2003/11/30 アドヴェントメッセージ(1) (ルカ1:26-38,マタイ1:18-25)

恵みは当惑と絶望から始まった

Grace began with perplexity and despair

A. マリアの当惑 Mary's perplexity

1) 人は自分ではどうする事もできない問題に直面する Facing a problem that you can't solve by yourself

 今朝教会に来るときにJRや小田急の駅からデッキを歩いてきた方が多いと思いますが、あのあたりはキャッチセールスといって言葉巧みに勧誘して高額の商品を購入させる人がうろうろしていますから気をつけてください。

 そんなセールスのやり方のひとつに、アンケートと称して足を止めさせ、短いアンケートの後「ありがとうございます、時間をとってくださったお礼に抽選で商品を差し上げています。どうぞ」というのがあります。くじをひかせ「おめでとうございます。今あなたは特別セールの抽選で一等賞が当たりました。お渡ししたいのでオフィスにお越しください」これに乗ってついてゆくと悪夢が始まります。いつの間にか数十万円の化粧品セットとか、羽根布団を分割購入する契約書にサインさせられていたといったことになってしまうのです。

 マリアがこんな風に天使に呼びかけられることからクリスマスの出来事は始まったのです。「キャッチセールスにたえるな」と天使ガブリエルには怒られそうですが、まさにマリアにとっては、その一等賞の内容といったら、粗悪な化粧品を高額で買わされるよりずっと困ったものだったのです。

 女性の方は想像してみてください。婚約中の自分の前に天使が現れて言うのです「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」「えー何か新種の悪徳商法のセールスマン?」と思っているうちに、今度は「あなたは身ごもって男の子を産む」といわれることを、「自分には身におぼえのないのに、もうすぐ子供が生まれるですって?」悪い夢でも見ているのではないかと思うかもしれませんね。しかしまさにそれがマリアの身に起こったことなのです。約2000年前の出来事です。自分で望んでもいないのに未来の夫であるヨセフを裏切り、誰の子供かも分からない子供を生みまわりの偏見の中で育てなければならない。でもそれはただの子ではない世界全体にかかわる特別な人の誕生であると言うことを続けて知らされることになります。ルカによる福音書1:26-38 を読んでみましょう。

六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。

 身ごもって子供を生む、という人の普通の誕生のプロセスを通してイエス様が歴史に登場されるということは意味深いことです。子供のイエス様が戸口に現れて「僕を養子にしてください」と言われたのではありません。しかし、彼がそれだけの存在ではなかったことが31節の言葉で分かります。ガブリエルはこれがイザヤの預言の成就であることをここで教えてくれます。それはイザヤ書の7章14節 「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」 というものです。

 どうか神様が乱暴な方だと思わないでください。神様は歴史上最初で最後の一回きりのこととしてこのような方法をとられたのです。イエス様は再び来られると、おっしゃいましたが、「人々は雲に乗ってくるのを見ると」と表現されているように、あのクリスマスのときの方法はとられません。「私は再臨のイエスとして生まれました」と主張する人はみな偽のメシアです。

2) 私は主の僕、お言葉のとおりになりますように "I am the Lord's servant. May it be to me as you have said."

マリアはこの天使の言葉を聞いて覚悟したのです。「私には理解できないことがこの身に起ころうとしている。常識ではありえないことでさえ神様ならおできになるのだから。しかも神様がなさろうとしているならよいことに違いないのだから」

どんなに誠実に歩んでいても、私たちの身には思いがけないことが起こります。しかし神様を信じて従っているなら、その人に起こることは、見た目にはどんなに大変で、人には理解されないことであっても神様のすばらしい計画の一部なのです。「私はあなたの僕です、あなたの意思が、お言葉どおりにこの身に成りますように」と祈りながら歩みましょう。

