*2003年8月10日 メッセージノート*

弟子 マタイ10:40-11:1

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。(40) 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。(41) はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(42)イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 師と弟子という関係は、日常生活の中ではわかりにくい関係です。親子とも、先生と生徒とも、上司と部下とも違っています。東洋の宗教や思想、芸術などの世界では、それらを将来に伝えるために重要な人間関係として今でも存在しています。私の祖父は書道家でしたが、日曜日には朝早くからお弟子さんと呼ばれる人々がかなり遠方からやってきて自分の書いてきたものを見せたり、祖父に何かを書いてもらったりしていました。中には内弟子といって祖父の家に住み込んでいた人たちもいたようです。祖父は誰にでも教えていたわけではありません。お金を払うといっても小学生や中学生には決して教えてはいませんでした。彼が教えるのは実際にもう書道家として認められている人や学校で書道の先生として働いているような人々でした。私も祖父に一度も指導してもらったことはありません。それは私の書く字を見れば明らかでしょう。親子であって同時に師と弟子でもあるということもありますが。本来は親子という血のつながりとは関係ありません。弟子とは単に技術や知識を、代価を払って教えてもらうだけの者ではなく、師の人格や生きる姿勢に従うものです。イエス様が私たちを弟子と呼ばれるとき、人間同士の師弟関係から類推できるところと、全く異なるところとがあることに注意しましょう。祖父の弟子たちは、最初祖父の作風を懸命に学んでいるようでしたが、祖父の死後、やがて祖父と異なる作風を確立し、今度は自分の弟子たちを指導しています。この祖父にも自分の師がいたということを聞いています。人間の師弟関係、つまり思想や芸術・宗教における師弟関係の場合は弟子はやがて師を超えてゆきます。人間の師は能力においても、生きられる時間においても限界があるからです。この意味ではイエス様はまったく違います。すべてのクリスチャンにとって永遠の師であって乗り越えて行くのではなく生涯見上げ続けてゆく方なのです。

 イエス様は弟子たちにとって 1)神様を愛すること 2)互いに愛し合うこと においての師でした。このことを私たちはイエス様のように完全にはできませんが、ライフワークとして一生をかけて行ってゆくことを求められています。この生涯を通して神様を愛すること、互いに愛し合うがイエス様の弟子の条件です。

 もうひとつ本題に入る前に私たちの間が師弟関係なのか?教会員は牧師の弟子なのか?ということを考えて見ましょう。このマタイによる福音書の最後のページを開いてください。19節20節です

だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

私はイエス様の弟子を作ることを命じられているのであって、自分の弟子を作ろうとしているのではないということです。

A. 大きな権威があなたに与えられている

1)弟子に与えられている権威 (40)

わたしたちはいろいろな経緯を経てクリスチャンとなりました。あなたがイエス様を主と信じるものとなる上で最大の影響を与えた人のことを思い出してみてください。それともあなたはパウロのようにイエス様から直接呼びかけられてクリスチャンになったのでしょうか?私たちがその人の生き方に触れ感銘し、その人が見上げているイエス様を私も見上げて生きてゆこうと決意したのではありませんか?

でもそのことは、決してあなたにイエス様を紹介してくれた人が完全だということではありません。自分に弱さや問題があってもイエス様を紹介することができます。私たちは自分の弱さを隠す必要はありません。完全なふりをすれば疲れてしまいます。ただありのままのあなたが主を愛し、人々を愛し続ける姿勢を見ることをきっかけに人々が、主を知りたいと思い始め、やがて主の弟子になる決心をする。そんな大きな権威が私たちに与えられているのです。


2)預言者としての弟子(41a)

陸上競技のリレーは一人で走ることとは異なる技術が必要です。どんなに力強く、早く走れてもリレーゾーンでバトンを落としてしまったら意味がありません。前の走者は全速力でゾーンに入ってきますが次の走者が走り出すのを注意深く見て、微妙に速度を落とし細心の注意を払ってバトンを渡します。

