2003/9/21 メッセージノート 

あなたに本当に必要なこと マタイ12:22-32


A. 神のしるしが現れるとき人は・・・・

1) 期待するが・・・

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。(22-23)

イスラエルの人々は自分たちを様々な苦しみから解放してくれるメシアがダビデ王の子孫から現れると信じていました。メシアという言葉を知らなくても英語読みの「メサイヤ」 という言葉なら聞いたことがあるのではないでしょうか?「メシア」は「国を救う偉大なリーダー」と言う意味で使われていましたが、もともとは「油を注がれた人」という意味の言葉です。イスラエルでは王や預言者などの重要なリーダーを任命するときに油を注ぐという習慣がありました。ダビデはイスラエルの歴史上もっとも偉大な王で、その活躍は旧約聖書のサムエル記で読むことができます。当時の人々はダビデの再来といえるような王が現れ、当時イスラエルを占領していたローマからの独立をもたらしてくれることを期待していました。

しかしイエス様は期待以上の方でした。イスラエル一国の政治的解放のためにではなく、世界中の人々の魂をサタンの支配から解放し、神の国に取り返すために来られたのです。残念ながら多くの人々は「魂の解放」が自分たちに必要だということを自覚することはできませんでした。イエス様が病気を癒したり、奇跡を起こすことを喜んでも、イエス様に従おうとは思わなかったのです。この傾向は今の時代に生きる私たちも共通することです。健康が支えられる、事業に成功する、高い地位に就くことなどを願うことは決して間違ってはいません。しかし、それは私たちにとって一番重要なことではないということを忘れてはなりません。一番大切なこと、それは、イエス様を主と受け入れることによって与えられる、神様との関係を保ち続けることです。このことさえしっかりとしているなら、私たちはどんな困難をも乗り越えることができるのです。私たちの周りにいる人々のことを考えてみましょう。実は私たちの周りにいる人たちの多くがこのカテゴリーに属する人々です。あなたがその人のために祈ったり、何かをしてあげることは喜んでくれますが、自分が主に従わなければ真の解決はないということを認めようとはしないのです。そのような隣人のために私たちは何ができるのでしょうか?それは種を蒔き続けることです。あなたが蒔いた種をあなたではない誰かが刈り取ることもありますし、誰かが蒔いた種をあなたが刈り取ることにもなるのです。大切なことは種を蒔き続ける、つまり愛し続けることです。

2) 認めようとしないばかりか否定的な評価をするが・・・

しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。(24-27)

ファリサイ派と言われる人々は、イエス様の行われるしるしを見て何も期待しないばかりか、むしろ憤りを覚えました。彼らは自分たちこそ神様の意志に従っている「正しい者」だと考えていましたから、彼らの考えに合わないイエス様が、どんな奇跡を起こしても「神様の力が現れた」 と認めたくはなかったのです。そこでイエス様の力が「ベルゼブル」つまりサタンから来ていると人々に思わせたかったのです。しかし彼らの目にもイエス様の癒しが悪霊の追い出しであったことは明らかだったので、悪霊のかしら、ベルゼブルつまりサタンの力で悪霊を追い出している、と矛盾することを言ったのです。

私たちの周りには今のところ、イエス様を否定し、悪い者として彼に従うクリスチャンを迫害する ファリサイ派のような人々はいないかもしれませんが、この世界のどこででもそうであるわけではありません。今でも世界のあちこちで「イエス様を主と信じている」という理由で危険な目にあったり、苦しめられている人々がいるのです。ぜひそのような人々のために祈ってください。また自分がそのような状況に置かれても、主が最善を与えてくださることを信じて乗り越えることができることを忘れないで下さい。この国でも50年前にはそのようなことが実際にあったのです。


B. イエス様が教えるこの「しるし」の本当の意味

1) 神の国とサタンの国の戦い

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(28)

主がしるしを現される時、私たちはその目に見える素晴らしさに目を奪われ、その本質を見失いがちです。その本質とはイエス様率いる神の国がサタンの支配から人々を解放する戦いが始まっており、神の国の勝利が地上のあらゆるところで起こっているということです。 あなたが、神様の下さった良心と利己的な欲望の間で心の葛藤があるとき、あなたの心はこの戦いの戦場となっているのです。

2) サタンに勝利したイエス様

また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。(29)

十字架の上でイエス様がなさったこと、三日目によみがえられたことは、イエス様がサタンに対する戦いで勝利したということです。神の国の勝利は確定しているのです。今もなお戦いは局地戦として続いています。イエス様はあなたのところにも来て、鎖を打ち砕き自由を与えられました。しかしそこがまだ戦場であることには変わりありません。サタンの攻撃に対して無防備であるならまた捕らえられてしまうかもしれません。戦う力はまだ十分ではないのならまず神様のふところに飛び込むのです。そこで神様は必要な治療や休養、栄養を与え、悪と戦う供えを与え、サタンの支配を完全に打ち破るために、私たちを再び戦場に送り出すのです


3) あなたの決意を尊重されるイエス様

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。(30)

だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(31-32)

イエス様を知る前の私たちは、自らの意志で罪を犯し続けていたというより、それしか道はなかったのです。しかしイエス様が道を示してくださって事態は変わりました。それは自動的に罪から離されるのではなく、自分の意志で神の国の民として生きるのか、それともイエス様を拒み闇の中を歩み続けるのかの選択権を与えられているということです。あなたは自覚的に神の国の民として歩んでいますか?

イエス様を神のみ子と知りながら、聖霊の力を悪霊の力というようなことは決して赦されないと警告されています。それでもあえてイエス様を迫害する人々は後を絶ちません。あなたは、そのような中で恵みによって救われた者、あるいは救いに導かれつつある者だということを忘れずに、神様の恵みに応えて生きる、生き方を選択してください




メッセージのポイント

イエス様は目に見えるしるしをもってあなたを様々な問題から解放して下さいます。しかしそれがイエス様のあなたのための計画の全てではありません。イエス様の奇跡的なしるしの意味は、目の前に見える問題の解決よりもっと深いところにあるのです。それは激しい戦いによって勝ち取られた十字架の勝利によってもたらされた神の国の支配が始まっていることを表しています。イエス様を知る前の私たちは、自らの意志で罪を犯し続けていたというより、それしか道はなかったのです。しかしイエス様が道を示してくださって事態は変わりました。それは自動的に罪から離されるのではなく、自分の意志で神の国の民として生きるのか、それともイエス様を拒み闇の中を歩み続けるのかの選択権を与えられているということです。あなたは自覚的に神の国の民として歩んでいますか、それとも、、、

話し合いのためのヒント

1) イエス様はなぜ奇蹟や癒しなどのしるしを現されたのでしょうか?

2) 「神の国」とは何ですか?