*2003年8月17日 メッセージノート*

イエス様、あなたは本当にその人なのですか? マタイ11:2-11:30 

A. ヨハネの持ったイエス様に対する疑問

1) 人が神様に期待すること

このヨハネはバプテスマのヨハネと呼ばれたイエス様の少し前に生まれ、イエス様が来られることを預言した預言者です。ヨハネの預言は正しかったわけですが、彼はイエス様が「赦す方」というよりむしろ、もっと厳しい「裁きをする方」と思っていたのです。

わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:11-12)

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、 尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」(2-3)

ヨハネはこの時、王の不法な結婚を責めて投獄されていましたが、そこで聞くイエス様の評判は彼にとって意外なものだったのです。悪や不法が横行する社会の中で、イエス様は悪人や罪びとを火に投げ込むようなことはなさいませんでした。「彼は本当に正しい裁きをなさる方なのか、世を救う方なのか?」

この世界の状態は今も基本的に変わってはいません。目に見えるところでは悪がはびこり、苦しみの元にある者も多いのです。多くの人は今でも言っています「神が正しい方ならなぜこんな状態をそのままにしておくのか?」「あなたが世界を作った神様なら、この世界をもっとよいものにしたらどうだ」 イエス様と同じときに十字架にかけられた犯罪者の一人がイエス様に向かって何と言ったかみなさんは憶えていますか?「お前はメシア(救い主)ではないか、自分自身と我々を救ってみろ」この言葉は今の世界の神様を信じない人の言い分をでもあります。 しかしここには神様が人類を愛されて、どのようなものとして創って下さったかという視点が全く欠けています。神様に似た者として、良心を持って神様に任された世界を管理するという特権と責任です。

2) 神様が人になさること

神様のアプローチは私たちの期待するところとは異なり、アクションムービーのヒーローのように悪人を派手にどんどんやっつけるような方法はとられなかったのです。

イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。(4-6)

3) 最後の預言者:ヨハネと神の国の働き人:私たち

ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。 では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。 では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。 『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるのは、この人のことだ。 はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。 彼が活動し始めたときから今に至るまで、天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている。 すべての預言者と律法が預言したのは、ヨハネの時までである。 あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。 耳のある者は聞きなさい。(7-15)

B. 神様の働きかけと人々の反応

1) 受け入れられない人々

今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」(16-19)


2) 悔い改めない人々

それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。 「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。 しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。 また、カファルナウム、お前は、/天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。 しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」(20-24)

C. 招きに応えて主のもとへ行こう

1) 神様は御子を通してご自身をあらわされる

そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。(25-27)


2) 持たなくても良い重荷を捨てる

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(28)


3) 担うべき荷を負う

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(29-30)


メッセージのポイント

神様がなさることと、私たちが神様にしてほしいと思うことの間にはギャップがあります。ヨハネも自分の期待通りにはなさらなかったイエス様に疑問を投げかけました。神様に期待することはすばらしいことですが、それは自分の思い通りにしてほしいと願うこととは違います。神様はあなたの思いをはるかに超えて「良いこと」をしてくださる方です。私たちに必要なのは「自分の思い通りに物事が運んでいなくても神様に信頼をおく」ことです。重荷を負って疲れているとは、神様を信頼せずに自分で問題を抱え込み悩み苦しんでいる状態です。神様を信頼し従うことは、時には先が見えずに不安を覚えるかもしれませんが、それこそが私たちが本当に負う価値のある荷物なのです。

話し合いのためのヒント

1) ヨハネはイエス様にどんな期待を持っていたのでしょうか?

2) あなたの下ろすべき重荷、負うべき重荷とは?