2004/6/13 メッセージノート

「仕える者になりなさい」マタイによる福音書20:17-28

A. イエス様が教えてくださる「目指すべき自分」

1) 昔も今も変わらない、人の「幸福観」(20-24)

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」 イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。(24)

皆さんは親からもっと勉強しなさいと言われたことがありますか?私が小学生だった頃のことですが、友達と遊んでいると彼のお母さんがやってきて「もう帰って勉強しなさい」と彼に言ったのです。彼はもっと遊んでいたかったので母親に言い返しました「何で勉強しなくちゃいけないの?」「勉強しないといい中学に入れないのよ」「何でいい中学に入らなくちゃいけないの」「いい中学に入らなくちゃいい高校に入れないのよ」 そして大学、会社と同じ問答は続きました「いい会社に入ればたくさん給料がもらえて一生安心だよ」「じゃいい会社に入ればもう勉強しなくていいんだね」「いいえ会社に入ってもやっぱり遊んでいないで仕事っていう勉強するのよ」「エーどうして?」「しないと、おとうさんみたいになっちゃうからよ」「ウンわかった勉強する」

最近は変わってきたようですが、この国の仕事の環境としては一度安定した企業に入ってしまえばよほどのことがない限り、定年まで勤めることができ、少なくとも経済的には安定した生涯を送ることができました。一方で女性は結婚したら家庭に入る、と言うのが支配的な考え方でした。そして母となれば子供の出世を願うのは、なにやら時代を超えて世界共通のようです。競争に勝ち抜いて人の上に立つこと、仕えるより仕えられる立場に立つことが自分にとっても家族にとっても「しあわせ」だと考えられてきたわけです。イエス様の左右に席を得るということは、神の国のナンバー2、ナンバー3となるということです。「イエス様の革命が成功した暁には、副大統領、首相になるんだ。」 他の10人も彼らとあまり変わらない願いを持っていました。だからこのことに大変腹を立てたのです。

イエス様は二人が実際に初代教会のリーダーの一人として働くこと、しかもそのために殉教することを知っていました。私の杯と言われて彼らは、将来自分たちが得られる特権や地位を想像しましたが、イエス様は「これから受けるであろう迫害での苦しみ」を杯と言ったのです。もし彼らがこのことを理解していたら、彼らは恐れ、決してこのようには願わなかったはずです。

2) イエス様の「幸福観」(25-27)

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。(25-27)

イエス様の神の国は地上の国家ではありません。人々の心を正しく治める、目に見える国境を超越した「神様による支配」です。イエス様の十字架と復活から始まり、今でも「人々の魂」を罪から解放し、拡がり続けています。そして神の国(神様による支配)は、目に見える世界の権力の形とはまったく違う形を取ります。「偉くなりたい、一番上になりたい」と言う誰もが持っている気持ちを、今までとは違う方法で表さなければ「幸福」にはなれませんよ。」とイエス様は言われます。「仕える者になりなさい、僕になりなさい」この言葉を弟子たちはどのように受け止めたかは書かれてはいませんが。今までの幸せのアプローチとは正反対の勧めであり、大変衝撃的な提案だったのです。

公務員を「公僕」と表現します。実体はともかくここには聖書的な考えがあります。また牧師は「私が仕えている教会」と言った表現をします。

 「私はこのことを自分の利益のためにではなく人々のために行う」 この一見自分にとっては損失であるような僕、仕える者としての行き方が、実は神様の意志にかなった、人にとって社会にとって、世界にとって一番幸せな歩みです。この原理にたって歩める人が増えれば増えるほど、世界は喜びと平和に近づいてゆきます。この生き方が人を醜い罪の性質から引き離すためです。人の心を罪が支配している状態では、「偉くなりたい、一番上になりたい」という願いは手段を選びません。「どんなことをしても」手に入れたいと思ってしまえば、人が泣こうが、傷付こうが、命を落とそうが知ったことではない、ここに罪の恐ろしさがあります。最近大手の自動車会社が人命に関わる車の欠陥を隠して大きな問題となっています。欠陥を公表することは信用を失い、経済的な損失を生み、関わった全ての人に何らかの責任が生じるので、社内の誰も責任を取りたくはなかったのです。特に経営責任者たちまでもそうだったというのはまったく不思議ではありません。「このことが公になればせっかく苦労して得た自分たちの地位を失うかもしれない、何もなかったことにしておこう」でも人の命を奪う事故はおきてしまいました。隠さずにリコールをしているよりもはるかに大きなダメージを今この会社のみならず社会が受けたのです。今までこの大きな会社で働くことに誇りと幸せを感じていた多くの従業員やその家族の心を痛めました。

次にこの価値観をしっかりと身に付けることについてお話します。

B. 身についてしまっている罪の性質と戦おう

私たちの無意識に出てしまう言葉や行動が、罪の性質によるものだと気付いてがっかりしてしまうことがあります。クリスチャンになったのに自分はまだ罪に支配されている、と自己嫌悪に陥ります。でもそう気付いているならあなたの心は健康です。危険なのは、これに慣れてしまっていつの間にか罪を罪と感じなくなってしまうことです。サタンはチャンスがあればいつでも私たちの心を主から引き離そうと狙っています。あなたの心から罪に対する感覚が無くなるなら、サタンはもう一度あなたの心を主から取り返すことができるのです。

