ってきた羊を励まし、失恋した羊を慰め、羊同士のけんかの仲裁もするわけです。

 あなたの新しいあゆみは表面上は何の変わりもないかもしれません。同じ職場にいても、同じ仕事をしても。でも本質はぜんぜん違うのです。私たちはそこの生活のためでも、そこが好きだからでも、ほかに行くところがないからでもなく、神様の働きのためにそこにいるのです。

 

2) イエス様に従うという生き方

そのような意識を持つということが、イエス様に従うという生き方です。弟子たちの職業は様々でした。少なくともイエス様が地上で活動なさった3年ほどは彼らは今までの仕事をほとんどせずにイエス様と行動を共にされたようです。例えば今でも今までの職業を離れ、修道士、修道女となるよう召されている人がいますが、いまの社会の中ではむしろ例外的な生き方です。人は形、外側を見ますが神様はその人の心を見ます。その人が何をしているかではなく、どんな気持ちで日々を歩んでいるかということを問われるのです。

3) 何もかも捨てなくちゃいけないの?

ルカによる福音書を見るとマタイは何もかも捨てて従ったとあります。しかしそのあとを見ると自宅で大宴会を催したとありますから、彼は多分ここにいる誰よりも大きな家を持っていて大宴会を催すだけの財も持っていたことになります。それでは何もかも捨てたことにならないんじゃないか?と思う人もあるかもしれません。でも彼はすべてを捨てました。すべてを捨てるとは、持っているものを神様の働きに用いていただこうという決心するということです。


B 愛を運ぶ人として

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

(10-11, M15-16 イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。

L29 -30 そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた。ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」)

1) 神様の愛は分け隔てなくすべての人に及ぶ

イエス様は当時の宗教的指導者たちには自分たちの偽善を暴き立てる者としてひどく嫌われていましたが、その宗教指導者たちにより軽蔑され、罪びとと決め付けられていた人々とも分け隔てなく付き合い、彼らに同情を寄せ、彼らを愛しました。マタイのように弟子としても選んだのです。そしてむしろ宗教的な教育を受けた律法学者とかパリ再販と呼ばれる人よりもはるかに、罪びとと呼ばれた人々のほうが天国に近いことを教えられました


(12-13)イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

(M17) イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

(L31-32) イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」)

2) 丈夫な人=“正しい人”=自分は正しいと思っている人

聖書は「神様の視点に立てば、罪のない人は一人もいない」ということを教えてくれます。この神様の基準を受け入れず、自分は問題ない、十分強いし正しいのだから思い通りに生きればいいという人が、かえって人を傷つけ、神様を悲しませるのですが、自分ではまったくそう思っていないので、神様を信じること、神様に従うことなどまったく考えないのです。この人々は自分の利益や名誉のために神様の名を利用することはあっても、それは決して神様に従っているとはいえない歩み方です。

◆「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえ(ルカ18:9-14)

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』

ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』

言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

3) 病人=“罪人”=自分がこのままではいけないと知っている人

あなたが自分の醜いところ、未熟なところ、自己中心的な、利己的なところをよく知っているなら、あなたは罪を赦され神様と信頼関係によって結ばれる可能性を持っています。

あなたは歯の治療されることが好きですか?誰も自覚症状がなければ歯医者さんに行きたくはありません。虫歯も自覚症状がない状態で、いつの間にか恐ろしい治療をしなければならないほどひどくなりますが「罪」も同じです。私たちの心の中の罪はほっておくなら自分にも、周りにも大きな問題をもたらすようになるのです。それよりイエス様の前に出て「私の罪をお赦しください」と願い、神様との関係を回復することを求めてください。

イエス様はあなたに変わらない平安を与えてくださるばかりではなく、あなたのライフワークも用意していてくださる方なのです。

メッセージのポイント

イエス様が呼びかけられ、彼の働きの同労者となることを勧められたのは最初の十二人の弟子だけではありません。それは今に至るまでどの時代においても、信じるもの一人一人にも勧められているのです。誰もが牧師、宣教師となるよう召されているわけではありません。しかし、神様との関係を第一優先にするという基本はすべての人に勧められている祝福の鍵なのです。

話合いのヒント

1) イエス様に従って生きるとはどんな人生を意味しているのでしょうか?

2) イエス様がたとえて言われた丈夫な人、病人とはどんな人を指しますか?