2004/7/11 メッセージ 

花を咲かせ実を結ぼう  マタイによる福音書21:18-22

朝早く、都に帰る途中、イエスは空腹を覚えられた。 道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、いちじくの木はたちまち枯れてしまった。 弟子たちはこれを見て驚き、「なぜ、たちまち枯れてしまったのですか」と言った。 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」

A. 実を結ぶことの重要さを教えるためのたとえ

1)イエス様は超能力者ではなく神

なぜこのような奇蹟をイエス様はなさったのだろうか?と多くの人が疑問に思う箇所です。お腹がすいていたのに実がないからといって(しかも実のつかない季節に)こんな事をなさるなんて、誰かさんとあんまり変わらないじゃない、と思っていませんか?実際イエス様の奇跡のうちで木を枯らすという破壊的な結果をもたらす事をなさったのはこのときだけです。イエス様が地上でなさったこと言われたことはすべて福音書に記されているわけではありません。もし私が福音書の記者だったとしたら、この部分は絶対カットしていたと思います。そうすればイエス様の名誉のためにこんな弁解をしなくていいわけですから。それは冗談ですが、マタイとマルコはなぜそうしなかったのでしょう?それは彼らが聖霊の導きによりイエス様の意図を正しく理解していたか、あるいは理解できなくても記すべきだと教えられたからです。聖書には今日の箇所のように一見不可解なこと、理解に苦しむことが含まれています。かえって、そのことが聖書の著者が自分たちの都合でなく神様に導かれて書いたということを証明しています。

 私たちがイエス様の言動を福音書を通して見るとき、気をつけなければならない点はイエス様が「真の神であり、真の人である」ということです。もちろんこのことは理屈で理解できることではありません。だからこそ私たちに求められているのはイエス様を100%理解することではなく、100%信頼することなのです。イエス様がただ特殊な能力を持った人間であるならば、その人間に特殊な力があるからといっていたずらに木を枯らすことは責められるべき事ですが、彼はすべてのものの主である神様です。そうであれば私たちはすべてのものの生死をコントロールしている神様のなさることにどうして異議を申し立てることができるでしょうか?聖書全体から見れば、イエス様が持っている力をいたずらに使う方ではないことは明らかです。

2)結ぶべき実を結ばない不幸

このことが起こったのは、マルコによる福音書(11:12-14,20-26)と合わせて読んでみると、先週取り上げた宮の境内での出来事が起こった朝です。マルコによれば実際に枯れているのが分かったのは次の日のようです。大切なのは、イエス様がその生涯最後のエルサレム訪問で、まず神殿から商人を追い出した、イチジクを枯らせたという行動を通して、次にいくつかのたとえを通して、イスラエルに対する最終的な警告をなさったということです。ここで実のないイチジクとは、直接にはイスラエル民族を指しています。彼らは、神様に愛され導かれていながら、神様に背き、その結果よい実を結ぶことが出来ませんでした。しかし警告されているのはイスラエルの民だけではありません。その人が、どのような人種であれどの国の国籍であれ、またどんな時代に生きているとしてもイエス・キリストを通して神様の下に立ち返らなければ誰もよい実を結ぶことは出来ません。みなさんはイエス様が御自分を葡萄の木にたとえてお話された事を憶えていますか?ヨハネによる福音書の15章1節から10節を開いてみましょう。ここではいちじくではなく葡萄の木に変わっていますが、同じ内容を私たちに対する語りかけとして教えてくれます

