2003/11/2 メッセージノート

種を蒔いても収穫できない理由 (マタイ13:1-23)



A. イエス様はなぜ譬えを用いられたか? 

1) 理解を助けるために (1-9)

 イエス様が最初の弟子としてペテロを招くときにどんな言葉を使ったか覚えていますか?「あなたを、人間をとる漁師にしてあげよう」 ペテロは実際に漁師でした。当時の普通の庶民であり宗教的学問的知識や教養のある人ではありませんでした。もしイエス様がペテロに「この世界に神の救いをもたらすために、今の宗教家たちの誤りをただし、新しい教えを説くから手伝いなさい」なんて言ったら、恐ろしくなって逃げ出してしまったでしょう。実際のところ、この言葉でイエス様に従ったペテロも、その意味するところを正確にはわかってはいなかったのです。ただその一言が彼のこれからの人生を導く言葉であることを直感して従ったのです。もし彼が羊飼いであればイエス様は彼に「人の世話をする羊飼いにしてあげようと言ったでしょう」、ではもし彼がハンターだったらイエス様はなんと言ったと思いますか?「人を撃つ漁師にしてあげよう」とは言えませんね。イエス様は彼の地上での働きを始めるにあたり12人の弟子をリクルートしました。イエス様のやり方は履歴書に載っているような学歴や能力、経験、年齢、資格ではなく、従ってゆきたいという心を見られたので、彼らのうちのほとんどは教養のない人々だったのです。


彼らを始めとしてイエス様の話を熱心に聴いた人々はみなそのような一般の人々でしたから、イエス様は難しい話はなさいませんでした。当時の人々に身近に感じられる動植物や宗教家、法律家、役人、羊飼いといった人々を登場させ、神の国について教えました。このように人々の心の中におかれた言葉がまさに種となって、使徒言行録の時代に多くの人々がイエス様に従ってゆく決心をしたのです。

2) 理解を拒むために(10-17)

ところがその一方で、イエス様のたとえを聞いても一向に理解できない人々がいました。律法の学者やファリサイ派と呼ばれる宗教指導者たちです。彼らは、自分こそが正しいと思い込み、心は固く閉ざしたまま、ただ反論するために聞いていたのです。しかし「反論」は「たとえ」には効果がありません。イエス様を歓迎し、心から神様との関係を取り戻したい人にとって「たとえ」は真理を悟る言葉として心に留まります。こうして「たとえ」は反対する者の口を封じ、届くべき人の心には届いたのです。私たちにとっては、イエス様のたとえは答えを知っているクイズのようなものですが、それは誰にとってもそうなのではありません。ためしに友達にこのたとえを覚えて話してみてください。どんな反応を示すか興味深くありませんか?心の準備のない人には「落ちのない小話」にしか聞こえませんが、魂に飢え渇きを覚えている人は、それはどういうこと?とあなたに聞いてくると思います。


B. 人生に良い収穫を期待できない心の3タイプ


1) 主を受け入れない心(19)

私はイエス様を妻に紹介されてクリスチャンになったのです。それ以前は「神はいない」と固く信じていましたから、心に種をまかれて、育てようとはまったく思わず、むしろ除草剤を撒くように「神なんていない」という考えをサポートしてくれる本を読み漁り「絶対だまされないぞ」と思っていました。単なる道端よりもっと悪いアスファルトで固めた駐車場のような心の持ち主だったわけです。
 当時のユダヤの宗教家たちも「律法を忠実に守る」ことによって神様に認められるという考え方に硬く立っていましたから、イエス様は彼らを道端にたとえました。皆さんの周りにもこのような人がいるでしょうか?どうか満足な実りのない人生の原因がこの点にあることを忍耐強く勧め続けてください。弱く見える草もやがてアスファルトを突き破り、コンクリートのひびを押し広げて地上に顔を出すように、神の言葉は強力です。やがてその人の心も柔らかくされる時が来ます。


2) 雰囲気や人間関係の延長で主を受け入れた心(20-21)

「丘サーファー」という言葉がありました。サーフィンがブームになったとき、そのスタイルは波乗りをしない人にも広がりました。海には入らないのに、渋谷とか原宿にわざわざ屋根にサーフボード載せた車で走って、女の子にもてたいという男の子のことをさして使ったことばです。丘サーファーのようにクリスチャンの表面的なライフスタイルだけを楽しんでいるなら、せっかくクリスチャンになったのに収穫を得ることは難しいのです。丘サーファーはサーファーではありません。ピックアップトラックを手に入れて、ボードをみんなによく見えるように積んでもサーファーではありません。サーファーになりたいなら、波にうまく乗れるようになるまで、何度も波に巻かれて苦しい思い、怖い思いをしなければなりません。
 イエス様は、このような人の問題は「根」がないことにあるといわれます。どんなに豊かな土地でも、周りの人が一生懸命に世話をしてくれても、自分が成長したいという気持ちがなければ、実りを見ることはできません。そして成長には痛みをともなうものなのですが、苦労や忍耐を避けようとするなら成長はありません。根とは養分や水分を吸収するためにその植物自体が土の中に張り巡らすものです。また根が張っていれば地表が台風でも日照りでもしっかり立っていることができるのです。主の体は楽しい、暖かい、安心できるところですが、それだけではなく、鍛えられて成長するところでもあります。イエス様につながっているというのは決してイエス様にお任せということではありません。移動する母親に子猿がしっかりしがみついているように、つながっているのです。しがみつく気がない者までイエス様はささえようとはなさいませんが、たとえ力が弱くても一生懸命しがみつくものを神様は支えてくださいます。


