2005年4月17日 

“霊”に従う新しい生き方 ローマの信徒への手紙7:1-6 シリーズ(14)

A.私たちの信仰が「律法主義」に陥る時

1) 律法主義とは

ここ数週間に渡ってイエス様に従うということを、「律法主義」と比べながら学んでいますが、「律法主義」は普段使わない言葉ですから、初めて聴かれた方のために、ここからお話ししましょう。もう何度も聞いて分かっているという人もどうぞ復習のつもりで聞いてください。

イエス様と弟子たちが生きた時代のイスラエル社会では「律法」は誰でも知っているものでした。今で言えば「法律」のようなものです。モーセの十戒を知っている方は多いかと思いますが、十戒はこの律法の中の「憲法」にあたる部分です。現代社会の法律と決定的に違う所は、現代の法が人間同士の契約であるのに対し、律法は神様との契約であり、神人関係を基盤として定められているという点です。

イエス様が、そしてパウロが一貫して言っていることは「決して律法自体が問題なのではなく、それをどう受け取るかが問題なのだ」ということです。イエス様が、避けなさいといわれた律法主義とは、律法を形式的に守ることを強調し、それが出来るかどうかで人の価値を測ろうとする考え方でした。

2) 律法主義は教会にも忍び込む

さて、この律法主義は、どんな時代のどんな社会にも形を変えて入り込むことが出来ます。たとえば大変規則が厳しい学校があります。ここでは規則が守れる子がいい子です。子供たちは互いに監視しあっていて、違反を見つけると先生に報告します。そうすると自分のポイントが増え、違反した子にはマイナス点がつくのです。しかもクラスを少人数に分けグループごとに競争させたりします。悪気はなくても、うっかり規則を破ってしまう子がいるグループは、そのこのために不利になるのでその子を責めるのです。この国では学校にいけなくなってしまう子供がたくさんいますが、そのようなこともきっかけのひとつになっているのです。

神様の戒めを人の行動の規範として守ろうとするなら、細則を決めなければ種々の状況に対応できなくなります。ユダヤ教にもそのような細則集がありました。律法を忠実に守ろうとするために採用された細則は、その運用の仕方によっては、一番根本である十戒の教えに矛盾する行動を正当化するものになってしまいました。

 一例を紹介しましょう。マルコによる福音書の7章1-15です。ここにイエス様が律法主義を厳しく批判する典型的な例が見られます。

ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。 そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」 イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」 更に、イエスは言われた。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。 それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。 こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」

イエス様は見事に律法主義の問題点を明らかにしています。律法を守っているようで実は神様の教えより人間の言い伝えを重んじてしまう状態が起こることは、既に預言者イザヤも預言していたことでした。イエス様の最後の一言は罪の性質をよく言い表しています。私たちの罪の性質は決して何かの、誰かのせいにすることは出来ません。なぜならそれは私たち一人一人の内面から出てくるものだからです。そしてどんなに細かいルールも人の内面までは裁くことが出来ません。ここに律法主義の矛盾が出てきます。心がどんなでも表面を取り繕えば、それが正しいということになってしまいます。

 律法主義は、それをイエス様の十字架の愛で克服したはずの教会の中にも忍び込んでくるのです。人が集まるところではルールが必要です。教会だって例外ではありません。しかしそれを守ること自体が信仰ではないのです。信仰の本質は「イエス様を主と認め、イエス様と共に歩むこと」です。ルールは信仰を守るために用いられる道具に過ぎません。「クリスチャンは酒を飲んではいけない、タバコを吸ってはいけない」 と教える教会は結構多いです。酒を飲む人は、それをやめなければクリスチャンにはなれないのでしょうか?造り酒屋に生まれた人は家族の職業を否定しなければ、天国にはいけないのでしょうか?決してそんなことはありません。イエス様は聖餐式にグレープジュースを用いなさいとはおっしゃいませんでした。ユアチャーチの集まりではアルコールは出ません。聖餐式はグレープジュースを用います。教会の建物の中ではタバコも遠慮してもらっています。しかし、それは単にアルコール依存症の人を配慮するため、受動喫煙を防ぐためという保健上の理由によるルールです。「教会では、部屋の中でタバコを吸ってはいけない、酒を飲んではいけない」というローカルルールなら律法主義にはなりません。しかし「クリスチャンは」という時このルールは律法主義に道を開くのです。ある女性がクリスチャンになった時、仏壇に物を捧げてはいけない、と教会で言われました。それは夫と義理の両親と暮らす彼女に課せられた日課でした。彼女はそれをしないと宣言し、家を出されてしまいました。彼女は信仰の英雄ですか?いいえ彼女は律法主義の犠牲者です。彼女だけでなく、その夫も義理の両親もそうです。教会の中に入り込んだ律法主義によってイエス様に向かう道を閉ざされてしまいました。偶像礼拝の問題は第一に心の問題です。形も守れるに越したことはありませんが、自分の意志ではなく、仕方なくたとえば主人の偶像礼拝に同席したり、頭を下げたりすることは旧約聖書でも認められています。「クリスチャンはこうすべき」という前には私たちは確かにそれをイエス様が命じられたことかどうかを確かめてみる必要があります。そうでないと、心では喜んでイエス様に従っている人を、その外側だけを見て追い払ってしまうことになります。