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。

B. 実を結ぶための処方箋

イエス様は、イスラエルが本当に神様に立ち返らなければ民族として実を結べないと再三警告しました。歴史はそのことを証明しています。やがて民は領土を失い、それはごく最近まで続いたのです。今でも領土はあっても、周辺の諸国、民族との対立で大変不安定な情勢です。何度も繰り返しますが、ユダヤ人が特別罪深いのではありません。何人であっても、(単にキリスト教国であるとか、一応クリスチャンである、といったことではなく)本当の意味で神様に立ち返らない限り、どこの国、地域にも、どんな人の心にも平和は訪れません。私は洗礼を受けました、クリスチャンになりました。ということだけで満足しないでください。それは単に天国行きの切符を手に入れたに過ぎません。しかし神様はあなたが不毛な生活の末に天国に帰ってくることを願っているのではありません。地上での「花も実もある」歩みをも願っておられるのです。もちろん「花も実もある人生」とは「自分の欲望を満足させる人生」ではないという事をみなさんは良く御存知だと思います。人間の欲望はきりがないものです。これが花や実であるとすれば、それでは決して満足は得られないし、多少得られたとしても、いつかは失ったり、朽ちてしまうものだからです。神様があなたに与えようとしていられるのは「愛」という花と実です。パウロはコリントの信徒への手紙1,13章でのなかで、「あなた方に最高の道を教えましょう。それは愛です。信仰と希望と愛だけがいつまでも朽ちないもので、特にその中でも最も偉大なものは愛です」と教えています。今日の箇所でイエス様が「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」とおっしゃるのもこの意味であって、祈ればあなたの欲望を何でもかなえてあげようということではありません。そうではなくあなたが愛の花を咲かせ実を結ぶためにかなえてくださるということですから勘違いしないでくださいね。

1) 求める

あなたが良い実を結ぶためにするべきことは「神様に求めること」です。私は何をすべきでしょうか、あなたの教会にどのように仕えて言ったらよいのでしょうかという具体的な願いを持つことです。クリスチャンでもただ漫然と日々を過ごすのでは、よい実を結ぶことはできません。「私はよい実をみのらせたいのです。どうぞ自分のするべき事を具体的に教えてください」と願い求めてください。

2) 信じる

そして心に浮かんだアイデアをイエス様にいただいたものと信じて、踏み出してみてください。よく何もする前から、「御心」 かどうか確信がないからといって結局一歩も歩き始めない人がいますが、踏み出してみなければ、御心かどうかなんて分かりません。歩き出して失敗して御心ではなかったと気付くしかありません。でもあるときには、確信のもてないまま踏み出すことによって、次の展開を見通せる所まで導かれて、「ああこれは神様が導いてくださっている道なんだ」と知ることになります。イエス様は「信仰を持ち疑わないなら」と21節でおっしゃっています。

3) 祈る

そしてあなたが花を咲かせ実を結ぶために最後のヒントは、祈ること、祈り続けることです。祈りの力を実感している人はあまり多くないのですが、それはとても残念なことです。祈りに力がある事を知っている人は、人生の歩みに必要な最も大きな力を持っている人です。最近来てくださった方も多いので、初めて聞く方が多いと思いますから、過去に何回かお話しした例を聞いてください。もう5回くらい聞いたという人も、初めて聞くような顔をして聞いてくださるとうれしいです。で、それは私がなぜ牧師になったかということについてです。私は22歳になるまで神様なんて決して信じない、神様を信じるなんてどうかしている。と考えていた牧師どころかクリスチャンとは正反対の生き方をしていた者です。しかし不幸なことに、いいえ幸いなことにクリスチャンと出会ってしまったのです。しかもこの祈りの力を知っているクリスチャンでした。彼女は私が神様を信じるようになるなら私を神様の御用のためにお献げしますと7年間祈り続けました。もう誰だかお分かりですよね。とにかく、これではどう考えても他のものになれるわけはありません。私は私なりになりたいものがいろいろあったのです。でも、新聞記者で行き詰まり、音楽製作ディレクターで行き詰まり、やっと本来の道にいたることが出来ましたから今では感謝していますが、もしそのとき彼女の祈りを知っていたら、勝手に献げないでくれよな、と言ったと思います。でもそのときには結婚していませんでしたから、その祈りが、彼女自身できることならなりたくないなあと思っていた牧師夫人になることまでは計算に入っていなかったので、私が牧師になるといった時にはしまったと思ったそうですが、神様の約束はキャンセルできませんから、今私達はここにいるわけです。

どうか「祈りにはあなたの人生を変える力がある」ことを信じて祈り続けてください。

メッセージのポイント

この奇蹟によってイエス様は、人が罪から離れないでいるならよい実を結べないばかりか、その人に悲惨な結末をもたらす事を警告されました。これは私たち一人一人の人生に当てはまるだけではなく、家族、教会、国家にも同じことが言えます。この世界は依然として罪によってよい実を結べない状態が続いているように見えますが、私たちの将来は決して暗いものではありません。なぜならイエス様が、彼を信頼して疑わず求め続けるなら、「不可能なことは何もない」とここで約束してくださっているからです。

話し合いのヒント

1) 実のないイチジクは何のたとえだったのでしょうか?

2) 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られるのですか?