1) 仕える者・僕として行動してみよう

私たちは時々自分のプライオリティーをチェックしてみることが必要です。いつの間にか、イエス様から頂いた「幸福観」ではなく、ただ自分の欲望を満たすためだけの動機があなたのプライオリティーを支配していることがあります。自分の時間、労力、お金の使い方が「仕える者」として相応しいかどうかを考え、今まで出来なかった事を始めたり、してきたことを思い切ってやめたりする必要があるかもしれません。アメリカ西海岸のある教会で70年代に実際に起こったことです。その教会では礼拝堂に美しいカーペットを敷き詰められていました。その頃その教会の周りではヒッピーと呼ばれた、当時の社会からはみ出してしまった若い人々が、たくさん救われ始め教会にも来るようになっていたのです。彼らはありのままの姿で神の前に来なさいという勧めに従って教会にも自分たちのファッションスタイルのままでやってきました。破れたジーンズ、汚いTシャツ、長髪。でも教会に前からいた人たちが一番耐えられなかったのは、汚れたビーチサンダルや裸足でカーペットが汚れることでした。教会の役員会は牧師に「裸足やゴムぞうりでの入場を禁止しよう」と進言したのです。この牧師はどう答えたと思いますか?彼は「カーペットのせいで、彼らが仲間を誘って教会に来にくくするくらいなら、カーペットを捨ててしまおう」といったのです。

私もその場にいたらそう言ったとおもいます。皆さん、時々自分の教会の名前の意味を思い起こしてください。シンプルでユニークでいっぺんで覚えてもらえる、ということにも注意を払いましたが一番大切なのは、その名が表す教会の性質です。私たちが神様に対しても、誰に対しても「あなたの教会ですよ」と言えるように名付けられたのです。私の喜び、私の満足が第一なのではなく「あなた」の喜び、満足がこの教会のプライオリティーです。厳密に言うなら教会は牧師のものでもメンバーのものでもありません。牧師もメンバーもキリストの体である教会そのものです。で、誰のもの、誰のために存在するかといえば、神様のために、あなたのためにであって、決して私の満足のためではないのです。

2) 祈りの重要性

「これは私に与えられた主の働きだ」と確信して始めたことでも、いつの間にかその目的がずれてしまって、おかしくなってしまうことは誰にでもどんな組織にも教会にもあることです。けれど私たちには早くそれに気付き軌道修正する手段を持っています。それが祈りです。時々思いついたように祈ることでも、全然祈らないよりはいいですが、もっといいのは定期的に祈る習慣を持つことです。定期健診を怠っていたことによって、重い病気の進行に気付かず手遅れになってしまうことがあるように、定期的に祈り続けることを怠るなら、魂の病も手遅れになってしまいます。

3) ミニチャーチで支え合おう

どんなに一人で注意深く考えたり、祈ったりしてみても気がつかないこともあります。ここにミニチャーチの大切な存在の理由の一つがあります。ミニチャーチは共に喜び、涙し、祈り、話し、歌い、食べることの出来る安全で楽しいところです。互いに対する愛に基づいて忠告しあうこともできるので、一人一人が神様の意志に従って正しく歩むために必要なものなのです。私達は皆キリストの体の一部として組み合わされています。それは効率よく働くためではなく、互いを神様からいただいた愛で支えあうためでもあるのです。

4) お手本はイエス様

イエスはエルサレムへ上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて言われた。 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、 異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(17-19)

人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(28)

イエス様が私たちに命じられることは全て、自分はしないけれどもあなたはしなさい、というような上からの突き放した命令ではなく、全て自分の生き方として示されたことです。私たちはこのモデルを見上げつつ、罪を遠ざけ正しく歩むことができるのです。

メッセージのポイント

イエス様は、ご自身を私たちの生き方のモデルとして表してくださいました。私たちを幸せにするのは、偉くなりたい、人の上に立ちたいという願望ではなく、むしろすべての人に仕える、すべての人の僕となるという生き方だと教えてくださったのです。しかもそれは天の高みからの命令ではなく、神様自らが、仕える者、僕としての姿で世に来られ、身をもって示されたのです。けれども、多くの人々はいまだに偉くなりたい、人の上に立ちたいという願望に支配され、この願望をエネルギーとして生きています。しかしそれは罪のエネルギーであって、破滅をもたらすことはあっても、幸せをもたらすことはありません。イエス様を主と信じ、彼と共に歩むことによって私たちはこの罪の性質から自由になり、主に似た姿に変えられてゆき、自分自身が幸せであるばかりか、幸せを与える者となることができるのです

話し合いのヒント

1) 偉くなりたい、人の上に立ちたいという気持ちは、その人の心にどのような影響を与えますか?

2) 仕える者、僕になるとはどういうことですか?