*2004年4月11日メッセージノート*

「復活を信じる信仰」 Faith in the Resurrection ヨハネによる福音書20:1-10,19-23

クリスマスはずっと後の時代に祝われるようになったわけですから、弟子たちはクリスマスの喜びを知りません。今ではクリスマスの華やかさにイースターはかすんでしまいがちですが、彼らにとって生涯最高の喜びの日がこのイースターであったのです。想像してみて下さい、弟子たちがイエス様と共有した時間はたった3年ほどだったのです。誰よりも信頼でき、ずっといっしょにいたいと思い従っていった方が、逃れるチャンスはいくらでもあったにもかかわらず、何の罪もないのに処刑されてしまいました。それも当時最悪の犯罪者にのみ適用される十字架刑で。あの金曜から日曜日の朝にかけての弟子達の精神状態は、それぞれの生涯で最もつらい時でした。だからこそ、イースターの喜び、復活された主に会った喜びは言いようのないものでした。主とともにいられないという絶望の体験と、主は決して私から離れないという喜びを知った3日間で弟子たちは力ある信仰を=復活の信仰を得たのです。 あの絶望に比べれば、主に従うことで身に降りかかる、迫害も、貧困も、そして殉教することすら、受け入れ易いものでしたし、そんなことでは決して奪い去ることの出来ない喜びを手に入れたのです。それではヨハネによる福音書20章、始めに1節から10節までを読んでみます。

週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」 そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。 二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。 身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。 続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。 イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。 それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。 イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。 それから、この弟子たちは家に帰って行った。


この箇所で私達は様々なことを考えさせられます。最初に復活の事実に直面したのは、当時地位がとても低かった女性の中でも特にさげすまれていたようなマグダラのマリアだったこと、その報告を受け入れ墓にいってみたのはペトロとヨハネだけだったこと、同時に走り出したけれどヨハネがずっと早く着いたこと。早く着いたにもかかわらず、ヨハネは怖くて入れず、ペトロが先に墓に入ったこと、などです。しかし今日特に注目したいのは8節から10節までです。ここに彼らは、聖書の言葉を理解していなかったので、からの墓を見て、信じたとあります。私たちは弟子たちのようにからの墓を見ることはできません。肉体を持った復活の主に会うこともできません。ですから私たちこそ、聖書の言葉を理解することによって信じるしかないのです。それは実際に福音書に書かれている復活についての記事だけではなく、旧約聖書にすでに預言されていた言葉についても心に留めるなら私たちの復活の信仰はより確かなものになるでしょう。

A 復活の預言 Prophesies concerning the Resurrection

1)詩編(16:8-11、使徒言行録2:25-36)Psalm

使徒言行録の2章でペトロは詩編16編を引用してイエス様の復活がダビデの口を通して預言されていたことを明らかにしています。今朝は使徒言行録のほうを開いて確認してみましょう。

ダビデは、イエスについてこう言っています。『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。 だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう。 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない。 あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たしてくださる。』 兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」


ここで堂々と語っているのが、十字架の時には恐れて主を否定したペトロだということは、主のよみがえりが彼にものすごい力を与えたということです。

イエス様の実際に復活を目の当たりにしたのはその時代に生きていた弟子たちだけでしたが、私達はこの証言を信じて主を宣べ伝えてきたのです。迫害を乗り越えた教会はこの時代だけに存在するのではありません。復活は今でも信じる者に、他からは決して得ることの出来ない力を与えてくれます。

2)ホセアの復活預言(ホセア6:1-3)Hosea 's prophecy of the Resurrection (Hosea 6:1-3)

次に開いてみたいのがホセア書です。ホセアという預言者はイスラエルの民に対して非常に厳しい裁きの預言をした人です。

「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、いやし我々を打たれたが、傷を包んでくださる。 二日の後、主は我々を生かし三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ降り注ぐ雨のように大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」


この部分には慰めと希望があります。あの三日目に起きた出来事を通して、人は初めて神様の前に子として立つことができるのだと預言されています。

3)イエス様ご自身の預言(マタイ20:17-19)Jesus' prophecy (Matthew 20:17-19)

さてよみがえりについてのイエス様ご自身の言葉も聴いておきましょう。マタイによる福音書の20章17-19節です。

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」

イエス様は旧約聖書を誰よりもよく読まれ理解しておられました。そして先の詩編や預言がご自身において実現することを知っておられたのです。復活は、後から弟子たちが適当に考え出した作り話ではないのです。誰も自分の作り話に命を賭ける人はいません。彼らはその後命がけで宣教しました。作り話ではなかったからです。

