2004/9/19メッセージ 

私たちの中のパリサイ人 マタイによる福音書23

A) 律法学者・パリサイ人たちの問題点

1)言葉と行いが一致していない(1-3)

日本では「親の背中を見て子は育つ」と言われています。どこの国にも同じような格言があります。子供はあなたが言う通りに育つのではなく、する通りに育つのです。それにしてもイエス様は誰も恐れずはっきりとおっしゃいます。イエス様に見習いなさいといっても、イエス様のような人格がともなっていないなら、こんな強烈な皮肉を言えば誰も口をきいてもらえなくなってしまいます。でも彼らの言動はイエス様のおっしゃる通りでした。立派な事を言うのは簡単ですが、行うことは簡単ではありません。行いが言葉とかけ離れてしまわないよう自戒していないと、私たちもイエス様に同じように言われてしまいます。

それから、イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。(1-3)

2)自分がしない事を人にさせる(4)

ここで重い荷物とは律法の細かい規定のことです。普通の人々には守ることのできないような規定を定め、罪悪感・劣等感をその人の心に植え付けるだけで、本当に必要な助けを与えようとしないイスラエル社会の指導者にイエス様は強い憤りをおぼえられました。自分には優しく、人には厳しいというスケールは、強いもの、地位の高い者には優しく、弱いもの地位の低い者に厳しいスケールでもあります。そして私たちが主として従うイエス様は、これとは正反対のスケールを用いられました

彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。(4)

3)人に見せるための行い(5)

皆さんはファッションの流行には人と同じでは満足できない人と、人と同じようでなければ安心できないという人の両方の人が必要だということをご存知ですか?女子中高のあいだでけっこう長いブームだったのが白いルーズソックスです。しかし最初から、あのゾウの足のようなものではありませんでした。最初は普通のソックスをすこしルーズな状態ではく、という流行だったのです。一度、何かがはやり始めると、流行を追いたくないという人以外はその流行をとり入れます。そうするともっと前からやっていた人は最初みんながマネをしてうれしいと思うのですが、やがて皆と同じでは満足できないので人よりももっとルーズさをもとめてゾウさんの足になってしまいました。男の子がパンツを下げてはくことやスカートの長さ、ヘアスタイルみな同じ法則で説明できます。イエス様は外面に気を使うなといっているのではありません。しかしそれは神様の愛を人に伝えること以上に大切になってはいけないということです。

そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。(5)

4)虚栄心が強い(6-12)

先々週ボストンに行ったのですが乗り換えのニューアークでちょっと連絡が悪くて、あわててボストン行きの便に乗ろうとしました。やっと間に合って最短距離のレーンを入ってチケットを渡したら、もう一つのレーンから入ってください、といわれました。そのレーンはあなたは通ってはいけないというのです。良くみるとそこにはエリートアクセスと書かれたカーペットが敷いてあります。そのレーンはビジネスクラス以上の専用通路だったわけです。もちろん私のチケットはエコノミー。仕方なくやり直しをしましたが、そのときちょうどカーペットの上ですれ違った立派な紳士のうれしそうな顔にはちょっとムカッときました。人間の虚栄心は商売のためには必要かもしれませんが、神様に従うためには邪魔なものです。

宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、 また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。 だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。 また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。 『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。 あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(6-12)

5)神様の意思をまげて伝える(13-24)

虚栄心や人の目を気にする、といったことは、ほほえましかったり、ばかばかしいくらいのことで済むのですが、これから先のことはもっと深刻です。神様の教えを自分たちに都合よく解釈し、間違ったことを神様の意思として伝えていたのです。イエス様は彼らを「ものの見えない案内人」と表現されました。15節と16節を読んでみましょう

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だからあなたたちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪い地獄の子にしてしまうからだ。 ものの見えない案内人、あなたたちは不幸だ。あなたたちは、『神殿にかけて誓えば、その誓いは無効である。だが、神殿の黄金にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 愚かで、ものの見えない者たち、黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。 また、『祭壇にかけて誓えば、その誓いは無効である。その上の供え物にかけて誓えば、それは果たさねばならない』と言う。 ものの見えない者たち、供え物と、供え物を清くする祭壇と、どちらが尊いか。 祭壇にかけて誓う者は、祭壇とその上のすべてのものにかけて誓うのだ。 神殿にかけて誓う者は、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓うのだ。 天にかけて誓う者は、神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓うのだ。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。(13-24)

6)外側と内側が異なる(25-28)

イエス様は当時の社会の中で尊敬を受ける地位にあった彼らの内面の醜さを良く御存知でした。27節と28節を読んでみます。 どんなに外側を美しく装ってみても中が腐っていては意味がありません。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。(25-28)

7)神様の呼びかけに応じない(29-39)

これは彼らの最も深刻な問題点でした。彼らは民のリーダーたちだったのです。民を正しく導くという大きな責任がありました。それなのに彼らはあらゆる時代を通して、預言者を通して語られた呼びかけを無視し預言者を迫害してきました。律法学者ファリサイ派の人たちは、もし自分が過去に生きていればその時代の預言者を迫害したりはしなかったと威張っていましたが、結局の所、彼らもイエス様を十字架につけ、初代教会の指導者たちをも迫害し殺してしまうことになります。

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。 先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。 蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか。 だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(29-39)

B)実は私たちも同じ性質を持っている 
  
(ローマの信徒への手紙 3:21-26 / コリントの信徒への第二の手紙 3:17-18)

1)誰もが持っている罪の性質

これからメッセージの後半です。今までイエス様が示された律法学者・パリサイ人の問題をとりあげてきましたが、皆さんはこれを聞いてどう感じたでしょうか?自分には関係ない、彼らはひどい人たちだな、と思いましたか?それとも、自分も同じような問題を持っている、どうしたらいいんだろう?と思いましたか?

実は私たちもまた彼らと同じ性質を持っているのです。そう思えるのが普通の感覚です。ローマの信徒への手紙3章21-23を読んでみます。

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています

この通り、イエス様が言われたことはすべての人の持つ罪の性質から来ています。この問題にどう立ち向かうことができるのでしょうか?歴史を通して人々は宗教・哲学・心理学などで解決を求め続けて来ましたが、解決を与えてくれるものは何もありませんでした。

2)赦される以外に解決はない

23-26節を読みます。

ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

イエス様を信じること、クリスチャンとして生きるすばらしさはここにあります。問題の解決は努力や才能によるのではありません。あなたもイエス様を自分の救い主と信じ、罪から解放された新しい人生を始めませんか?

3)聖められてゆく日々の歩み

2コリント3:17-18を読みます。

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

この私たちに共通する罪の性質が自分の内にあることを嘆く必要はありません。今の自分の状態がどんなであっても、あなたがイエス様を主と信じ従って行くなら、主が少しづつ変えて下さるからです。どうかあまりその遅いことを悲観しないで下さい。そう感じなくてよい人ほど自分を責めてしまい、必要な人は全然感じてくれない傾向があります。これはちょとイエス様レベルの皮肉でした。

メッセージのポイント

イエス様は律法学者・パリサイ人を激しく非難されましたが、実は彼らの問題は私たちの問題でもあるのです。そしてこの問題は人が自分で解決できるものではないのです。そこで神様ご自身で解決の道をそなえて下さいました。それが十字架です。イエス・キリストの十字架のあがないこそあなたを罪から解放するたった一つの道なのです。

話し合いのヒント

1)あなたにも思いあたる問題点はどれですか?

2)イエス様を信じてから、その問題はどう変えられてゆきましたか?