2003/10/12 礼拝メッセージ 

しるしを見たい マタイ12:38-42

どのレストランに入ろうかと迷うことはありませんか?

デニーズとかシズラー、ジョナサンなら大体どんな物があって、大体の予算もわかりますから、そのときの懐具合や食べたいものによって決めることができます。でも時々メニューが変わってしまっていてがっかりすることもあります。旅行に行って見知らぬ土地だと入り口に値段付きのメニューが出ている店でないと入るのに勇気が要ります。いざ入って値段に見合ったあるいはそれ以上の味や量ならうれしくなりますが、期待以下だとがっかりです。だからといって席に着く前にメニューを見せてください。ちょっとこれを味見させて下さいという人はいません。会社を選ぶ、学校を選ぶ、何を選ぶときでもその全てを知り尽くして選ぶということは不可能です。だから限られた情報で決断します。そしてあるときは満足し、あるときは失敗したと思うのです。

 イエス様を救い主と信じるということも、これによく似ているところがあります。同じイエス様の言葉を聞いても信じられない人もいれば、即座にしたがってゆく人もいるのです。両者の違いはどこにあるのでしょうか?


A.しるしで安心したい人々(38-39)

すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエスに、「先生、しるしを見せてください」と言った。イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。

イエス様はただ神の国が来ていると言うだけではなく、実際に人々がわかるような様々なしるしで、そのことを教えました。今でも私たちは聖書に書かれている救い主についての預言(旧約聖書)十字架と復活を中心としたイエス様の歩みと彼の言葉(福音書)、そして弟子たちを通して伝えられた神の言葉(使徒言行録以降)それらにより私たちはイエス様を主と信じることができるようになったのです。それなのに当時のユダヤの知識階級の人々がイエス様を受け入れられなかったのはなぜでしょうか?彼らは「それくらいのしるしでは信じられない、もっと違ったしるしを見せてくれ」とイエス様に要求しました。つまり彼らが信じない理由は、信じるのに十分なしるしが与えられないからだというわけですが、弟子たちのように与えられたしるしで信じた人もいたのですから、実際のところは別の二つの理由があったのです。ですからイエス様がどんなしるしを見せようと彼らは満足しなかったでしょう。

1) 悔い改めない人々(41)

ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。

第一の理由は「悔い改めたくなかったから」です。旧約聖書のヨナ書の主人公ヨナはニネベという町がその悪のゆえに滅びると預言しました。ところがニネベの人々は、王から庶民まで深く反省し、悪から離れたので神様は町を滅ぼすことを思いとどまられたのです。ニネベの町は特殊なケースと言えるでしょう。たいていの場合人々は、このままでは滅びるといわれても、今までの自分の生き方にしがみつき続けます。今までの自分の歩みが罪の歩みであるとは認めたくないのです。

「悔い改め」それは罪を認めて自分のあり方を変える、ということです。罪を認めたくない人、生き方を変えたくない人は「悔い改める」ことができません。

悔い改めろだって?自分だってそれなりに、そこそこ何とかやってきた。罪人と言われるほどには悪くない。何で今までの自分を否定しなければならないのか?多くの人はそのように感じます。神様が問題とされるのは、どれだけ良いことをしたか。また悪いことをしたか、ということではありません。その人が神様と正しい関係を持っているかどうかなのです。聖書が言う「罪」とは「その人の心が的外れの状態にある」ということです。すべての人は例外なくイエス様を自分の主として迎える以前は「罪人」なのです。

2) 聞く耳を持たない人々(42, ヨハネ9:13-34)

また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。

もうひとつのイエス様を信じることを困難にした理由は、知識階級を自負する彼らが自分の知識や知恵を信頼していたので、誰からも聞き従いたくはなかったからです。シェバは今でいうサウジアラビア辺りにあった国です。ソロモン王の時代にその女王が知恵に優れたソロモンに聞くためにイスラエルを訪れたことが記録されています。彼女は一国の女王でしたが、ソロモンが神からの知恵によって語ることを謙遜に受け止めました。しかし反対に、自尊心が邪魔をして真理に耳を傾けることのできなかった人の例はいくらでも見出すことができます。ヨハネの福音書の9章に良い例があります。ファリサイ派の人々はイエス様に盲目を癒された人から事情を聞こうとしているのですが、知識も学問もない素朴な男の言葉に完全にやり込められついに怒り出してしまいました。彼の言葉に力があったのは、知識も学問もなかったことが返って幸いして彼が真理を素直に受け止められたからです。

B.ヨナのしるしで満足する信仰 (40, 使徒言行録9:1-22, フィリピ3:5-11)

つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。(40)


わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

(フィリピ3:5-11)

新約聖書の手紙の部分を誰よりも多く書いているパウロは、イエス様を主と受け入れる前には、バリバリのファリサイ派で、迫害者として恐れられていた人でした。最高レベルのユダヤ教神学者で旧約聖書にも精通していました。彼がダマスコの町にクリスチャンを迫害しに行く道の途中でイエス様が彼の心に語りかけたのです。

1)悔い改める信仰

大人に謝りなさいといわれてそっぽを向いて「ごめんなさい」といっている子供を時々みかけます。悔い改めることが困難なのは当時のファリサイ派の人だけではありません。人間なら誰でも持っている性質です。小さな子供のころから簡単には謝りたくないという気持ちが働くのです。使徒パウロはこの語りかけに応えて人生を180度転換した人です。他のファリサイ人とは違いイエス様との個人的な出会いを体験したのです。それはパウロが真理を求める心を持っていたからです。真理は自分の外側にあるという態度です。


2)聞く耳意を持つ信仰

ここでいわれている「しるし」とは、神の国がもうここまで来ているという確信を与えるしるし、イエス様が救い主であるということのしるしのことです。弟子たちの目から見ればすでに十分なしるしが現されていましたが、律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが納得する証拠を見せればあなたを信じようという態度をとりました。そんな彼らに対してイエス様は「ヨナのしるし以外には何も与えられない」とおっしゃいました。これは十字架と復活を預言する言葉です。ですからそれを実際にしるしとしてうけとれるのは復活の主に出会う時です。イエス様はたくさんの奇跡や癒しの中でもっとも大きなしるしとして十字架と復活を挙げられたのです。十字架と復活こそ、イエス様を救い主として信じるための最大のしるしです。このことは私たちの信仰のあり方を選び取る必要があることを教えてくれます。あなたが預言され成就した十字架と復活という事実に基づいて信じるのか?それとも何かあなたにとっての利益を与え続けてくれることによって信じるのかという?この二つの考え方には大きな隔たりがあります。前者はあなたに神の国の市民権・永遠の命を与えるものであり、後者はあなたに、自分は(本当はそうでないのに)神様に属する者だという幻覚しか与えてはくれません。

メッセージのポイント

ここでいわれている「しるし」とは、神の国がもうここまで来ているという確信を与えるしるし、イエス様が救い主であるということのしるしのことです。律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが納得する証拠を見せればあなたを信じようという態度をとりました。このことは私たちの信仰のあり方を選び取る必要があることを教えてくれます。あなたが十字架と復活という事実に基づいて信じるのか?それとも何かあなたにとっての利益を与え続けてくれることによって信じるのかという?この二つの考え方には大きな隔たりがあります。前者はあなたに神の国の市民権・永遠の命を与えるものであり、後者はあなたに、自分は(本当はそうでないのに)神様に属する者だという幻覚しか与えてはくれません。

話し合いのヒント

1)「しるし」とは何ですか?

2)あなたはなぜイエス様を信じているのですか?