B復活の力 The power of the Resurrection

1)死に対する勝利(1コリント15:50-58) Victory against death (1 Corinthians 15:50-58)

コリントの信徒への第一の手紙15章を開きましょう。お読みします。

兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。 この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

主の十字架から2000年近くが経った今でも、クリスチャンはこの復活の力でこそ強くあるべきです。私たちの力、金の力でも、知識の力でも、武力でもなく。キリスト教国を自称する国でさえ、これらのものに頼って過ちを犯しているのですから、神様を信じないこの国が頼りにならないものを頼りに進んでいることは何の不思議もありません。けれどもこの国でもイエス様を信仰する自由は与えられています。私達は少なくとも自分のことについては何の力で歩んでいるのか知っておかなければなりません。でなければ実質の伴わない名前だけのクリスチャンとなってしまいます。復活の力はわたしたちが生きる力です。わたしたちが生きるということは、この世に私達を通して神様の力が働くということです。大げさにいえば世界から死の力に支配された悪を追い出してしまうために、世界を神様にあって復活させるために私達はここにいます。この戦いは私たちの肉が滅びてからもまだまだ続くと考えたほうがいいでしょう。だから私たちにはこの力の信仰を次の世代にバトンタッチする責任があるのです。

2)地上の命の終わりを恐れない(マタイ10:28)

Having no fear of the end of one's life in this world (Matthew 10:28)

イエス様が死に勝利されたということはキリストの体に連なる私たちも既に死に打ち勝っているということです。だからイエス様は、「体は殺しても魂を殺すことの出来ない者を恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことの出来る方を恐れなさい」(マタイ10:28)とおっしゃいました。

死に対する恐れはいろいろな形でやってきます。この世に存在しなくなるというのはどういうことなのか分からない不安。痛みや苦しみ、愛する者との別れの悲しみ、この後どうなるのかと言う不安。やり残してしまったことについての後悔、うらみやねたみ、憤り。これらのことが複雑に絡み合って、大きな黒い雲のように自分の死を意識した者に覆いかぶさります。ご存知のように私は先月叔母を亡くしましたが、彼女の最後は平安に満ちたものでした。恐れや後悔がイエス様によって取り除かれたからです。

3)インマヌエル-恐れるものは何もない、本当の安心(19-23)

Immanuel: there is nothing to fear, only true peace

最後に19節から-23節を見てゆきましょう。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 ここに記されていることは、クリスチャンなら誰でも自分のこととして置き換えることのできる神様の大きな恵みです。聖書の約束をまだ理解していない弟子たちは、まだ恐れに支配されていました。私たちも様々な恐れに取り囲まれていることがあります。恐ろしくて心の扉を堅く閉ざしているようなときでもイエス様はその場に来てくださるのです。弟子たちは復活したイエス様を見て信じ、喜びました。イエス様がいつも一緒にいてくださるということが理屈ではなく、もう決して消えることのない事実としてクリスチャンのDNAに焼きこまれる瞬間です。この喜びと平安のDNAをクリスチャンは2000年受け継いできました。あなたが「イエス様、私はあなたに生涯従って行きます。私の主となって導いてください」と決心するならあなたにも同じことが起こります。

メッセージのポイント

復活は十字架とともに私たちの信仰(神様に対する信頼)の根拠です。十字架の事実は私たちの無罪を確定し、復活は私たちが現実を生きる力を与えてくれます。復活したイエス様を信じている者はもはや死を恐れる必要がありません。この世で赦されて人生をやり直せるというだけではなく、死んでも生きる、肉体の死を超えて生きることのできる特権を与えられているのです。

The Resurrection, along with the Cross, is the basis of our faith (trust in God). The Cross establishes our freedom from guilt and the Resurrection gives us the strength to live through the realities of our lives. One who believes in the resurrected Jesus no longer needs to fear death. This not only means that one is forgiven and can therefore start over with life in this world, but that one is also given the privilege to transcend physical death and live on.

ミニチャーチのためのヒント

1)復活の前と後では弟子たちにどんな変化が見られたでしょうか?

How did the Resurrection change the disciples?

2)イースターって何?という友達に質問にあなたはどう答えますか?

How would you answer if a friend asks you, "What's Easter?"