B.ヨセフの絶望 Joseph's despair

1) 正しい人も試される Even a righteous man will be tested

今度は男性がヨセフの立場になって想像してみる番です。誠実に生きてきたのに、婚約者に身に覚えのない妊娠をしていると告白される哀れな男です。マリアの心は定まりましたから、ヨセフにはそのまま率直に告げたのでしょう。しかしヨセフにはまだ心の準備はできていません。結婚の約束をしているのになぜこんなことが起こるのか?しかもそれが誰か別の男によるものではないという、到底信じられないようなことを言うマリアをどう扱ったらよいのか?彼は正しい人であったので絶望的な状態の中でも、賢明にも報復を選ばず。静かに縁を切ろうと決心しました。あなたならどうしたと思いますか?マタイによる福音書の1章18節から25節までを読みましょう。

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。


2) 心の嵐を静める言葉 Words that calm the storm within ones heart

ヨセフに覚悟を与えたのもやはり天使の言葉でした。しかもそれは夢の中で語られたようです。なぜ彼はこの言葉を信頼することができたのでしょうか?それは彼が日ごろから親しんでいた預言の成就として起こる人類に対する神様の救いの計画のプロセスであることに気付いたからです。23節に先ほど読んだイザヤの預言が引用されています。ヨセフは生まれてくる子供の名前を考えずにすみました。天使がイエスと名づけなさいと命じたからです。イエスはヨシュアのギリシャ語読みですから変わった名前ではありませんでした。ヨシュア記に出てくるヨシュアと同じ名前です。「ヤーウェは救い」と言う意味です

C.絶望の淵から希望の担い手となる Becoming a bearer of hope from the depths of despair

1) 現状に惑わされない Not being deceived by immediate circumstances

現実の世界は様々な理不尽なことが起こります。将来もとても明るくは見えません。まじめに懸命に生きていても災いが来る時には来るのです。しかしそのような中にあっても、神様はあなたを守られます。神様はまず初めにイエス様を、そして彼に従うあなたを希望の担い手としてこの世界に置かれたのですから。あなたが持っている信仰とは何ですか?ヘブライ人への手紙の11章によればそれは 「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」 だとあります。開いてみましょう。1節ですね。

2) 神様にのみ信頼をおく Placing trust only on God

さらに8節以降を見ると 「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです。」 とあります。

イエス様の両親もまたアブラハムの信仰をうけつぐ者たちでした。その夫婦としての歩みの始めから、自分たちの理性では理解する事のできない神様の深い計画を担う夫婦として、神様だけを見上げ信頼していかなければなりませんでした。ヨセフは神様に信頼を置いたのでマリアを信じ、二人の歩みを始めました。神様を見上げなければ妻に対する疑いはいつでも湧いてきたことでしょう。人は誰も完全ではありません。神様に対する信頼があって、それをベースに人間同士の信頼を築くことができるのです。あなたが地上での神様の計画を担いたいと思うなら、どんな事があっても、それが自分には理解、納得できなくても神様のなされる事を信頼して歩むことが大切です。

メッセージのポイント

イエス様の両親はその夫婦としての歩みの始めから、自分たちの理性では理解する事のできない神様の深い計画を担う夫婦として、神様だけを見上げ信頼していかなければなりませんでした。ヨセフは神様に信頼を置いたのでマリアを信じ、二人の歩みを始めました。神様を見上げなければ妻に対する疑いはいつでも湧いてきたことでしょう。人は誰も完全ではありません。神様に対する信頼があって、それをベースに人間同士の信頼を築くことができるのです。あなたが地上での神様の計画を担いたいと思うなら、どんな事があっても、それが自分には理解、納得できなくても神様のなされる事を信頼して歩むことが大切です。

From the beginning of their marriage, Jesus' parents had to look up to God and trust in him alone as bearers of of God's deep plan that they themselves could not understand with their reason. Because he trusted in God, Joseph believed Mary and they began their walk. If he did not look up to God, his doubt towards his wife would have always returned. No human being is perfect. But because we trust in God, we can build our relationships with other based on that trust. If you want to be a bearer of God's plan on this earth, it is important to keep on trusting in God no matter what happens or how incomprehensible or dissatisfying your situation may be.

話合いのためのヒント

1) ヨセフが解消しようとした結婚を思い直してマリアを迎えたのはなぜですか?

Why did Joseph change his mind about divorcing Mary and, instead, received her?

2) あなたがマリアあるいはヨセフの立場におかれたらどんな態度をとると思いますか?

What do you thing that you would do if you were in Mary or Joseph's position?