2005年5月1日メッセージ ローマの信徒への手紙シリーズ(16)

世にいて世に流されないために ローマの信徒への手紙8:1-17

 日本には5月病という言葉があります。日本では学校や会社の年度始めが4月なのですが、ゴールデンウイークが終わった頃、新しく始まった生活に耐えることが出来ず、学校へ行けなくなる人、仕事が続けられなくなる人が多く出る事から生まれた言葉です。良い(といわれている)学校、会社に入るためにそれまで続けてきた努力と得たものとのギャップが大きく無気力な状態に陥ってしまうのが原因だそうです。

 この社会には、納得のいかないこと、思い通りにはならないことがたくさんあります。それらはただそこにあるというのではなく、大きく速い流れのように私たちに襲いかかります。強い流れに対して人は三種類に分けられます。その流れに身を任せて流されてゆく人、耐えられずに飲み込まれてしまう人、そしてその流れに負けずに、流されも、飲み込まれもせずに信念に従って進んでゆくことのできる人の三種類です。クリスチャンになることは、三番目の種類の人生を歩むということなのです。今朝のメッセージの前半では、なぜクリスチャンにはそのような特権が与えられているのか?後半では、その特権を実際にどう用いていったら、流れに負けずに目的に向かって歩めるのか?についてお話しします。

A.神様によって変えられる

1) クリスチャン:罪と死との法則から解放された人々

 始めに1節から4節までを読みましょう

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。 キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。 肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。 それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(1-4)

 ここで「罪を犯すことはありません」といわれているのではなく「罪に定められることはない」といわれていることを先ず考えてみましょう。それは神様がクリスチャンに「完璧」を求めておられるのではないということを意味しています。私たちは忘れてしまいやすいのですが、罪という言葉は二つの側面を持っています。一つは、その本質:神様からの離反を指す言葉であり、もう一つは、神様から離れた状態が生み出す、神様を悲しませるような実際の行動です。罪に定められることがないというのは、あなたは、「その本質において、すでに変えられた」ということです。海外には、日本人でも既にその国の国籍を得て身分としては日本人ではなくなった人々が暮らしています。そのような人々の家に泊めていただくことがありますが、家に日本画が飾ってあったり、朝食はご飯と味噌汁と焼き魚だったりして、こっちに住んでいる日本人よりずっと日本的な暮らしをしていたりします。私が最初にアメリカに行った時は、そのような方たちにずいぶんお世話になったので、毎日毎日、こちらではあまり食べない日本食ばかりいただいていました。日本人の遺伝子は世界中どこにいても、ご飯と味噌汁を必要とするようです。

 私たちの国籍は天にありますが、罪に弱い体質は、この世にある限り持ち続けなければならないのです。どんなに体が強い人でも、時々風邪をひいたり、お腹をこわしたりするように、霊的な健康バランスも崩してしまう、罪を犯してしまうのです。もちろん、「あなたに相応しい者として罪を犯さないように私を作り変えてください」と祈り求めることは絶対、必要です。それが霊に従って歩むということです。神様はその願いに応え、少しずつ私たちを変えてくださるのです。

2) 肉に従って歩むなら

 私たちが、罪と死の法則から自由になり、キリストに結ばれているということは、もう肉に従って歩むことはない、ということです。5-8節を読みましょう

肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。 肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。 なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。 肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。(5-8)

 イエス様ご自身は弟子たちに、「心は燃えていても体は弱い」と警告されました。罪に定めないというのは私たちに対する神様の意思ですが、霊に従うか、肉に従うかは私たちの意志にかかっているのです。流されないだけの力を持っていても、その力を発揮しようとしなければやはり流されてしまいます。

3) 神様の霊はあなたの中に宿っている

 この力はどこから来るのでしょうか? 9節から11節に書かれています。

神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。 キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。 もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(9-11)

 キリストの霊を持つということは、聖霊の満たしとか聖霊のバプテスマといった感覚的なことではありません。それでは、何か特別な聖霊体験をしなければキリストに属さない者ということになってしまいます。聖霊に満たされるということについては、今朝は主題ではないので詳しくは話しませんが、教会の中でも意見が分かれる問題です。ある人々は、そんなことは使徒言行録の時代にだけ必要だったことで今の時代に求める必要はないと考えます。またある人々は、異言や預言、癒しや悪霊追放などのあらわれを強調し、その前提として聖霊を受けなさいと勧めます。誰もがイエス様を信じクリスチャンとなった時に聖霊はあなたの中に住み始めているのです。それでも聖霊に満たされるということは素晴らしい体験です。ですからミニストリータイムに聖霊に満たされるように祈ってくださいとリクエストしても良いのです。でもそれは、私の中には聖霊が住んでいないので、どうぞ来て下さいと呼び寄せることではありません。私がもっとあなたとあなたの力、賜物を意識できるように教えてくださいということです。

B. 霊に従って歩みなさい

 ここまで、激しい流れの中のような状況であっても、私達が正しく、力強く歩むことのできる根拠を、イエス様によるあがないのわざと、日々の聖霊の守り、導きによるものだとお話ししてきました。ここからは実践篇です。短く表現するなら、「霊に従い、神の子として歩むなら、どんな激しい流れにも負けずにわたりきることが出来る」ということをお話しします。先ず12-13節です。

1) 霊に対する私たちの義務

それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。 肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。(12-13)

