2004/8/22 メッセージ 

死後の世界が気になるあなたに マタイによる福音書22:23-33

牧師は信仰について、聖書について皆さんにいろいろな質問をされます。聖書の教師ですから、聖書の内容については何とかお答えするのですが、中には聖書が語っていない事について質問して私を困らせる人もいます。「天国にネコは入れるのですか?」とか「ゴキブリはいませんか?」「天国では老化は進まないのですか?もしかしたらもっと若い自分になれるとか?私には永遠の命より永遠の若さの方がうれしいんですけど」特に復活や天国について聖書は詳しく語っていないばかりか、いろいろな解釈の余地のある表現があって断言できない事が多いのです。それで正直に「分りません」と答えるのですが「あなたは聖書の教師でありながらそんな事も分らないのですか?」といった顔をされることもあるのですが、行ってみたこともないし、聖書に書いてないのですから答えようがありません。

聖書を丁寧に読んでゆくと、天国とか神の国といった表現は、単に死んでから行く所という意味ではないことが分かってきます。それは永遠の命という言葉が単に魂は滅びないということを指しているのではなく、神様との良い関係にある状態を示しているのと同じように、肉体がどのような状態であれ、神様の支配の下にあるなら、その人は既に神の国の住民なのです。しかし私たちが肉体を失った後のことについて聖書はあまり多くの情報を与えてはくれません。神様の御心を知るということは、神様の計画をすべて知るということではありません。むしろ知らなくていいことは知らないままでただ神様を信頼していればよいのです。

その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスに近寄って来て尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」(23-28)

イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(29-30)

死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(31-32)

群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。(33)


A)人は死んでも復活する

1)サドカイ派と呼ばれた人々

聖書全体は、人は死んでも終わりではないことを教えていますが、旧約聖書の中では復活ということについてふれているところはあまり多くありません。サドカイ派と呼ばれていた人々はファリサイ派と呼ばれるグループとともに当時のユダヤ教の二つの大きなグループのひとつで裕福な祭司階級の人々によって構成されていました。旧約聖書の中でもモーセ5書と呼ばれている最初の5書の部分だけを認めていたので、そこに書かれてない死者の復活などはありえないと主張していたのです。確かに、もし人が生きていた時と全く同じように復活するというのであれば、彼らの疑問は当然です。

2)復活:それは今と同じ姿に戻されるわけではない

イエス様は人の復活した時の姿は、今の体の概念にはあてはまらない全く異なった天使のような体であり、結婚という状態もないといわれました。

イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。(29-30)

3)詳細を詮索するべきではない

クリスチャンの中にも、死後の事についてやたらに興味を持っていてそんな事ばかり考える事に時間を費やしている人がいます。イエス様は明日の事でさえ思いわずらうなとおっしゃいました。死後の世界とは究極の明日です。それよりももっと今なすべきことがあるのではないでしょうか?

B)聖書と神の力を知る

イエス様は彼らの誤解の原因が二つのことについて認識が足りないことだと指摘されました。これは今日の私たちにとっても大切な警告です。

1) 神の力は私たちを新しい姿に作り変える

ひとつは神様の力を過小評価しているということです。 私たちはいくら努力をしても自分を根本的に変えることは出来ません。そこで私たちは復活といわれれば、新でもう一度、今の状態に戻るという風に考えてしまいます。それ以上のことは想像がつかないのです。しかしイエス様は、神様の力によって私たちに根本的な変化が起こることを期待しなさいといわれます。神様は私たちと異なり、空間の制約も、時間の制約も受けません。 私たちに与えられる新しい体も、今のように不自由なものではないようです。私たちは神の力により、どのような者になるのかは単に「天使のよう」としか書かれていませんから、想像するしかないのです。少なくとも神様を信頼して今までよりずっと素晴らしい存在として生き続けられるのだ、という確信を持てればよいのです。

2) 生きている者とは誰のことか?

イエス様は次に聖書を良く知ることをしないなら思い違いをしてしまうと警告なさいます。もしサドカイ派が主張するように、体の復活ということがないのなら、神様はモーセに対して「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とは言わなかったはずです。既に肉体はもはや存在しない死者であっても、よみがえるという約束によって、神様の彼らに対する契約は今も有効なのだからこそ、そうおっしゃったのです。

メッセージのポイント
ヨハネ11:25にイエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。とあるように神様によって生きるということは、息をしている、心臓が動いている、脳波が正常であるとは全く別の次元のことです。私たちは誰でもやがて肉体の死を迎えます。けれども、イエス様を主と受け入れ新しい人生を歩み始めた人にとっては、肉体の死の前も後も彼とともに生き続けるのです。これが信じる者に与えられる最高のプレゼント「永遠の命」です。そして永遠の命を得た者にとっては、「自分がいつ死ぬのか、どんな死に方をするのか、死んだらどうなるのか」といった心配は不要です。そして永遠も私たちにとっては一日一日の積み重ねなのですから、それよりも与えられている今という時を精一杯生きることが大切なのです。

神様によって生きるということは、息をしている、心臓が動いている、脳波が正常であるとは全く別の次元のことです。私たちは誰でもやがて肉体の死を迎えます。けれども、イエス様を主と受け入れ新しい人生を歩み始めた人にとっては、肉体の死の前も後も彼とともに生き続けるのです。これが信じる者に与えられる最高のプレゼント「永遠の命」です。そして永遠の命を得た者にとっては、「自分がいつ死ぬのか、どんな死に方をするのか、死んだらどうなるのか」といった心配は不要です。そして永遠も私たちにとっては一日一日の積み重ねなのですから、それよりも与えられている今という時を精一杯生きることが大切なのです。

話し合いのヒント

1) サドカイ派ってどんな人たちだったのですか?

2) イエス様が言われる「生きている者」とはどのような人を指していますか?