B.霊に従う新しい生き方

1) 私たちは神の法の下にある

ここまで見てきたように、私達は油断しているとついイエス様の教えの本質からそれてしまう傾向を持っているので注意しましょう。という話をしてきました。ここからは、律法主義にならないようにという否定的な話しではなく、それではどう歩むかという積極的な話しをしていきたいと思います。

それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか。 結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。 従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。 ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。(1-4)

イエス様があなたのために十字架にかかってくださったということは、神様はもうあなたを律法に従ってあなたを罪に定めることはないということです。律法を守れる、守れないがあなたを裁くことはなくなったのです。イエス様は「罪の本質は行動ではなく、心にあることを示され、心から従うので負ければ、律法を形式的に守ることはむなしい」と教えてくださいました。神様は、外側よりもむしろ内側を裁かれる方です。形式を守ることと、心から従うこととどちらが難しいでしょうか?

経済的に余裕があり、知識も豊かな人々にとって、律法を形式的に守ることは容易でした。心を込めてではなくてもできたのです。しかし、日常の暮らしに追われている人々にとっては簡単なことではありませんでした。神様に従いたい、すがりたいと思っても堂々と神様の前には出ることが出来ませんでした。しかしイエス様は、そんな状態を完全に変えてしまいました。ルカによる福音書の18章9-14節を読んでみましょう。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

わたしたちは主の十字架によって、神様から離れた人生を清算して新しく生きはじめたのです。もはや律法主義的に生きる必要はなくなったのです。誰でも重荷を負った人は私の所に来なさい。とイエス様は招いてくださいました。そこで、重荷はおろされ、代わりに自分に相応しいく荷物を負わせて下さる、というのがイエス様の約束です。それはあなたが豊かな実を結ぶために必要な荷物です。軽くはないかもしれませんが負いやすいものだとイエス様は保証していてくださいます。神様なしの人生とは、無意味な重荷を背負った苦しい道のりです。何も担うものがない人生、それは目的のない散歩のようなものです。イエス様と共に歩む人生とは、目的に向かってよく整理された必要な荷物を負って進む充実した、良い収穫を約束された歩みです。

2) この生き方を日常生活の中でどうあらわすか?

わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。 しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。(5-6)

日々を神様に従って歩いてゆくということは、与えられた規則やスケジュールにしたがってゆくことではありません。「どうしたら神様からの祝福をもっといただけるでしょうか?」「御心を知るためには何をしたら良いでしょうか?」牧師はよくこのような質問を受けます。ここにその答えがあります。「霊に従う新しい生き方」をしてください。多くの人は具体的な答えを期待しているのでがっかりさせてしまいます。「週に二回断食しなさい」「早天祈祷会や徹夜祈祷会に出席しなさい」「献金を倍にしなさい」大変具体的で分かりやすい答えですが、これらは律法主義的答えです

霊に従う新しい生き方とは、神様から良い答えを引き出すノウハウではありません。ただ主を信頼し一歩ずつ足を前に踏み出すことの繰り返しです。あまり意識せずにどんどん進んでゆける時もあります。しかし前に見える高い山に踏み出す気力がうせたり、危ないがけに足がすくんで動けなくなってしまったりすることだってあるのです。そのようなときでもイエス様をしっかりと見つめて進むなら、登れない山はありません。どんなに険しい道でも足を踏み外すことはないのです。

しかもあなたには、自分の信仰に自信がなくなるようなときでも、その人の信仰によって支えてくれる人々がいるのです。「キリストの体である教会にしっかりと繋がっていましょう。生きた枝になりましょう」と、私が毎週のように繰り返すのは、あなたが愛されていることを実感し、あなたが愛してほしいからです。そうであれば、律法主義はユアチャーチに入り込むことは出来ません。一人一人が文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えているからです。

メッセージのポイント

キリスト教は、ユダヤ教社会に生まれました。ユダヤ教の律法主義の限界をイエスキリストを主と信じる信仰によって乗り越えましたが、律法主義に陥る危険はクリスチャンにもあるのです。律法主義とは、規則を守ることが信仰であるという考えです。そしてそれは人を裁く道具になります。別の見方をするなら、規則さえ守っていればそれ以上に何かをする必要はないという考え方です。イエス様はそれを“愛”によって乗り越え、私達にも愛し合うことを命じられました。愛こそが律法主義を克服する唯一の鍵です。

話し合いのためのヒント

1) あなたの国の法律と旧約聖書の似ているところは、違うところは?

2) “霊”に従う新しい生き方とは具体的にどのような生き方を意味しているのでしょうか?