 先週は洗礼式が行われました。バプテスマを受けた方々は心でイエス様を主と受け入れ、神様を信じ、その決意を人々の前で明らかにするためにバプテスマを受けました。心の中の確信は外からのぞいてみることは出来ませんが、その人が自分の口で「私の主はイエスキリストです」と表明することによって、人からもそれが明らかになります。イエス様は口で言い表すだけではなくバプテスマを授けることを弟子たちに命じています。それは言葉よりももっと人々の目にはっきりと分かるしるしです。これはそのバプテスマを授ける教会の、つまりキリストの体の一部になるという意味の儀式でもあります。イエス様は自分の体として地上に目に見える形で教会を与えてくださいました。教会につながることなしに「クリスチャンである」ということはありえません。イエス様はその体を通して私たちを養い、私達は彼の体として働きます。枝は直接地面に生えてはいません、幹を通し大地から水や養分を得るのです。枝は幹につながっていなければ花も実も葉ももつことは出来ません。「義務」という言葉が用いられていますが、文字通りの意味というよりも、「そのようなあり方でなければ生きられない」という意味で使われています。私たちが呼吸をして酸素を得ているようにです。これは誰かそうしなければいけないといわれてしていることではありません。かといって、自分で酸素がほしいから呼吸をしようと、好きな時に好きなだけしているというわけでもありません。

 母親の胎内にいるときの赤ちゃんはまだ自分で呼吸をしてはいません。酸素はお母さんの体を通して与えられているからです。しかしひとたび生まれた後は、自分で呼吸せずには生きてゆくことは出来ません。あなたの霊も同じです。あなたがただひとつの生物として、というのではなく、神様に似せて作られた人間として正しく生きたいと願うなら、霊的な呼吸も始めましょう。霊的な呼吸とはキリストの体:教会に連なることです。もしあなたが心でイエス様を主と信じていて、それをまだ誰にも打ち明けていないとしたらどうか今日、誰かにそれを伝えてください。そして、未成年で親が許してくれないとか、配偶者が許してくれないといった特別の理由がないのなら、洗礼を受けたいと伝えてください。次のバプテスマ&BBQは7月の海の日前後になると思います。

2) 神様の子供たちとして生きる

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。 あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。(14-16)

 パウロはここで、イエス様を長子とした神様の家族というイメージで、神様と私たちの関係を説明しようとしています。イエス様が十字架でしてくださったことは、私達を神の子と呼ばれる身分に引き上げてくださったことだったのです。イエス様とは異なり、養子ではありますが、神様は私たちを本当の子供のように扱ってくださるのです。「アッバ、父よ」それは、お父さんとかパパとかダッドとか、つまり子供が、大好きなお父さんを呼ぶときの呼び名を神様に向かってすることができるということです。私たちは自分たちとのギャップを感じながらつい、恐る恐る「天の父よ」なんて呼びかけてしまうのですが、神様はあなたに「お父さん」と呼んでもらいたいのです。

 子供は、働きの対価として賃金を得る雇い人でも、負債を自分自身の労働で返す奴隷でもありません。私たちが神様の働きを担っているのは、そうしないと糧を得られないからでも、強制されてでもありません。子供がお父さんの手伝いを楽しげに、喜んでするように、私達は働きを担っています。子供の仕事です。力も弱いし、失敗もする。でも神様はそんなことをとがめたりはなさいません。神様の存在を喜び、共にいられることを喜び、神様のために働くことを喜んでいること、こそ「流されない人生」「飲み込まれない人生」の基本です。それでは最後の17節を読みましょう

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。(17)

 この相続人という言葉を見て私がいつも思い浮かべるのは、ルカによる福音書15章の「放蕩息子」のたとえです。放蕩息子は自分の受け継ぐべきものを、自分の欲望によって使い果たして父のもとに帰って来ました。神様を信じる前の私たちの生き方そのものです。私の時間、私の能力、私のお金、それらはすべて神様の恵みによって与えられたものでした。それを与えてくださった神様の、最も悲しまれる罪に従うために浪費してきたのです。私たちはそれらをみな使い果たし父のもとに帰って来ました。神様が私たちを赦して下さると言うことは、それでもまだ私たちには受け継ぐ分が残されているということです。

 クリスチャンの歩みは、楽しく楽な時ばかりではありません。クリスチャンとして歩もうとするばかりに、苦労し、周りから誤解され、いっそのこと流れに身を任せたらどんなに楽だろうと思ってしまうことだってあるのです。そんな時にこそ、思い起こしてください。神様はあなたに無駄な苦しみを与える方ではないということを。渡りきる力が与えられているということを。渡りきった時に与えられる栄誉を。

 私たちは今、キリストの苦しみを共に受けています。 そしてキリストの栄光を共に受けようとしているのです。

メッセージのポイント

私たちがしばしば持て余してしまう自分の中にある神様に喜ばれない思いを、ここでは「肉の思い」と表現しています。そしてその反対が「霊の思い」です。私たちの身分はイエス様を主と信じ歩み始めることによって、「罪の奴隷」から「神の子供」に変わりました。けれどもその内実は、少しずつ変えられてゆくものです。「肉の思い」は一瞬にして消え去ってはくれませんが、がっかりする必要はありません。大切なことは、イエス様を見上げ続けること、祈り続けること、聖書の言葉を読み続けることです。

話し合いのためのヒント

1) 聖霊があなたの中に住んでおられるということを実感できますか?

2) 肉に従って歩むとは?霊に従って歩むとは?