2004/7/18 メッセージ 

「権威」を正しく理解しよう マタイによる福音書21:23-27

イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(23) イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。(24) ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。 『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。」(25-26) そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(27)

「権威」というのは分かっているようで分からない言葉ですね。元の言葉はギリシャ語ですが、皆さんもきっと知っているエクソシストと同じ語源であるエクスーシアと言います。ですからエクソシストは悪霊を追い出す権威を神様に与えられた者という意味なのです。悪霊は神様の与えた権威でなければ追い出すことが出来ません。神様の権威が与えられているということは、現在使われているような「心臓移植の権威」とか「宇宙物理学の権威」といった単にその分野ですぐれた人と言う意味ではなく、神様から地上における神様の代理人として認められ力を発揮することが出来るということなのです。

ですから「権威」という言葉はクリスチャンとして力強く生きてゆくためにとても重要な言葉です。私たちの用いている日本語新共同訳の聖書には各章に題がつけられていて今日のところは「権威についての問答」となっていますが、ここに出てきてイエス様に議論を仕掛けている人々は、まじめにイエス様と議論をしようとしているのではなく、どのように答えてもイエス様を不利な状況に陥れるための問いだったのです。それでイエス様も、答えれば彼ら自身が不利になる質問で切り返されたわけです。でも今朝はせっかく私たちにとって大切な意味を持った言葉が出てきましたから、あなたにとって「神様からの権威」がどのような意味を持っているのか考えてみましょう。

A. 民衆は本当の権威者を知っていた

祭司長と呼ばれる宗教指導者たちの質問を言い換えれば「イエスよ、あなたは神様の意思を正しく伝える者か?」ということになりますが、イエス様はそれに対して「では私の前に来たバプテスマのヨハネは神様の意思を正しく伝える者だったかどうか」という同じような質問で返されました。それは「いったい私たちの宗教指導者は、あの王に殺されてしまった最後の預言者をどう考えているのか?」という民衆にとって興味深い質問だったので、民衆は祭司長たちがどう答えるのか注目していたので、困ってしまったわけです。誰でも権力を手に入れると勘違いして、神様のように振る舞おうとしてしまう傾向を持っています。つまり人間同士の関係の中で手にいれた権力にすぎないのに自分を神様に認められた権威者と思い上ってしまうのです。当時のユダヤの王も例外ではありませんでした。そして宗教指導者たちもその王の庇護の下で私服を肥やしていたので、真実を語るヨハネは彼らにとっても煙たい存在だったのです。しかし民衆は違いました。ヨハネこそ神様の意思を正しく伝えていると多くの人々が信じていました。そしてヨハネ自身は「私はイエス様登場の案内役に過ぎない」と言っていたのですから、この質問は単にヨハネの権威だけではなく、民衆が信じていたイエス様の権威をどう思っているのかということを答えることにもなる質問でした。つまり彼らがどう答えても「自分たちは信頼できない指導者です」と答えることになってしまう質問だったのです。民衆は祭司たちよりも教養のない、ほとんどは読み書きも出来ない人々でしたが、誰が本当の権威者なのかということ、権力と結びついていた当時のイスラエルの宗教指導者たちに神様の正しさで裁くことを期待することはできないことを直感していました。

 さてイエス様を信じるということは、当時の指導者たちのように自分こそが正しいとする生き方をやめ、イエス様の権威の下に身をおき、イエス様に従って歩む新しい生き方を始めるということでもあります。明日洗礼式をしますが、それは古い罪の自分にさよならをいい、古い自分は死に、新しい命をいただいて生きることの象徴です。それは単に天国に行ける保証以上の事を意味しています。それはあなたがイエス様を自分の主と信じ神様の権威の下に身を置くなら、その方の働きがこの社会の中で、あなたを通しても行われるということをも意味しているのです。

人は良いものであれ悪いものであれ互いに影響しあって生きています。そして良い影響を受ければ良い影響を与える者となれます。悪い影響を受ければ、悪い影響を与えるのです。悪い影響を受けながら人によい影響を与えることは出来ません。あなたは人を生かし幸せにするよい影響を与える人になりたいですか?それとも傷つけ、不幸にするような影響を与える人になりたいですか?

そこで私は皆さんに、自分を中心にして生きるのか?イエスキリストに従って歩むのか?自分の意志で選んでいただきたいのです。この選択肢は二つしかありません。1)自分中心に、自分を信じて生きる。 2)神様を信じ、イエス様を自分の主としてしたがって生きる そして3)その他 はないのです。

B. イエス様と同じように私たちも神様の権威の下にいる

1) 権威の根拠

神様が私たちに、イエス様に匹敵するほどの権威を与えて下さっていることがわかる箇所を開いてみましょう。マタイ18:18、 ルカ10章

2) 権威と力

神様はあなたに与えられている権威に相応しい力を発揮して生きることを期待しておられます。

このことはただトライアンドエラーで身につけてゆくしかありません。少しずつ時間、労力をかけ、与えられている良い影響を、周りの人の与えることを試してください。それは傷つけるとげのある言葉ではなく、癒し、慰め、力を与える言葉を伝えること。その人を自分のために利用することではなく、その人のために自分のベストを尽くすこと。自分の話を聞いてもらいたくて時をともに過ごすのではなく、その人の必要のためにかたわらにいてあげること。教会での人間関係の素晴らしいところは、互いのために自分に与えられている力をだれでも少しずつ発揮することから始められ、失敗を暖かく許されところです。わたしが「教会の中での関係を大切にし愛し合ってください」というのはこの中にとどまっていればいい、ということでは決してありません。教会は素晴らしいグリーンハウスであなたの愛を大きく健やかに育てるのに最適な環境ですが、それはやがて世の中に出荷されて、神様の愛を味わったことのない人にとどかなくては意味がありません。出荷されなければ、教会という最高の環境の中で静かに朽ち果てていくだけです。あなたは神様の働きのために本当に用いられたいですか?

それでは今すぐあなたがすぐに始められる事を教えましょう。それはもう少し大胆になってみるということです。1)神様をもっと大胆に愛するための第一歩は、わくわくするような大きな期待を持って神様を礼拝することです 2)人をもっと大胆に愛するための第一歩は、与えられたチャンスを逃さず、失敗を恐れずやってみることです。

メッセージのポイント

ある分野の権威者になら自分の努力でなることが出来ますが、イエス様が持っておられた罪の赦しや癒しをもたらす究極的な権威は唯一の神様に属するものです。しかし神様は、イエス様と同じようにイエス様を信じるものに、この権威を与えられました。私達はこの権威を自分の努力や金銭によって手に入れたのではありません。ただイエスキリストに従って歩んでいるので与えられているのです。そしてもっと大切なことはこの権威を日々の歩みにどう生かしてゆくかということです。

話し合いのヒント

1) 祭司長たちは何のためにこんな質問をしたのですか?

2) 神様はあなたにどんな権威を与えておられるのですか?