3) 他の思い煩いが多すぎる心 (22)

大変多くの心配を抱えている人がいます。いつか事故に巻き込まれるのではないか、病気になってしまうのではないか、職を失うのではないか、自分のことばかりか家族のことまで、心配事が多すぎて、祈ることも聖書を読むことも手につかないなら、とても実を結ぶことはできません。またお金を儲けたり、名声を得たりすることに心を奪われれば、神様のとの距離は遠ざかるばかりです。人間はその人がどれだけ何かを得たか、何を持っているかで人を評価しますが、神様はどれだけ使ったか、何のために用いたかを評価するのです。


C. 良い地にたとえられる心とはどのようなものか? (23)

1) やわらかく耕されている 

 耕された畑は空気を含み柔らかく、作物の根が広がることを助けます。水や養分を十分に与えるためにも、よく耕しておかなければなりません。人間の心はどう耕したらよいのでしょうか?それは神様に祈りつつ、先入観や偏見を持たずに、神様の与えてくれる成長のチャンスを逃さないことです。成長のチャンスとは日々起きてくる一つ一つのことです。それがたとえ自分にとって思いがけないことであっても、神様の深い考えがあることを信じて、苦労、忍耐をいとわないで取り組んでゆくことです。

2) 適切な養分が豊かに与えられている 

この国のちょうど真ん中あたりに何十年にもわたりキャベツ生産日本一の村があります。ところが最近では、病気や害虫に悩まされることが多くなってきたそうです。土地自体にとっては同じ作物を作り続けることはよくないのですが、農薬とか肥料とかのさまざまな人為的な工夫でしのいできたのですが、ついに今まで続けてきた農薬や肥料の効果も上がりにくくなってきてしまったのだそうです。 あなたが生活の中でよい収穫を得続けたいなら、与え続けても安全で効果のあるものを注意深く選ばなければなりません。たとえば仕事に打ち込むことも大切ですがストレスもたまってくるわけです。そこで旅行をしたり、ほかのことを忘れて打ち込める趣味の時間を持つのです。それらは生活のリズムを変えるよいアクセントにはなりますが、そればかりをしているわけにはいきません。本を読む、講演を聴く、それらも心を豊かにする意義のあることですが、それだけでは人生に十分な収穫を期待することはできません。おおくの人々が、一番大切で、日々補給しなければならない、そして使い続けても決して悪い影響を与えることのない心の肥料「神の言葉」を知らないか、忘れてしまっているかの状態の中で、よい実を得られないと嘆いていますが当然のことです。残念ながらクリスチャンの中にもそんな傾向があります。神様中心の交わりだったはずなのにいつの間にかイエス様は端っこに座って誰にも声をかけてもらえないような集会になってしまった。聖書の言葉を理解するための助けであるはずの信仰についての本ばかりを読んで、聖書はほとんど開かない。それはあなたに健全な成長をもたらすものではありません。どうかイエス様中心の交わりと聖書を読むことにもっと親しんでください。


3) 日々の手入れがなされている 

作物がよく育つ肥沃な環境は、雑草や虫にもやさしい環境でもあるのです。作物が穴だらけにならないように、かんじんな作物以外のものが生い茂っていたということになってしまわないように雑草や害虫を取り除く必要があるのです。感受性が豊かであること、先入観を持たずに誰にでも耳を傾けること、いろいろなことにトライしてみるのは大切なことですが、それがあなたと一番大切な方との関係を危うくするものだと気づいたなら、小さな芽のうちに抜き取ってしまいましょう。それは早ければ早いほど容易なのです。


メッセージのポイント

人生に大きな収穫をもたらす「神の国の言葉」を聞いても受け取る側の心の状態で、その収穫には大きな差が出てしまいます。私たちはまず私たち自身の心がよく耕され、良い収穫を得るものとして整える必要があります。そうすれば私たちは多くの収穫を得ることができます。さらに私たちは神の国の言葉を蒔くことを委ねられた農夫として、人々の心が御言葉をうけて良い収穫を得られるよう、土地を耕し、雑草や、石ころを取り除くような地道な「愛する」という作業を続けるのです。


話合いのためのヒント

1) あなたの心の状態はどのような土地にたとえられますか?

2) これから、より良い収穫を得るためにどのようなことをしたいと思いますか?