クリスチャンはすべての人類に与えられている神様の言葉を世界中に伝えるために、この世界に派遣されています。預言者とは未来を予知するものという意味より、神様の言葉を預かっている者という意味のほうが強い言葉です。そのメッセージの中心は、「イエスを主と認め救われなさい」ということです。教会は2000年間、預言者としてこのメッセージをリレーし続けてきました。今あなたがバトンを受け取り、誰かに渡そうとしているのです。

3)正しい者としての弟子(41b)

神様は100%正しい方です。神様を信じる私たちはイエス様の十字架によって正しい者として認められています。私たちは100%ではありません。不完全で失敗も師、判断を誤ることもありますが。世界に正義が行われるように声を上げる者として、正しいことを行う者として立てられているのです。クリスチャンとしてどのような政治的なスタンスを取るのかということはとても難しく今まで多くの過ちを繰り返してきましたが。迷わずに声を上げ手を差し伸べることの出来る働きも多くあります。ユアチャーチはワールドヴィジョンというNGOの働きをサポートしています。ワールドヴィジョンは世界中の飢餓状態にある子供たちを援助する団体で、諸教会からささげられた献金や、教会メンバーの個人的献金によって事業を行っています。このようなことを行うことも弟子のあり方の一端なのです。

4)弟子を助ける人々の尊さ(42)

私はイエス様の弟子になって20年以上経ちましたが、楽しい歩みでしたが、楽な歩みではありませんでした。私の場合は幸い丈夫な体を与えられ、大きな病気を経験したことはありませんが。経済的に苦しいところを通ってきました。多くの人たちに支えられてきました。教会のリーダーの一人であるニューマン順子さんの手術のときにも今回の入院のときも教会の多くの人が経済的にサポートしてくださっています。主の弟子といっても、弱さ不完全さは変わりません。さまざまな助けによって支えられて働きを続けることが出来るのです。どうか皆さんも主の弟子であると同時に他の弟子たちを支える者として歩んでください。

B. 弟子たちがしていたこと (11:1)

この節を読むと弟子たちがいつも必ずイエス様と行動を共にしていたわけではないことが判ります。イエス様がお一人で宣教されていた間、弟子たちは何をしていたのでしょうか?彼らもまた宣教していたことが同じ10章の5節以下からわかります。つまり弟子達には、イエス様のすぐそばにいて言葉を聞いたり、イエス様と会話をしたり、またイエス様のなさることを見ているような時と、そこから出て行き人々にイエス様を伝える時という二つの時を持っていたことがわかります。

1)礼拝

今、私たちは日曜ごとにここに集まり終日はそれぞれの場で過ごします。イエス様との交わりは日曜の朝教会でしかできないわけではありませんが、日曜の朝は特にイエス様との交わりに集中し、語られる言葉を聞き、私たちもワーシップを通して主への愛を表現します。同時に目に見えるイエス様の体として組み合わされた一人一人と共にこのときを過ごすことは、弟子にとって何よりも大切なときです。この時がなければ私たちは、終日の働きを正しく、力強く果たしてゆくことができません。

2)宣教

 今朝私たちは礼拝を終えてこのドアを出てゆきます。主の弟子としての私たちは、これから宣教の6日間を過ごすのです。遣わされているところによっては、それは困難なときかもしれません。孤独を感じるかもしれません。そこで私たちは週の中ほどに教会全体ではありませんが、ミニチャーチとしてつどい小さな礼拝をささげ、交わりの中で力をいただいて残りの週をすごします。


メッセージのポイント

私たちがキリストの体の一部であるということは、ただ彼に属しているだけではなく、神様の大きな権限が委ねられているということでもあります。キリストを受け入れようとする者にとって、弟子の存在は大きいのです。もちろん私たちはイエス様のように完全なものではありません。むしろ信じようとしている者の躓きになってしまうような者でしかありません。しかしイエス様はあえてこのような私たちを選んでくださったのです。ですからそれは私たちの才能や努力によるものではありません。私たちはイエス様の期待に応えるために、礼拝を通してイエス様との深いつながりを維持しつつ、ただそこにとどまることなく宣教の役割を負って世界に出てゆくことです。

話し合いのヒント

1)なぜ私たちを受け入れることが神様を受け入れることになるのでしょうか?

2)あなたにとって礼拝をささげることと伝道することとはどのような関連がありますか?