2005年5月8日メッセージ ローマの信徒への手紙シリーズ(17)

クリスチャン=希望の人 ローマの信徒への手紙8:18-30

A. 今の世界に絶望してはいけない

1) 神様に造られたものすべての期待がクリスチャンに向けられている (18-22)

 先週は、先々週の関西での電車の事故に関連する事柄がいくつも報道されました。同じ電車に乗り合わせていたJR社員が救助作業に加わらなかったとか、JRの他のセクションでは事故を知りながら勤務時間にボーリングトーナメントをしていたとか、会社の体質が問われているようです。

けれども私はJR関西だけが特別にひどい会社ではないと思っています。会社でも、政府でも、事故を起こしたり、人の命が軽く扱われたりすることが起こるのです。病院では不注意のために医療事故が、学校の中でさえ殺人事件が起こる!

このことに関して、皆さんに良いお知らせと悪いお知らせがひとつずつあります。良いニュースは、日本だけが異常なのではないということ。悪いニュースは、この地球のどこに行こうとこのようなことからは逃れられない。ということです。

すべての悪は、どこか地球の外からやってくるのではなく、人の心の罪がもたらすものだからです。一人の独裁者の欲望から始まった悪が、何百万人もの人々の命を奪ってからまだ60年くらいしかたっていないのに、ヒトラーを英雄のように考える人々が沢山います。すべての国、すべての地域で、悪は力を発揮できます。人は他人の過失を責めますが、自分の心の罪は認めたくはありません。

先週こんなこともありました。一人の女性が、ひき逃げされてなくなられたのです。彼女は交通の激しい車道を不注意にわたっていたのではありません。寝室で眠っていたのです。事故を起こしたのは、酒を飲んで運転していた人でした。誰だって、酒に酔って運転したら事故を起こすかもしれないとう事ぐらい知っています。それでも「自分だけは大丈夫」という過信(これは立派に?罪の性質です)を抑えられずに人の命を奪ってしまうことになりました。人間の歴史が始まって以来変わらない問題なのです。18-22節を読みましょう

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。 被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。 被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。 つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(18-22)

それでも私たちは、世界に絶望してはいけないのです。神様が造られたすべてのものが、神様の意思を行う者が力強く働くことを待ち焦がれている、ということがこの個所に示されています。クリスチャンは、正しいことを言い過ぎるとか、裁きたがる、禁止したがると誤解されて、一見、この罪の世では歓迎されていないかのように見えるかもしれません。それで自分がクリスチャンだということも、あまり周りの人には言えない、と思っているクリスチャンも多いのです。しかし、地球上の神様に造られたすべてのものは、解放軍を待ち望む捕虜のように、クリスチャンに期待しているというのです。

クリスチャンを歓迎しないのは人々ではなく、その人を支配している罪だということを忘れないで下さい。彼らのためにも私たちが絶望してしまうわけにはいきません。期待は私たちにかかっているのです。

サタンは、多くのクリスチャンに「自分は弱く、小さく、神様の期待には応えられないクリスチャンだ」と思い込ませることに成功しています。もしあなたがそう思っているなら、今、目を覚ましてください。「あなたは、弱くて小さくて役に立たないクリスチャンではありません!」

2) 多くのものを得てはいるが、まだ完成していない私たち (23-25)

23-25節を読みましょう。

被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。 わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。 わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(23-25)

私たちが、「自分は弱くて小さくて役に立たないクリスチャンだ」と思い込んでしまいがちな理由のひとつは、イエス様の素晴らしさが今の自分には現れていない、と思えてしまうからです。しかしこの部分では、私達が自信を持っていいという根拠は、既に持っているものではなく、まだ見えていないが約束されている、ということにある、と教えてくれています。私たちが神の子と認められているのは、私達が素晴らしくなったからではなく、素晴らしくされるという希望を持っているからです。

あなたは、映画のシーンで見たことがありませんか?誰かがあなたに、小切手を書いているところです。「君は、いくら必要なのかね?」そしてあなたが、いただけるだけほしいと答えると、彼は、金額を書かずにサインだけして「では君が好きな金額を書いて、銀行で変えてもらいたまえ」といったシーンです。そういう小切手がほしければ、いつでも私が書いてあげますが、それに100万円以上の金額を書いて銀行に持っていっても、残高不足で現金化することは出来ません。しかし神様の小切手はそうではありません。本当にあなたに必要なだけの力を神様は既に与えてくださっているのです。問題は、あなたがいただいていることを信じて、大胆に行動に移すかどうか?ということです。神様はあなたの財布(能力、人格)が不足気味なことはよく御存知です。なぜなら神様はご自身の無限の富をあなたに委ねておられるからです。同じように自分に不足を感じていても、それがやがて充足されると知っているのと、その当てがないのとでは大違いです。

 クリスチャンが、どんなに悲惨な状態の中でも、どんなに自分が小さく弱いものであっても、希望を持ち続けられるのは、神様と共に歩んでいるからです。「共に歩んでいる」そう、それはまだ目的地には到着していないということでもあります。到着していないばかりか、いつになったら見えてくるのかさえ分からなくても、神様と共に喜ばしく歩むことが出来る。それこそがクリスチャンの特権ではないでしょうか?

B. 聖霊様は活躍しておられる

1) 聖霊様の力によって (26-27)

このことは決して、神様と共に歩いていると「思い込む」ことではありません。26-27節を読みましょう

同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。 人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。(26-27)

神様の霊、聖霊は日常の中で、力を発揮してくださる霊です。特に私たちの神様への祈りをサポートしていてくださる。という点がここでは強調されています。ここで私たちは神様との関係においては、自分の感覚に頼らなくてもよいということがわかります。祈れないときがあってもよいのです。共に祈りあうことの出来る人が、いつでもいることはすばらしい事です。しかし、一人ぼっちで、しかも神様がはるか遠くに思えるときでさえ、神様の霊はあなたに寄り添っていて下さいます。

2) すべてのことは、最終的に益となる布石 (28)

ここまで聞いてきても、まだ希望が持てない人は、これから読む28節に赤いペンで線を引いて、今週何度も憶えてしまう位に声を出して読んでみてください。

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(28)

あなたは神様を愛していますか?それは聖書が教える生き方の中心です。神を愛することなしには、本当に人を愛することも、自分を愛することもできない。それは聖書が教える真理です。

注目していただきたいのは、神を愛する者たち=御計画に従って召された者たち、と書かれている点です。皆さん、もしあなたが誰かに「自分は誰よりもあなたを愛している」と知ってもらいたければ、あなたはあなたのベストをその人につくすのではありませんか?神様に対しても同じです。神を愛するとは、自分は神様の計画が実現するために選び出され、それに喜んで従って歩いている、ということです。あなたがそのように歩んでいるなら、目の前の困難でさえ益に変られる、ということを確信していることができます。これは究極の楽天主義です。あきらめでも、気休めでもない、神様の保証付きの楽天主義です。楽天イーグルスの田尾監督に教えてあげたいくらいです。

C. 神様の計画は進行中

1) 私たちを主と同じ姿に作り変える計画 (29)

私たちは時々すべてを投げ出してしまいたくなりますが、神様は違います。その神様の計画とは、私たちを主と同じ姿に作り変える計画です。29節を見てゆきましょう。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。(29)

皆さんの中に、もう自分の人生のピークは終わった。あとは坂道をころがり落ちてゆくだけだなんて思っている人はいないでしょうか?あるいは余世をのんびりすごそうとか?残念ながら、それは神様のお考えではありません。クリスチャンには与えられた人生(与生)はあっても、余りの人生(余生)はありません。成長はあなたが天国に移されるまで続きます。

神様の計画は本当に進行しているのか?何も動いていないのではないか?不安になる人がいます。そんなことはありません。あなたが気付かないだけなのです。皆さんの中にもう少し身長があったらいいなあと思っている人はいませんか?もし神様が、あなたにこれから毎年1センチづつ身長を伸ばしてあげようとおっしゃったらあなたはどう答えますか?「えーたった1センチ、もっとお願いしますよ」といいますか?それは止めたほうがいいですよ。1センチでも30年たてば身長160センチの人が190センチになってしまいます。一年に一ミリくらいがちょうどいいのではありませんか?神様はあなたに相応しい成長のペースを御存知です。あせらず、急がず、神様を信頼して歩んでゆきましょう。

2) 選び出され、義とされ、栄光を与えられている私たち (30)

30節には28節で出てきた「召される」という言葉が「召し出された」と表現を変えて再び登場します。

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。(30)

召される、召し出されるは、新約聖書が書かれたギリシャ語でカレオーと発音する言葉です。英語のコールよりも、「離れたところから呼び出される」という意味が強い言葉です。それはつまり、神様は気まぐれに目についたあなたに声をかけて、一緒に来ないと誘ったのではないということです。そうではなく、神様とは遠くかけ離れた罪の世界からあなたを選び、そこから引き離して神の子とされたということを意味しています。私たちが「教会」と言っている言葉は、聞いたことがある人もいると思いますが、ギリシャ語でエクレシアといいます。このカレオーが元になった言葉で元々の意味は「神様によって世から呼び出され分離された集まり」ということです。ここに教会と、それ以外の人が自分の意志で集まった団体との大きな違いがあります。

最後に、ここに記されている神様の順番に目を留めましょう。神様は正しい者を召し出したのではなく、召し出した者を正しい者とし、栄光、つまり神様の輝き、もっと砕いて言うなら、神様から来る魅力を、キリストの香りを、あなたに与えておられる。ということです。あなたは正しいから招かれたのではありません。ありのままのあなたが招かれ、神の子という身分を与えられ、日々成長させられ、魅力的になって行くのです。それがあなたの希望の根拠であり、その希望は惜しみなく人々に与えることができるものなのです。

メッセージのポイント

私たちの周りには、未来に向かって希望が持てないようなことが沢山あります。世界規模の紛争や自然破壊、テロや犯罪、身近な人間関係の問題、自分自身の状態、どれを見ても、明るい将来はあるのかと考え込んでしまいます。けれども私たちはイエス様に従うことによって、希望を持つ人、希望を与える人に変えられていることを忘れてはいけません。みたところ、世界は多くの問題によって希望の光は隠され、絶望の闇に覆われているかのようです。神様はこの世界に、あなたを「希望の光を掲げる者」としてお立てになりました。一本のたいまつは弱く頼りなさそうでも、聖霊様は決してその火が消されることを許されません。たいまつを掲げているのはあなただけではありません。クリスチャン一人一人が掲げているのです。この光が明るさを増し「神の国」という夜明けが来るまで、希望の光を人々に差し出し続けましょう。

話し合いのヒント

1) 現在の苦しみの原因は何ですか?

2) 神様はどのような方法ですべての被造物を解放なさるのでしょう?